第4話 私はもう女主人ではありません
食堂で、明日の献立を決めているのは私ではなかった。
宰相府から戻った三日後の午後だった。屋敷の使用人に呼ばれた覚えはなかったのに、廊下の途中で、開いた食堂の扉から声が聞こえた。
「明日は鴨をお願い。セディが、苺の砂糖煮を添えるのがお好きだから、それも一緒に出して」
リゼットの声だった。公の場で使う「私」の口調ではなく、馬車で使うほうの「あたし」が混じっている。屋敷の中はもう、彼女にとって馬車と同じくらい私的な場所になっているらしい。
料理長セバスチャンの声は、すぐには返らなかった。
「……ローレル男爵令嬢さま」
セバスチャンは三十年このヴァランタン家で勤めてきた料理長だ。声色はいつもどおり礼儀正しかったが、語尾が一拍だけ長かった。
「明日の献立は、奥様にご相談してからお決めすることになっておりまして」
「あら、そう。じゃあアデライン様に聞いてくれる? でも、セディも私の言うとおりにしてって言ってたから、たぶん大丈夫よ」
セバスチャンは何も答えなかった。
私は廊下の角から、食堂の中をのぞいた。リゼットは私の席に座っていた。三周年の朝に皿の並ばなかった卓の、私の側だった。卓布の白さは、相変わらず磨かれすぎていた。
セバスチャンが顔を上げた。視線は厨房の入口へ向くかと思ったら、廊下の私のほうへ流れた。一度だけ、はっきりと、私を見た。
私は何も言わずに、廊下を戻った。
リゼットを止めなかった理由を、自分でも一つだけしか挙げられない。明日の献立をどう変えても、明後日のリゼットを変えられないからだ。
書斎へ戻る途中で、廊下の窓から梨の花が見えた。
宰相府の庭で見たのと同じ匂いがするはずだ。けれど、ここで嗅ぐ匂いには、三年分の業務日誌の頁の音が混ざっていた。私は窓のそばで一度だけ扇を開いた。骨が一本歪んだままだった。直す時間は、もう取らないことに決めた。
書斎に入ってから、ベルタを呼んだ。
ベルタはいつもより少し早く現れた。長くブランシェ家に勤め、三年前に私に従ってこのヴァランタン家へ移ってきた侍女頭は、屋敷の中で誰よりも先に私の足音を覚える人だった。
「奥様、お呼びでしょうか」
「ベルタ。今から申し上げることを、屋敷の者にもおいおい伝えてほしいの」
ベルタが一度、扇の骨ほどの細い指で、自分のエプロンの端を整えた。
「はい」
「私はもう、この屋敷の女主人ではありません」
書斎の中の空気が、止まったわけではなかった。けれど、何かが、いつもとは別のところで動いていた。書類の上のインクが、空気の流れに微かに反応したのが見えた。それくらいの動きだった。
「奥様、それは……」
ベルタが言葉を詰まらせた。最後の音が、喉のずっと奥で潰れた。
「私のためではないの」
私はもう一度、ゆっくりと言った。
「屋敷の混乱を避けるためです。今後の差配は、あの方と相談してお決めください、と料理長や使用人に伝えてください」
「あの方……」
ベルタは私の言葉を、自分の口の中でもう一度繰り返した。
「ローレル男爵令嬢さまでございますか」
「お名前を口に出す必要は、本来はないわ。あの方、で通じる場面ならそれで」
「奥様」
ベルタの声が、わずかに揺れた。三年前、嫁入りの朝に廊下で私の薄紫の朝着の襟を直してくれた時の手と、同じ揺れだった。
「それは、私には」
「あなたには分かっていると思っているから、頼むの」
「……はい」
ベルタが深く頭を下げた。深すぎる、と私は思った。礼儀の中の頭の下げ方ではなかった。自分の額を、書斎机の縁にまで押し付けたいような下げ方だった。
「もう一つ、ベルタ」
「はい」
「お義母様に、書状を送ってください。あなたの判断で書いていいわ。私が頼んだ、とは書かなくていい。あなたが見ていることを、お義母様はずっとお信じになっていらした」
「……かしこまりました」
ベルタは深く一礼してから、書斎の扉のほうへ下がった。扉の取っ手に手を掛けたところで、一度だけ振り返った。けれど、何も言わなかった。扉が閉まる音が、屋敷の中で一番大きく聞こえた。
私は机に戻り、三年分の帳簿を引き出しから出した。出して、開いた。署名欄に夫の名が並んでいる。各頁の余白に、私の筆跡で書かれた数字。自分の名前のないところで仕事をしてきた三年分が、紙の束として机に積まれている。
それを今夜、写すことにした。
写しを取らない理由が、もう一つもなかった。
夜になって、ベルタが盆を運んできた。盆の上には、夕食ではなく、一通の封書だった。
「先ほど、宰相府からお届け物が」
宰相府、と聞いて、私は一度だけ息を止めた。けれど、差出人を見て、止まった息の意味が変わった。
封筒の表紙は、宰相府の公式用紙ではなかった。
ロードヴィック伯爵家の家紋が、片隅に小さく押されている。私的な便箋だった。
中の便箋も、一枚だけだった。
「ご無理をなさらぬよう」
それだけ書かれていた。
文末に署名はなかった。けれど、字を見れば差出人は分かった。三年分の書類の余白に、私と同じ几帳面さで校正の印を入れてきた、あの方の字だった。
「奥様、お返事は」
「いいえ」
私は便箋を、机の引き出しに静かに入れた。
「お返事はしないわ。お読みしました、というだけのことだから」
ベルタはもう一度礼をして、盆を持って下がった。
書斎の扉が閉まる音が、今度は、屋敷の中で二番目に大きく聞こえた。
ベルタが書いた書状の封蝋が、いつもよりわずかに滲んでいるらしい、と私の耳に届いたのは、お義母様の手元へ届いた頃のことだったかもしれない。屋敷を出る前のベルタは、書斎の隅で短い時間、自分の指先を一度だけ握りしめていた。




