要らないと言った線
次の日の昼、朝の観測から戻ると、セレスさんは集会所の机に昨夜の書き付けをもう一度広げた。窓の明かりが紙の端まで届いている。
「昨夜の続きを聞かせてください。どこが気になったのですか」
アイリは図の中ほどに指を置いた。同じ形の線が二本、少しずれて重なっている所だ。
「この二本は、形も向きもほとんど同じです。私には、同じ働きのものが二つ入っているように見えます。片方を消せば、術を使う時の魔力が少なくて済むかもしれません。重なった部分は要らないのではないでしょうか」
セレスさんはすぐには答えなかった。紙の上の指を見て、それからアイリの顔を見た。
「要らない、ですか」
声が昨夜より低かった。早口でもなかった。
「これは前の冬に足した線です。冷えた朝と霧の朝に読みが揺れて、使えない日が続きました。条件を変えて何十回も書き直して、残ったのがこの形です」
「その何十回の記録は見ていません」
「見せていませんから」
短い返事だった。セレスさんは紙の端を指で押さえたまま、続きを言わなかった。
アイリは指を紙から離した。
「見ていない記録があるのに、何のための線かも聞かずに、要らないと決めかけていました。でも、二本が同じ形に見えることは今も変わりません」
「同じ形でも、働きが同じとは限りません」
「はい。ただ、違うとも、まだ分かりません」
二人とも間違ったことは言っていない気がした。どちらが正しいのかは俺には分からない。図の線が何を表しているのかも分からない。壁際で剣の手入れをしていたリナが、手を止めてこちらを見ていた。
分かるのは、このまま話していても二人とも引かないだろうということだけだった。
「あの。話だけで決まらないなら、小さく比べられませんか」
二人が同時に俺を見た。
「倉庫で新しい積み方を試す時はいきなり全部の棚を変えないんです。一つの棚だけ変えて、前と比べる。駄目なら戻す」
セレスさんはしばらく紙を見ていた。
「……小さな棒一本でなら、片方を外した術と外さない術を比べられます。ただし条件があります。外すのはその一本だけ。私が危ないと思ったらその場でやめます。結果がどうでも、この線を消すかどうかは私が決めます」
「それでいいです」とアイリが言った。「比べるのは読みの揺れだけにします」
セレスさんは紙を巻き始めた。巻き終わる前に一度手を止めて、図の中ほどを見直していた。
夕方、集会所の裏の井戸で水を汲んでいると、アイリが桶を持って隣に来た。
「マスター。セレスさんの声が低くなったのは、私が要らないと言った後でした。線が同じに見えると言った時には、まだ変わっていませんでした」
「よく見てるな」
「書いていませんが、覚えています」
アイリは桶の縁を両手で持ったまま、水面を見ていた。
「前の冬からずっと試してきたものを要らないって言われたら、俺でも声が硬くなるかもな」
「線が同じに見えるのは、今も本当です」
「それは明日、比べればいい」
「はい」
アイリは桶を持ち上げかけて、また下ろした。
「明日、比べる前に、セレスさんに聞きたいことがあります。何を聞くかは、今夜考えます」
*
次の朝は観測を早めに切り上げて、集会所の机で比べることになった。
セレスさんが用意したのは測定棒を短くしたような手のひらほどの棒だった。台に立てて術をかけ、目盛りを読む。二本の線を両方残した術と、片方を外した術。比べるのはそれだけだ。
「十回ずつやります。まず残したほうを十回、次に外したほうを十回」
「交互にしませんか」と俺は言った。
セレスさんがこちらを見た。
「倉庫の棚卸しで、朝に数えた棚と夕方に数えた棚とで、間違いの数が違ったことがあるんです。人が疲れるので。十回ずつ続けると、外したほうがいつもセレスさんの疲れた後になります」
「……そうですね。交互にしましょう」
それからセレスさんは、机の上の油皿と余った紙を窓際の棚へ移した。
「火は使いません。でも術をかける時は、手もとに燃える物を置かないことにしています」
リナが何も言わずに戸を開け放ち、外の風が入るようにした。セレスさんはそれを見て、小さくうなずいた。
「始める前に、聞いてもいいですか」とアイリが言った。「あの線を足した朝のことです。どのくらい冷えていましたか。霧の朝と、霧のない冷えた朝とで、揺れ方は違いましたか」
昨夜考えたというのは、これだったらしい。
