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私は侯爵夫人を降ります 〜乳姉妹を家族同然と呼ぶあなたへ〜  作者: 秋月 もみじ


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第2話 春の夜会、譲られた隣席


 王都の夜会へ向かう馬車の中で、私は誰の腕も取っていなかった。


 向かいの席に夫が座り、その隣にリゼットが座っている。リゼットの白い手が、夫の上着の袖口に軽く触れていた。手袋の刺繍はヴァランタン家の家紋に近い意匠で、けれど色だけが少しずれている。なぜずれているのか、私は知っている。三日前、リゼットが「家紋の刺繍を入れたいの」と言ったのを、お止めしなかったからだ。家紋は当主の許しがいる、と一度だけ夫に申し上げた。夫は「そんなに大げさに考えることじゃない」と笑った。それで終わってしまった。


「セディ、夜会ってどんなふうに挨拶すればいいの?」


「俺の隣にいれば大丈夫だよ。順番に名前を覚えていこう」


 リゼットは公の場では一応「私」と言うことになっている。今、馬車の中で「あたしね、緊張しちゃう」と続けたのは、彼女の中では公でも私でもない、夫と二人だけに通じる声だ。私はその世界の壁紙くらいの厚みしか持っていなかった。


 窓の外を見た。


 王都の夜は、香水と松明の匂いがする。三年前、嫁いだ年の春に初めてこの夜会へ来た時、私は夫の右腕を取って馬車を降りた。エスコートの作法を間違えないように、前夜に廊下で何度か練習した。あの夜の私の手袋の家紋は、ずれていなかった。


 会場の前で馬車が止まり、扉が開いた。


 夫が先に降り、振り返って手を差し出した。差し出された先にはリゼットの手があった。リゼットが微笑んで、夫の手に自分の手を重ねた。私は馬車の中で、もう一度だけ自分の手袋の指先を整え、それから自分で扉のそばの段に足を置いた。降り際、御者が小さく目を伏せたのが見えた。


 会場入口の進行役は、私の顔を見て一度、迷うように席次表を確かめた。


「ヴァランタン侯爵夫人さま、こちらへ……」


 侍従の声が、案内の途中で止まった。視線が、私と席次表の間を行き来する。手元の羽根ペンを取り上げて、表に何か小さく印をつけた。それから別の侍従を呼んで、低い声で耳打ちをした。


「申し訳ございません」と、戻ってきた侍従は言った。「お席のご準備に、少々お時間を頂戴いたします」


「分かりました」


 私はそれだけ答えた。


 会場の中央には、すでに夫とリゼットが案内されていた。夫の右側の席に、リゼットが座っている。本来そこに用意されているはずだった私の名札は、見当たらなかった。


 私が案内されたのは、夫の席から数えて七つ離れた末席だった。


 椅子の背に、私の名札が掛けられている。文字は丁寧に書かれていた。けれど、書かれている場所が違った。


 座らなかった。


 末席の前に立ち、扇を閉じる。骨が一本歪んでいることに、また気づいた。三周年の朝にも気づいて、そのまま閉じた扇だった。私はもう一度だけ、開かずに閉じたまま手の中で握り直した。


「アデライン様」


 声を掛けてきたのは、ベアトリス侯爵夫人だった。社交界で長く中央にいらっしゃる方で、三年前の私の嫁入り披露の時には、夫人席の中ほどに座ってくださっていた。


「控室で、少し涼んでいらしては?」


 ベアトリス様は、扇を半分閉じたまま私のほうへ寄せた。扇の陰で、目だけが私を見ていた。目礼の代わりだった。


「ありがとうございます」


 私は彼女に従って控室へ向かった。背中で、会場のざわめきが少しだけ低くなった気がした。気のせいかもしれない。


 控室の入口で振り返った時、会場の遠い角に、年上の紳士が一人立っているのが見えた。文官の上着を着ている。視線がほんの一瞬だけ、私のほうへ向いた。すぐに逸れて、手元の書類のようなものへ戻った。誰だろうか、と思ったが、ベアトリス様が扉を支えてくださっていたので、振り返らずに中へ入った。


 控室には他にも貴婦人が数名いた。誰も、声を高くしては話さなかった。茶器の触れる音と、衣擦れだけが続いていた。私が腰を下ろすと、向かいの夫人が一度、自分のカップに視線を落とした。何も尋ねなかった。それが、たぶん最も親切な対応だった。


「アデライン様」


 ベアトリス様が、私の隣に座って、少しだけ声を低くした。


「ご無理なさいませんよう」


「ありがとうございます」


「あの席次表ですけれど」


 そこで、彼女は一度言葉を切った。


「三年前のあなた様のお席は、もう少し前のほうでしたわね」


「……はい」


「覚えております」


 それだけだった。次の話題には移らなかった。私はその次の話題に移らないという選択を、たぶん、生涯忘れない。


 夜会が終わり、帰路の馬車の中で、夫が言った。


「君なら分かってくれると思う。リゼットは王都の夜会が初めてだから、隣にいないと不安だろう」


 夫の声は、苦笑混じりで、優しかった。三年前、私を朝食室で迎えてくれた時とほとんど同じ響きだった。


 私は、返事をしなかった。


 返事をしないという選択が、自分にもできるとは知らなかった。それが分かっただけでも、今夜の夜会には来た意味があったのかもしれない。


 馬車の窓の外で、王都の松明が遠ざかっていく。リゼットが、夫の肩に頭を預けて眠そうな顔をしている。夫はその髪を一度だけ、撫でた。


 私は扇を、もう一度だけ握り直した。


 骨が一本歪んでいる扇のまま、私は朝までこの夜を覚えていることになる。

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