回春の女神(3)
回春の女神(3)
大神ゼウス。
彼は全知全能の神にして神の王、それ故に威厳満ち溢れた肉体美を持つ初老の男神だと思われている。
それは人間に対しての神の威光を示す為にも、そのような姿で現れていたからだ。
だが実際、ここにいる彼はヘルメスさながらのすこぶる若々しい美男神だった。
―――女好きの神とはいえ、そもそもオッサン度のベクトル値が高ければ女に持てはしないだろう。
さて、そんなイケメン大神は、同じく自身の容貌の美点を丸々引きついで生まれた息子―――ヘルメスに問うた、「真か」と。
それに対しヘルメスの答えは明瞭だった。
「はい。なにせ虹を架けた当のイーリスから聞き出した事ですから」
そうか、ヘラがカナートスに向かったのか。
ゼウスはようやく感得すると、嬉々と頬を緩ませた。
―――また我が『愛しい永遠の女神』に巡り会う時季がやって来た。
そしてゼウスは思う。
傍にいるニンフ達、皆それぞれに美しい。
だが。
本当に美しい者は、いやそれ以外でも己の中で最も重きを置く者は―――今も昔も唯一人か。
「ここで戯れている場合ではないな」
この時、ゼウスの内の呟きを察したヘルメスが、その様子にクスリと笑う。
「お迎えにあがりますか」
「ああ、そうしよう」
全知全能の神の様子にニンフ達が訝しめ、ざわめき始めた。
つい先ほどまであんなに自分達と戯れていた大神が、急に興ざめたかの様に離れて行く。
「ゼウス様!?」
「大神、どちらに?」
慌ててニンフ達が呼び止める。
けれども彼女達の制止の呼び止めは効を成さず、ゼウスの姿は霞の様に次第に薄れまもなく消えた。
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カナートスの泉。
それは女神ヘラの聖域にひっそりとある清らかな神秘の泉である。
彼女は毎年春になると、その泉に足を運んでは泉の水を浴びて身を清めるのが慣習だった。
最も今年は、イーリスに促された形で足を運ぶことになったヘラ。
それでも彼女が泉に着くと、そこには幾人ものうら若き乙女の姿をした水妖精達ナイアデスが待っていた。
恐らくイーリスの出した虹の光の先触れでここにヘラが訪れる事を知り、事前に世話する為に集まっていたのだろう、皆ヘラの姿を認めると、にこやかに傅き出迎えた。
「ようこそ、ヘラ様」
「お待ちしていましたわ、我らの女王」
水の乙女達の歓迎に、ヘラも機嫌良く微笑み彼女たちに沐浴の支度をさせ始めた。
ナイアデス達は恭しく女神を身につけていた衣、煌びやかに飾り立てていた冠や首飾り等の装飾類を一つ一つ取り、彼女を裸身を露わにしていく。
やがてナイアデス達の手を借りて一糸まとわぬ裸身になったヘラは、彼女達の労うと泉の縁まで歩みと振り返り微笑した。
「皆下がっていて頂戴、しばらく一人で水を浴びたいの」
女神の命にナイアデス達は従順に従って姿を隠し、そして彼女達が側から離れた事を確認したヘラは、やがて静かに泉の中に足を付けた。
チョポン、と水音一つで泉に入った足から伝わる水の冷たさ。
だが、それはそれで心地よい。
そうヘラは感じると、ゆっくり裸身の全てを泉に預けた。
全身に泉の水を感じる。
それが一つ一つ彼女の躰に沁み入りて、深く淀んだ女のサガすらも清めていく。
それはヘラでなくとも思うであろう、『女』の心から作られてしまった業。
嫉妬により、夫の浮気相手に与えた仕打ち―――そしてその後に必ず味わってきた後悔も。
夫を繋ぎ止められない、不甲斐ない己の口惜しさも。
そんな一切のモノを、カナートスの泉に湧く水が綺麗に洗い流していってくれる。
するとたちまち女神の姿に変化が生じた。
ヘラの心が清浄になるにつれ、髪の輝き、肌つや、それが燦然と光り輝く。
そう、ヘラが春になるとカナートスの泉に通い水浴びする理由がまさにこれだった。
カナートスの泉は別名『回春の泉』―――不老の力を持った泉。
疲れ果てた古女房が、見る見るうちに瑞々しく初々しい新妻へ。
更に新妻から眩い盛りの乙女へと変容していく。
そしてとうとう、陽光と泉の雫で濡れた若返ったヘラの体は、なんとも艶やかに美しく輝き、周囲は清純な美しさを取り戻した女神の神々しさで包まれていた。
そう神秘の泉は、まさにヘラを女神の女王と名実共に尊称させるに相応しく甦らせたのである。