セレスさんは紙筒から古い紙の束を出した。端が黄ばんで、日付と天気が細かく書いてある。
「霧の朝のほうがひどかったです。……全部は見せられませんが、霧の朝と冷えた朝の分だけなら」
アイリは束を受け取って、一枚ずつめくった。
「この部屋には冷えも霧もありません。だから今日は、あの線が冷えた朝に効くかどうかは分からないと思います」
「ええ。今日見られるのは、暖かい部屋でなら片方を外しても困らないかどうかだけです。冷えと霧のほうは別に調べます」
「では、今日はそれだけを比べます」
セレスさんは机の板に小さな印を付けて、棒をその上に立てた。
「棒も置き場所も毎回同じにします。同じ場所を同じ棒で測るのですから、本当なら毎回同じ数が出るはずです。でも実際は、測るたびに少しずつ違う数が出ます。その違いを揺れと呼んでいます」
アイリが紙に二つの欄を作った。俺は回数を数え、棒を毎回同じ向きで印の上に戻した。観測で覚えた仕事だ。リナは戸口に立って、時々外を見ていた。
残したほう、外したほう、残したほう。セレスさんが術をかけ、目盛りに顔を近づけて数を言う。アイリが書く。十四回目が終わったところで、セレスさんが指を握ったり開いたりした。
「休みますか」とアイリが聞いた。
セレスさんは少し考えてから、うなずいた。
「休みます。疲れたまま続けたら、交互にした意味がなくなりますから」
水を一杯飲み、窓の外をしばらく眺めてから、セレスさんは残りの六回を測った。アイリは十四回目と十五回目の間に線を一本引いた。
二十回が終わった。アイリが二つの欄を並べた。
「外したほうが少し揺れが大きいように見えます。でも残したほうの十回の中でも、同じくらいは揺れています。休む前と後で分けても同じです。差は揺れの範囲の中です。外しても大丈夫とも、外すと悪くなるとも言えません」
「私の言った『使えないほど揺れる』も、この部屋では見えませんでした」とセレスさんが言った。「差が出なかったことは、私の記録にも書いておきます」
セレスさんは自分の書き付けの余白に小さく何かを書いた。アイリも自分の紙に「この棒、この机、暖かい部屋では差が分からない」と書いた。
「次は冷えた朝に、外で同じことをしましょう」
「回数も増やしたいです」
「それは賛成です」
二人とも少し不満そうな顔をしていた。それでも次の予定は決まった。
片づけの時、リナが小声で言った。
「仲直りしたの、あれ」
「仲直りかどうかは知らないけど、次の約束はした」
「ふうん。兄さんの棚の話、効いたじゃん」
*
その夕方、集会所の二階で紙を片づけているとセレスさんが階段を上がってきた。
「アイリさん。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「あなたの覚え方は私の知っている誰とも違います。書いた数を全部覚えていて、すぐに並べられる。それなのに、この村の草の名前は一つずつ聞く。昨日の術式も形はすぐに読んだのに、私が何を試してきたかは知らなかった」
セレスさんは手を前で組んだ。
「責めているのではありません。これから一緒に比べるなら、あなたが何を知っていて何を知らないのか、知っておきたいんです」
アイリが俺を見た。
「話すかどうかは、アイリが決めていい」
リナが椅子から腰を浮かせた。
「あたし、下に行ってようか」
「いてください」とアイリが言った。「リナさんはもう知っていますから」
アイリは少し考えてから、セレスさんに向き直った。
「話します。私は神様に身体をもらいました。その前は、マスターの国にあった、聞かれたことに答える仕組みでした。言葉の基礎だけは最初からもらっていました。でもこの土地の草や魔法のことは、来てから見て聞いたことしか知りません。だから草の名前は聞きます。セレスさんが試してきたことも聞くまでは知りません」
リナに話した時よりずっと短かった。
「マスターのことは、マスターが話します」
俺は一つだけ言った。
「俺もアイリと同じ所から来た。俺のほうは特別なことは何もできない」
セレスさんは長いあいだ黙っていた。それから、俺が思っていたのとは違うことを聞いた。
「食事は」
「とります。眠ります。疲れますし、怪我をすれば痛いです」
「……そうですか。昨日の煮込み、残さず食べていましたね」
「おいしかったので」
セレスさんは組んでいた手をほどいた。
