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私は侯爵夫人を降ります 〜乳姉妹を家族同然と呼ぶあなたへ〜  作者: 秋月 もみじ


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第1話 三度目の春、空席の朝食


 朝食室の卓には、皿が一枚も並んでいなかった。


 侍女のミレナに髪を整えてもらい、夫の好む薄紫の朝着に着替えるのに、いつもより少しだけ時間をかけてしまった。三度目の春が来た朝だ。私はそういう、丁寧にしすぎる癖がある。化粧台の前で、ミレナの指がそっと頬紅の刷毛を払う。鏡の中の自分を、私は一度だけ確かめる。三年前の春、ヴァランタン家に嫁いだ朝も、たしか同じ色の朝着を着ていた。あの時の私は、もう少し前のめりに座っていた気がする。


 階下へ下りる廊下の窓から、梨の花が見えた。


 三年前の春にも咲いていた花だ。嫁いだ朝の私は、花の香りが書斎まで届くということを知らなかった。今は知っている。三年分の業務日誌を読み返せば、いつ、どの季節に、屋敷のどの部屋が一番過ごしやすいかまで、ぜんぶ分かってしまう。本当は、知らなくてもよかった種類の知識だ。


 朝食室の扉を開けた時、湯気は立っていなかった。


 卓の上にあるのは、磨かれた銀器と、白い卓布だけだった。皿は片付けられている。私の席の隣、夫の席にも、何もない。


「奥様、申し訳ございません」


 侍女頭のベルタが、いつもより一拍遅れて頭を下げた。給仕用の盆を、私の視線から少しだけ隠すように下げる。盆の上には、二人分の食器が伏せて重ねられていた。


「もう、お済みになって?」


「……庭の薔薇園のほうへ、お出かけになりました」


 ベルタは私のほうを見なかった。皿を厨房へ戻す途中で、廊下の足音を聞いて立ち止まったのだろう。ブランシェ家の本邸に長く勤め、私の嫁入りに従ってこの屋敷へ来た侍女頭は、こちらが何も尋ねなくても、いま何を聞かれているのか分かる人だった。


「お二人で?」


「はい、奥様」


 短い返事のあとで、盆がほんのわずかに揺れた。


 私は自分の席の椅子を一度だけ引き、座らずに押し戻した。卓の隅に、小皿が一枚残されている。料理長セバスチャンが用意したのだろう、三周年の朝に夫と祝うはずだった蜂蜜菓子が、二切れだけ取り分けられていた。誰のために残されたのか、誰の手にも渡らなかったのか、それは私にも分からなかった。


「ベルタ」


「はい、奥様」


「私の朝食は書斎へ。料理長に、急がせなくていいと伝えて」


「かしこまりました」


 ベルタは深く礼をした。視線が上がる前に、私は朝食室を出た。背中で扉が閉まる音を聞いてから、廊下の壁に少しだけ手を触れた。石の感触が、今朝はやけに冷たく指に届いた。


 廊下の途中で、庭の笑い声が窓越しに聞こえた。


 リゼットの声だ。乳姉妹の男爵令嬢、ローレル家のリゼット様。夫が「家族同然なんだ」と言って屋敷に長く滞在させている、三歳年下のお嬢さんだった。


「セディ、見て、苺がもう色づいてるの」


「ずいぶん早いな。セバスチャンに頼んで、何か作ってもらうか」


 夫の声が、苦笑混じりに答えていた。三年前、私を朝食室で迎えてくれた時の声と、似ていなくはない、優しい響きだった。違うのは、その優しさが向けられている相手だけだ。


 私は窓のそばを通り過ぎながら、手にしていた扇を一度だけ開いた。骨が一本だけ、少し前から歪んでいたことに気づく。気づいて、そのまま閉じた。直す時間はない。直してくれる相手も、今朝はいなかった。


 書斎の扉を開けた時、机には書状の山があった。


 それは三年前の私には信じられない量だった。新妻として嫁いだ春、書斎で仕事をするとは思っていなかった。けれど夫が領地の収支に苦手意識を持っていると知り、義母エレオノール様が領地の離れに隠居なさったあと、誰かが帳簿を整えなければならなくなった。私はその誰かを引き受けた。三年たった今、屋敷で帳簿を読めるのは、私だけになっていた。書斎の片付けと書状の写し取りは、ベルタがいつも手伝ってくれていた。


 積まれている書状の一番上に、宰相府の封蝋があった。


 封を切る前に、差出人を確かめる。


 ロードヴィック伯爵 アンセル様。


 その名を見て、私の手が止まった。


 義母様の弟君だ。宰相府の上級文官をお務めだと、嫁入りの挨拶状を整えた時に名簿で見た覚えがある。直接お会いしたことはない。義母様の身内、というだけの距離だった、これまでは。


 なぜ、私宛なのだろう。


 宰相府からヴァランタン家に届く書状は、本来であれば当主である夫の名で届く。けれど、この封筒の宛名にあるのは「ヴァランタン侯爵夫人」とだけ書かれた、私の名だった。役職ではなく、私個人を呼び出している。


 封を切らないまま、隣の書状を確かめる。


 モリエ商会主からの春の挨拶状。これは三年前から毎春、私宛に届く。最初の春、夫の代わりに返事を書いた時から、商会主は私の名で挨拶状をくださるようになった。封蝋の色は、嫁入り直後に私が指定したヴァランタン家の正式な深い赤。三年たっても、商会主はその色を間違えなかった。


 私は机の一番下の引き出しから、三年分の領地帳簿を取り出した。表紙には日付以外、何も書かれていない。古い順に頁を繰った。


 春の贈答先一覧。夏の領地視察の支度。秋の収穫祭への寄付配分。冬の社交期の招待状管理。三年分のどの頁にも、私が判断して動いた跡があった。


 署名欄には、一度も私の名前が書かれていなかった。


 すべて「ヴァランタン侯爵 セドリック」の名で記されている。


 帳簿を閉じた手が止まる。


 三年分の数字の中に、私の名前は一度も書かれていなかった。


 扉の向こうで、ベルタが盆を運んでくる足音がした。湯気の立った紅茶の香りが、扉の隙間から先に届く。


 宰相府の封筒は、まだ開けていなかった。


 差出人の名を、私はもう一度だけ見た。

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