俺の魔法を待っている人
昼の休憩を道端の石の上で済ませると、あとは荷車の轍をたどるだけだった。
ギルドが手配した資材の荷車には縄の束と油の壺と、鉄の留め具の入った木箱が積んである。御者が手綱を取り、俺たち三人は荷車の横を歩いた。上り坂では俺が後ろから押し、リナは先を見て、アイリは道の分かれ目ごとに印を付けた。
日が西へ傾き始めた頃、畑の向こうに屋根の集まりが見えた。レーネ村だ。その奥で川沿いに大きな水車がゆっくり回っている。
村の入口に深い緑の髪の女の人が立っていた。実用一点張りの法衣に、細長い棒と紙筒を抱えている。耳の先が少し尖っていた。
「ギルドからの方ですね。セレスです。観測を担当しています」
セレスさんは俺たち三人を順に見て、それから荷車を見た。
「資材は製粉倉庫へお願いします。観測の手伝いは明日から。今日は荷を下ろしたら休んでください。寝床は集会所の二階を借りてあります」
言うことが早くて無駄がなかった。
「監督の範囲を先に言っておきます。観測の地点へは私と一緒の時だけ行きます。行き帰りの道は私が決めます。何かあったら、村の見張り台の鐘を三つ鳴らすのが合図です」
「見張りは何人いますか」とリナが聞いた。
「昼は二人。夜は一人です。村の柵は南側だけ新しくしてあります」
リナはうなずいて、村の柵のほうを一度見た。
製粉倉庫は村の東の外れにあった。石積みの大きな建物で、戸口から粉の匂いが漂ってくる。
中では三人が働いていた。腕の太い中年の男が粉袋を担ぎ、白髪の女の人が帳面もなしに数を口にしている。少年が一人、袋の口を縛って回っていた。
「ああ、来たか。製粉のハンスだ。悪いが手が離せねえ」
男は袋を担いだまま顎で奥を指した。
「縄と油は奥の棚。留め具は、水車小屋へ持っていく分だから戸口の近く。濡らすなよ。夕方から川霧が入る」
白髪の女の人はエダと名乗った。数を言う口を止めずに少年を指さした。
「あの子はニコ。見習いです。ニコ、袋は後にして、荷を手伝いなさい」
ニコは十六だと言った。荷車に駆け寄ると木箱を一人で持ち上げようとして、よろけた。
「それは二人で持とう。そっちの端を頼む」
二人で箱を持ち、戸口の脇に下ろした。縄の束は湿気の来ない奥の棚の上の段、油の壺は火の気のない壁際の下の段。倉庫で荷を置く時の考え方は、どこでもあまり変わらない。
粉袋を下ろし終えたハンスさんが俺の積んだ棚を眺めた。
「……あんた、名前は」
「悠真です」
「悠真。明日からこの倉庫の荷の置き場、あんたに任せていいか。俺は粉で手一杯なんだ」
村に着いて、まだ鐘一つも鳴っていない。それでも名前で呼ばれて、置き場を任された。
「はい」
アイリはその横で棚ごとに何を置いたかを紙に書いていた。
その晩、集会所の二階に寝床を三つ並べた。エダさんが黒パンと豆の汁を持ってきてくれた。
「荷を濡らさずに入れてくれたお礼です。明日からは自分たちで食堂へどうぞ」
汁は塩が薄くて、豆が柔らかかった。アイリは一口目のあとで俺の椀をのぞき込んだ。俺のほうに豆が多く入っていた。
*
次の日から、朝はセレスさんの観測、午後は倉庫の資材を水車小屋へ運ぶ仕事になった。
資材は普段、荷車で村の北の道を回り、小屋の北の木橋を渡って運ぶ。ただ、この日はハンスさんが水車の羽根を点検するために、水車へ回す水を止める日だった。
「止めてる間は、裏の通路が使える。近いから、細かい物はその間にまとめて運んじまえ」
倉庫の裏から小屋の西の裏口へ、細い通路が延びていた。半分ほど行ったところで足が止まった。水車へ水を引く溝が通路を横切っている。幅は大股一歩より少し広い。水は深く、底が見えない。
「ハンスさん、ここはどうやって渡るんですか」
「まだ渡らねえ。待ってろ」
ハンスさんは倉庫へ戻り、壁際の取っ手を回した。溝の上の方で板が下りる音がした。
「止水板だ。水が引くまでちょっとかかる」
「どのくらいですか」
「粉袋を三つ積み替えるくらいだな。その間に、そっちの縄を巻き直しといてくれ」
