零れ落ちる水
江尻の呼び止めを無視して、事務所まで歩いて帰る途中、又賀が口を開いた。
「…本当に、あれで良かったんですか?」
「証拠がないんじゃ、どうしようもない。今回は犯人の運がよかった。それに尽きるね。」
二人の頭上の夕日はどんどんと沈んでいった。
天羽と又賀は帰路の途中にある、橋にたどり着いた。
最初は佐藤環奈が落ちたとされていた。
しかし、見つかった死体は佐藤の所持品を持った別人。
「佐藤さん、今はどこにいるんですかね?」
「それは警察の管轄だ。私たちの依頼はあくまで、『橋を渡った後も環奈さんが生きていた』ということの証拠の提出。」
「井原さん…このことを信じてくれますかね?」
「さぁね。まぁ…証拠はないっていう結論は出た。もう私たちにできる事は何もないよ。」
天羽は橋の柵に寄りかかり、流れる川を眺めた。
川は透き通っていて、川魚は流れに抵抗して上流に向かって泳ごうとしていた。
「まぁ、後のことは彼女に任せよう。私たちの仕事は終わりだ。」
「なんか不完全燃焼ですね。」
「逮捕権がないとこんなもんさ。しかも、相手は完全犯罪者。警察も手を焼くだろうね。」
又賀と天羽が去った後の高校の客室。
そこで江尻がソファに深々と座り込み、下を向いていた。
「これで良かったんだ…。間違ってなかったんだ…。」
コン、コン、コン
江尻が小声でぶつぶつと言っている間に、扉が叩かれた。
「…え?あ、はい!どうぞ。」
「失礼します。」
「え…?」
扉から井原が入ってきた。
江尻は思わず立ち上がり、目に見えて焦っていた。
「…探偵さんから…天羽さんから、環奈が橋を渡った後も生きていた証拠はない、と告げられました。」
「そ、そうか…。それは残念…だったな。」
しばらくの間、客室に沈黙が流れた。
「…天羽さんから、聞きました。犯行に及んだ可能性が高いのは…江尻先生だって。」
「…。」
「証拠はないのはわかってるんです。しかも、江尻先生がそんなことするわけないことも…。けど…。」
江尻が顔を伏せた。
「やって…ないんですよね?」
「…。」
「答えてください!」
井原の怒号が響き渡った。
江尻の目の前にはこの数ヶ月間、友を失い、ひどく苦しんだ自分の生徒の姿があった。
どちらの心境も、心の底で暗い渦を巻いているようだった。
「…やって…ない…。」
江尻は声は消えそうな、霧のかかったような声だった。
「…そうですか。」
井原はかかとを返した。
「…先生。」
井原は背中を向けたまま口を開いた。
「自首してください。」
「え…?」
「じゃないと…私は自殺します。環奈に会えるかもしれないので。」
「…は?待っ…!!」
天羽の時と同様、江尻が呼び止めようとした時にはもう井原の姿は見えなかった。
「…これで…良かっ…た…。」
無意識のまま、江尻の顔からは涙がこぼれ落ちていた。
又賀たちの訪問から翌日、天羽探偵事務所。
太陽はまだ東に傾いていた。
「天羽さん!この新聞!」
「へー、逃げようと思ったら逃げ切れたのにね。」
又賀が手にしている新聞にはこう綴られていた。
『女子高校生を誘拐した、と高校教師が自首。完全犯罪の可能性。』
[前日、17時頃、自校の生徒を攫ったと自首をした、高校教師の江尻泰三容疑者(39)。
誘拐された生徒は約二ヶ月前の大豪雨による停電によって橋から転落した、とされていた女子高生。
しかし、橋の下流から見つかった遺体は別の女子高生のものと、鑑定されたが、所持品は誘拐された生徒のものだったことから、江尻容疑者が死体をすり替えようとした、として警察は捜査を続けている。
また、すり替えに使った高校生の遺体も江尻容疑者が殺害したとして、捜査をする意向。
停電により、付近の監視カメラが全滅していたことから自首をしなかったら証拠不十分により、完全犯罪になっていた可能性が高い。]
「まだ人の心があってよかったよ。井原さんの説得あってのおかげだね。」
「本当に良かったです。井原さんの願いが報われて…って、佐藤さんはどうなったんですかね?」
「あの性格じゃ、余程のことがない限り殺せないだろうね。やりたいこと済ませて、家の中に幽閉って感じのオチかな。餓死とかしてないといいけど。」
「…最低ですね。」
「犯罪者だよ?当たり前さ。」
ーー数日後、市内某病院。
井原は自動ドアをくぐり抜け、手続きを終えて廊下を早歩きで駆け抜け、エレベーターに乗り込んだ。
8階を示すボタンを押し、ドアを閉めるボタンを連打した。
いつもよりエレベーターのドアが開くまでの時間が長く感じた。
ドアが開いた瞬間、井原は右に曲がって走っていった。
廊下の最奥、8階の角部屋の扉が勢いよく開けられた。
「環奈!!」
病室には寝たままの佐藤環奈がいた。
ベットの横の机には天羽探偵事務所から送られた花が置かれていた。
「佐藤さん、特に外傷などなく、命に別状はない、と連絡が来ましたよ。」
又賀が届いたメールを天羽に読み聞かせた。
天羽探偵事務所では今回の事件についての資料を片付けていた。
「ひとまず、これで事件は全て解決。天羽さん、お手柄でしたね。」
「なんか…変だよね。」
「はえ?」
天羽の突然の言葉に又賀は呆然とした。
「江尻は犯行は認めたものの、動機はまだ喋ってない。」
「え?前に天羽さんが言った通り、欲求が抑えられなかったのでは?」
天羽は資料を片付ける手を止め、再度口を開いた。
「自首した人間が、その事を…動機を正直に言わないのはなんでだろうね?」
「え?えっと…恥ずかしかった…とか?」
「まぁ…もしかしたらあるかもね、でもこう考える方が自然だ。動機はそれ以外にある。」
「え?なんでそうなるんですか?」
又賀はさっきまで棚に資料をしまっていたが、完全に手を止め、天羽の話に集中していた。
「性的な動機なら確実に証拠が残る。被害者の供述、それと被害者の身体。逆に、加害者が取り調べで動機を性加害と言ったなら、この証拠が確実に残る。被害者の供述なんて、本人を始末しない限り絶対に残り続ける。」
又賀は天羽の言ったことを理解し、目を見開いた。
「…つまり、嘘をついたとて矛盾点が出る、だから…動機は性加害じゃない…!」
「他にも不可解なことがある、すり替えに使った死体、宮阪美優さんのことだ。」
「確かに…あの遺体はどこから…。」
「江尻は、数ヶ月監禁した人間すら殺せない。飯を断つだけで殺せるのにさ。そんな人間に、すり替えに使う死体を用意できたのかな。」
「確かに…。」
「ま、今の私たちにできる事はないから警察に任せるしかないけど…。」
天羽は事務所の窓から外を眺めた。
井原は佐藤を起こさないようにベッドの横で啜り泣いていた。
江尻は留置所の部屋の端で丸まっていた。
「まだ…終わってないね。」
『夜逃げ道』2章の完読、誠にありがとうございました。
3章に関しましては一週間の間を置いてから投稿させていただきます。
これからも『夜逃げ道』をよろしくお願いいたします。
嬉しい




