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#07 世界の違和感

屋上でのあの一件から一夜が明け、世界は明らかに「風邪」を引いていた。


朝、教室の扉を開けた瞬間から、その強烈な違和感は始まった。

俺の席に群がっていたクラスメイトたちが、一斉にこちらを睨みつける。そこまではいつも通りだ。だが、彼らの行動と、発する言葉が、ちぐはぐにバグを起こしていたのだ。


「おい瀬戸! お前みたいなゴミクズには、これがお似合いだ! ありがたく受け取れ!!」


男子のリーダー格である吉井健二よしいけんじが怒鳴りながら、俺の机に乱暴に何かを叩きつけた。

泥だらけの雑巾か、それともゴミの詰まった袋か。そう思って視線を落とした俺は、思わず目を瞬かせた。


机の上に置かれていたのは、可愛らしいウサギの柄のハンカチで丁寧に包まれた、手作りの『タマゴサンド』だった。しかも、ほんのりと温かい。


「……えっ?」

吉井くん自身が、叩きつけたタマゴサンドを見て一番驚いた顔をしていた。彼は自分の手を信じられないものを見るように見つめ、顔面を蒼白にしている。


「吉井くん。これ、俺にくれるの?」

「ち、違う! 俺はゴミ箱から拾った腐ったパンを……ッ! なんで、俺の今日の昼飯が……!」

吉井くんはパニックを起こし、自分の頭を掻きむしった。


「そ、そうよ! あんたなんか、これでもくらって反省しなさいよ!!」

今度は斎藤結衣さいとうゆいが、花瓶に入った水を俺に向かって勢いよくぶちまけた。


――バシャッ!


と、音が鳴るはずだった。

しかし、俺の顔面めがけて飛んできたはずの水は、空中でキラキラと光る『桜の花びら』へと変換され、俺の頭や肩にふわりと優しく降り注いだのだ。


「……うそ。なんで、テクスチャが……書き換わって……っ」

斎藤さんは空になった花瓶を落とし、へたり込んだ。


教室中が騒然となる。

「おい、どうなってんだよ! 物理エンジンが狂ってんぞ!」

「ログアウトできない! メニュー画面が開かないんだけど!?」

「システム介入の反動よ! 昨日のエラーコードがまだ修復されてないの!」


飛び交う言葉は、まるでSF映画の撮影現場か、オンラインゲームのバグに巻き込まれたプレイヤーたちのようだった。

俺は頭についた桜の花びらを一枚手に取り、吉井くんのタマゴサンドをそっとカバンにしまった。


「ありがとう、吉井くん、斎藤さん。二人とも、本当はすごく優しいんだね」

俺がいつものように微笑むと、二人はまるで幽霊でも見たかのように悲鳴を上げて後ずさりした。


「違う! やめてくれ! その顔で笑うな!!」

吉井くんが叫んだその時、教室の前のドアがガラッと開いた。


「……そこまでだ。全員、席につけ」

担任の早乙女さおとめ先生だった。

白衣を羽織った彼の目の下には、これまで見たこともないほど濃い、どす黒いクマが刻まれていた。頬はこけ、まるで何日も徹夜で大手術を終えた直後のような疲労感が漂っている。


「先生……! どうなってるんですか! プログラムがめちゃくちゃです!」

如月澪きさらぎみおが悲痛な声で訴えかけるが、早乙女先生は力なく片手を上げてそれを制した。


「わかっている。昨日の『強制介入』による負荷で、メインサーバーに甚大なエラーが発生している。今、外部のチームが必死でパッチを当てているところだ。お前たちは……極力、イレギュラーな行動を避けて待機しろ」

「待機って……こんな状態で、どうやって『いじめ』を継続しろって言うんですか! もう限界ですよ!!」


如月さんの叫びを無視し、早乙女先生はまっすぐに俺の方を見た。

「瀬戸。お前は……保健室に来い。少し、話をしよう」




早乙女先生の後ろを歩きながら、俺は廊下の景色に目を奪われていた。

窓の外の景色が、数秒おきに「昼」と「夕方」をチカチカと繰り返しているのだ。カレンダーのポスターは文字が文字化けして解読不能になり、すれ違うはずの他のクラスの生徒たちは、顔がのっぺらぼうのようにぼやけていた。


「先生。この学校、どうなっちゃったんですか?」

俺が尋ねると、前を歩く早乙女先生は立ち止まらずに答えた。


「崩壊しかかっている。お前が、昨日『境界線』を越えかけたせいでな」

「境界線……屋上のことですか?」

「あぁ。本来なら、あそこでお前は俺たちを『憎み』、この狂った世界を『拒絶』して目覚めるはずだった。だが、お前はあいつらを許し、あいつらはお前を助けてしまった。……その矛盾が、この仮想空間システムの根幹を食い破り始めている」