言われた通り、縄を巻き直した。戻ると溝の水はくるぶしの少し上まで下がっていた。泥の底に段差があって、片足ずつ探りながら渡る。
「荷車は通れねえ。人と手で持てる荷だけだ。それに板を閉めりゃ水車も止まる。だから普段は橋を回る」
「橋が使えない時は」
「そん時はここだ。板を閉めて、水が引いてから」
アイリは溝の幅と、待った長さを紙に書き留めた。
「ハンスさんの目安は粉袋三つ分。今日は縄を一つ巻き直す間に、くるぶしの上まで引きました、と書きます」
「そんなもんまで書くのか」
「次に来た人が、待つ長さを知れます」
小屋の西の裏口は狭かった。木箱を横にしたままでは枠に当たる。俺は箱を縦に持ち直し、肩を入れてから中へ回した。
「入れ方を知ってるな」とハンスさんが言った。
「前の仕事で、戸口の狭い倉庫があったので」
帰りにアイリが聞いた。
「この裏口は、何のために作ったのですか」
「保守用だ。水車を止めて羽根や軸を見る時に、道具を持って出入りする」
ハンスさんはそれだけ言って、止水板の取っ手を戻しに倉庫へ入っていった。溝にまた水が満ちていく音がした。
水を止める日には、俺とリナが裏の通路で箱を運び、アイリが溝の水の高さを見て渡る合図を出すことになった。ほかの日は荷車で橋を回った。ニコは小屋と倉庫の間を何度も走って、置き場所を聞きに来た。
*
村に着いて六日目の午後、俺は水車小屋の二階でニコと滑車の縄を張り替えていた。
古い縄を外し、新しい縄を通して、留め具で止める。留め具は親指ほどの小さな鉄の輪で、梁の下の滑車の脇にある。ニコは梯子の上で片手を段に掛けたまま、もう片方の手だけで輪を押さえて縄を結ばなければならない。縄を引くたびに、輪が指の間で回る。
「くそ、拭いても回る」
ニコの指は乾いた粉で白かった。輪を布で拭いても、縄が締まるたびに輪のほうが逃げる。
ニコが三度目に輪を落とした時、俺は自分の指先を見た。こめかみは重くない。今日はまだ一度も使っていない。昨夜もよく眠れた。
「ニコ。それ、少しだけ滑らなくできるかもしれない」
「え、魔法?」
「先に言っとく。効くのは、俺が手を離してから五つ数える間だけだ。失敗するかもしれない。それでもいいか」
「輪がじっとしてれば、片手でも縄を通せる。やって」
俺は梯子の二段目に足を掛けて腕を伸ばし、ニコの手もとの輪に指先を当てた。トーマの机で何十回も唱えた言葉を口の中で唱える。指先が一瞬、乾いた。手を離す。
「いいぞ」
ニコの指が輪をつかんだ。今度は回らない。縄を二度くぐらせ、締める。
「三つ。四つ」と下からアイリが数えた。
五つ目でニコが手を離した。輪は縄にしっかり噛んで、もう動かなかった。
「できた」
ニコが振り返って俺を見た。粉で白い顔の中で目が大きく開いていた。
「すげえ。輪が一回も回らなかった」
板の上の杯ではなかった。人の手の中で、仕事の役に立った。俺はしばらく自分の指先を見ていた。
残りの留め具は三つあった。二つ目にも使った。こめかみの奥が重くなった。
「マスター、今日はあと一回が上限です。顔色が朝より白いです」
「……分かってる」
三つ目の前で手を止めると、ニコは下を向いて呼んだ。
「親方、梯子押さえて」
ハンスさんが下で梯子をつかむとニコは縄の端を輪に二回巻きつけ、その端を梯子の段に挟んで押さえた。両手が空く。そのまま結んだ。
「よく考えたな、それ」
「親方に教わった。でも親方が下にいる時しかできない。梯子から両手を離すから」
ニコは四つ目も同じやり方で済ませた。ハンスさんは梯子を押さえたまま、早く粉のほうに戻りたそうに足を踏み替えていた。
小屋を出る時、ニコが俺の袖を引いた。
「明日も来る?急ぎじゃないんだけど、下の段の留め具、まだ替えてないんだ。朝は親方が粉で手一杯で、梯子を押さえてもらえないから。悠真の魔法、取っとくから。あれ、効いてるのが指で分かるのが面白いんだよ」
取っておくのは留め具のほうだろう、と思った。それでも、明日を待たれていた。帰り道、俺は明日の朝のことばかり考えていた。また使いたかった。