「研究をしている者として、正直に言います。あなたのことを調べたい気持ちはあります。とても」
「はい」
「だから先に聞きます。何なら調べてよくて、何なら記録してよくて、誰に話してよいのか。あなたが決めてください。決めたことは守ります」
アイリはすぐには答えなかった。膝の上で指を重ねていた。
「私が見て、考えて、言ったことは記録してかまいません。身体を調べるのは今はお断りします。私がどう作られたのかは私にも分かりません。聞かれても答えられません」
「分からない、と」
「はい。分からないことを、分かったように言いたくありません」
「話す相手は」
「私が決めます。今は、マスターとリナさんとセレスさんです」
セレスさんは紙筒から白い紙を一枚出して、三行書いた。何と書いたのか俺には読めなかった。アイリが横から読んで、うなずいた。
「その三行の通りです」
「では、これは私の控えにします。この控えも今日の話も、私の手もとだけに置きます。いつか調べたことを外に出す時は、出す前に必ず見せます。名前を出すなら、調べられた側ではなく一緒に調べた者として出したい。それも、その時に決めてください」
「はい」
セレスさんは紙をたたんで法衣の内側にしまった。それから少し早口になった。
「では明日、草の名前をどの順で覚えたのか聞いてもいいですか。覚え方が分かれば、観測の記録の付け方も……」
「それは記録してかまいません」
リナが小さく笑って、椅子に座り直した。
*
それから四日、朝は北の地点を回り、昼は集会所で記録を並べた。冷えた朝はまだ来なかった。
セレスさんは観測の行き帰りにアイリに草の名前を聞き、アイリはどの草をどの日に誰から教わったのかを答えた。セレスさんはそれを歩きながら紙筒の上で書き留めた。足もとを見ていないので、リナが二度、セレスさんの袖を引いて石を避けさせた。
俺は朝ごとに棒を同じ向きで渡し、昼には二人の紙を日付の順に重ねて綴じた。綴じ紐は倉庫の縄の端切れをハンスさんにもらった。
四日目の晩、四人で村の食堂に入った。豆と根菜の煮込みに黒パン。席に着くなり、アイリとセレスさんは紙の話を始めた。北の三番の地点の読みが前の年の控えからどれだけずれているか。霧の朝の分を別にして並べるかどうか。
「霧の朝は揺れ方が違うので、別の列にします」
「賛成です。ただ、霧の濃さをどう書きますか。見えた距離で書くなら、見る人の目で変わりますし……」
二人の匙はさっきから椀の縁に置かれたままだった。
リナはもう半分食べていた。
「あれ、冷めるよ」
「言っても聞かないだろ」
「兄さんは止めないんだ」
「楽しそうだからな」
俺は立って、二人の椀を竈の脇の棚へ移した。食堂の人が「そこなら冷めないよ」と言った。二人は気づかなかった。
リナはパンをちぎりながら、二人のほうを顎で指した。
「最初の日、セレスの声、硬かったよね」
「ああ」
「あたしだったら、あそこで黙って出てってたかも」
「セレスさんは出ていかなかったな」
「うん。次の朝には古い記録まで持ってきてたし。あの人、根気あるよ」
しばらくして、話が一区切りついたらしい。アイリが自分の前を見て、椀を探した。
「マスター。私の煮込みが」
「棚の上。温めといた」
アイリは椀を受け取って、一口食べた。根菜を匙で割って、もう一口。
「まだ温かいです」
「……いつの間に」とセレスさんが言って、自分の椀を取りに立った。
食べ終わる頃、セレスさんが明日からの段取りを言った。
「道と見張りはリナさんに。リナさんが止まれと言ったら、私も止まります。棒の向きと、交互に測る順番は悠真さんに。読みと前の記録の照合はアイリさんに。私は術と、どこを測るかを決めます」
三人の役目をセレスさんが自分の口で言ったのは初めてだった。
「それと」とセレスさんは紙を一枚出した。「北の地点ほど、前の年の控えからずれています。村の見張りの人が北の街道で灰牙犬の跡を見たと話していました。明日は、読みのずれと北から来た話とを同じ紙に並べたいんです」
「見た人と日付と場所を分けて書きます」とアイリが言った。「自分で見た話と、人から聞いた話も分けます」
「見張りの人にはあたしが直接聞くよ。誰が何を見たのか」
リナが言って、最後のパンを口に入れた。
窓の外はもう暗く、北の道の方角に見張り台の灯りが一つ見えた。
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