仮想空間。システム。

その単語を聞いても、俺の心は不思議なほど冷静だった。

昨日、屋上で空に走った亀裂を見た時から、薄々勘付いていたからだ。ここが、本物の現実ではないということに。


保健室の前に着く。早乙女先生がドアノブに手をかけた瞬間だった。

――ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。


ドアの向こうから、無機質な電子音が聞こえた。心電図のモニター音だ。

早乙女先生がドアを開けると、そこは埃っぽい学校の保健室ではなく、真っ白な壁と無数の医療機器に囲まれた『集中治療室』だった。

ベッドの上には、無数の管に繋がれ、酸素マスクをつけた痩せ細った青年が眠っている。


「えっ……?」

俺が息を呑んだ瞬間、ノイズが走り、視界はいつもの古びた保健室へと切り替わった。ベッドには誰もいない。


「今のは……」

「お前の『現実リアル』の姿だ、瀬戸遥人」


早乙女先生はパイプ椅子にどかと腰を下ろし、白衣のポケットからタバコ……ではなく、医療用の注射器を取り出し、机の上でクルクルと弄び始めた。


「先生は、本当は医者なんですか?」

「あぁ。10年前、お前が運び込まれた病院の主治医であり、この『意識覚醒治療リジェクション・プロトコル』の責任者だ」

早乙女先生は、ひどく疲れた目で俺を見た。


「瀬戸。お前は10年前、暴走するトラックから同級生の平野兄妹を庇ってはねられ、脳に深刻なダメージを負った。それ以来、ずっと昏睡状態だ」

「俺が……昏睡状態……」

「意識の奥底で眠り続けるお前を叩き起こすための最終手段が、この仮想空間へのダイブだ。強い『ストレス』と『怒り』を与え、生存本能を刺激することで、お前の意識を現実世界へと強制送還リジェクトさせる。……そのために、当時のクラスメイト29人が志願して、このサーバーにダイブしている」


点と点が、一本の線に繋がった。

彼らが俺をいじめる理由。傷つけながら、彼ら自身が泣いていた理由。

俺のために、憎まれ役を買って出てくれていたのだ。10年間も眠り続ける俺を、目を覚まさせるために。


「でも、先生。だったらなぜ、今世界が崩壊しているんですか?」

俺の問いに、早乙女先生は注射器をピタリと止め、鋭い視線で俺を射抜いた。


「お前が、バグってしまったからだ」

「俺が?」


「そうだ。いじめられ、尊厳を奪われれば、人間は普通、怒りや憎しみを抱く。だがお前は、すべてを『許し』『受け入れ』てしまった。お前のその異常なまでの自己犠牲と愛情が、システムのエラーを引き起こしたんだ」

早乙女先生は立ち上がり、俺の胸ぐらを掴んだ。その手は、かつてないほど震えていた。


「瀬戸、よく聞け。お前が彼らを許せば許すほど、彼らはお前を救えなかった罪悪感で精神を壊していく! このままお前が目覚めなければ、あいつらの意識は現実世界に戻れず、この仮想空間の崩壊と共に全員『脳死』するんだぞ!!」


ドンッ、と突き飛ばされ、俺は壁に背中を打ち付けた。


「俺が許すせいで、みんなが死ぬ……?」

「そうだ。お前の優しさは、今や彼らを殺す猛毒だ。あいつらは、お前を助けるために自分の人生を賭けてここにいる。なのに、お前がその手を振り払わず、一緒に地獄に堕ちようとしている!」


早乙女先生の目から、血のような涙がこぼれ落ちた。

「頼む、瀬戸……。あいつらを憎んでくれ。俺を憎んでくれ! 『こんな世界は間違っている』と、全力で拒絶してくれ! そうしなければ……全員がここで終わる!!」


窓の外で、ゴゴゴゴゴと地鳴りのような音が響いた。

見ると、空がひび割れ、そこから赤いノイズがパラパラと雨のように降り注いでいる。校庭の木々がポリゴンの塊となって崩れ落ちていく。


世界が、死にかけている。

俺の、ちっぽけで身勝手な『優しさ』のせいで。


「俺が……みんなを殺す……」


俺は自分の両手を見つめた。

怒りなんて、どうやっても湧いてこない。こんなにも俺を愛し、救おうとしてくれている彼らを、どうして憎むことができるだろうか。

だが、俺が笑えば、彼らが死ぬ。


「……先生」

俺はゆっくりと顔を上げ、早乙女先生を見つめ返した。


「怒ることは、俺にはできない。……でも、この世界を『終わらせる』ことなら、できるかもしれない」


「……何?」

早乙女先生が怪訝な顔をした瞬間、保健室のドアがバンッ!と勢いよく開かれた。


「ハルト!!」

そこに立っていたのは、息を切らし、髪を振り乱した如月さんだった。彼女の背後には、吉井くんや久保島くん、平野さんをはじめとする、クラスメイト全員の姿があった。


「如月さん……みんな……」

俺が目を見開くと、如月さんはツカツカと歩み寄り、思い切り俺の頬を平手打ちした。


パァンッ!!


「バカッ!! 全部一人で勝手に終わらせようとしないでよ!!」

彼女の瞳は、真っ直ぐに俺を射抜いていた。今まで演じていた「いじめっ子」の冷たい目ではない。10年間、俺の目覚めを待ち続けた「本当の如月澪」の瞳だった。


「私たちは、あんたを助けに来たの。……たとえ、この世界が崩壊してもね」


展開は、システムが用意したシナリオを完全に逸脱し、未知の領域へと足を踏み入れようとしていた。

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