次の朝、ニコは小屋の戸口で下の段の留め具を両手に載せて待っていた。観測に出る前だった。俺は一度だけ使った。輪は五つ数える間止まって、ニコは片手でその間に結び終えた。二度目は使わなかった。このあと北の地点まで歩くからだ。
「一回でいいよ。残りは親方が来てから巻くから」
ニコはそう言って、指先をこすり合わせた。
*
観測は着いた次の日から毎朝続いていた。セレスさんの監督で、村の北の決まった地点を回る。セレスさんが測定棒を地面に立てて目盛りを読み、アイリが地点と数を書き留める。リナは周りを見張り、俺は棒と紙筒と水を運んだ。
測定棒は腕の長さほどの棒で、横に細かい目盛りが刻んである。セレスさんは目盛りに顔を近づけて数を言うが、何を読んでいるのか俺には分からなかった。
「分からなくて構いません」とセレスさんは言った。「見る場所は同じ高さ、同じ向き。それだけ守ってください」
俺の仕事は、棒を毎回同じ向きで渡すことになった。
午後に倉庫へ戻ると、エダさんが粉の配り先を確かめていた。どの家に何袋、いつ。帳面は開かない。
「エダさんは、全部覚えているんですか」とアイリが聞いた。
「覚えてるのは顔と袋の数だけ。名前は忘れるのよ。あなたは」
「柱の配り先の札は読みました。名前と数は覚えています。でも村の人の顔は、まだ知りません」
「じゃあ二人で一人前ね」
エダさんは笑って、アイリに札の名前を一つずつ読ませた。アイリが名前を言うとエダさんがその家の目印と人の顔を足していく。
次の日の午後、粉袋を一つ届けに行った。並んだ二軒が、どちらも同じ青い戸だった。エダさんが「よく間違えるのよ」と言っていた家だ。
アイリは戸を叩く前に、窓からのぞいた人の顔を見た。左の眉の上に小さな傷がある。
「こちらです。マスター、袋をお願いします」
帰ってそれを話すと、エダさんは「ほらね」とだけ言って、次の配り先を数え始めた。
村に着いて九日目の昼、水車の脇で休んでいた時だった。
アイリが急に立ち上がって、俺の袖を引いた。
「マスター、来てください。今です」
「何かあったか」
「何もありません。でも、来てください」
水車の羽根が水をすくい上げ、上で落とす。その飛沫に日が差して、小さな虹がかかっていた。羽根が回るたびに、虹は消えてはまた出た。
「……虹か」
「はい。さっきから三回消えて、四回出ました」
アイリはそれ以上は何も言わなかった。紙も出さなかった。二人で並んで草の上に腰を下ろし、水車が四回りするのを見ていた。
五回目に虹が出なかったところでアイリが「戻ります」と言った。俺も立ち上がった。
その日の夕方、セレスさんがアイリの紙をのぞき込んだ。
「この八日分の観測、地点ごとに前の日と並べてありますね。どうやって」
「書き留めた数を覚えているので、新しい数を書く時に前の日の数と並べています」
「全部、ですか」
「書いたものは全部です」
セレスさんは紙を持ったまま、少し早口になった。
「では、北の三番の地点の、四日目と七日目の数を」
アイリが答えるとセレスさんは自分の紙筒を開いて照らし、小さく息を吐いた。
「合っています。……次の比較調査では、私の記録とあなたの照合を合わせたい。測定の術式と、これまでの記録をお見せします」
アイリの声がいつもより少しだけ早くなった。
「見たいです。どの地点の、どの日の記録からですか」
二人の話はそこから専門の言葉が増えて、俺にはほとんど分からなくなった。リナが俺の横に来て、小声で言った。
「アイリ、楽しそうだね」
「ああ」
村に着いて十一日目、資材と観測の手伝いを納めた。セレスさんの受け取りの印が押され、依頼の控えが三人に渡された。
その晩、集会所の机にセレスさんが術式の書き付けとこれまでの記録を広げた。細かい字と線がびっしり並んでいる。
アイリは一枚ずつめくっていき、ある一枚で手を止めた。
「セレスさん。ここが、気になります」
アイリの指は術式の図の中ほどに置かれていた。同じ形の線が二本、少しずれて重なるように引かれている所だった。
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