格好よく助けるはずだった
東の街道の点検区は、朝の鐘で街の門を出て、日が高くなる前に着く所から始まる。
受け持ちは三番の道標から八番まで。道標の番号が読めるか、路面に穴や崩れがないか、待避所の柵が傷んでいないか。気になる所はギルドで渡された図に書き込む。
腰には剣を下げていた。歩くたびに鞘が太ももに当たる。下げているだけで少し冒険者らしくなった気がした。
三番の道標は、番号の彫りに苔が詰まっていた。俺が指で苔をかき出すと、アイリがそれを読んで図に印を付けた。
「苔のことも書きます。次に来た人が読めないかもしれません」
四番は読めた。路面のくぼみを見つけると、俺が歩幅で大きさを測る。鞘が邪魔で、しゃがむたびに剣の位置を直した。
四番を過ぎて少し行った所で、道の真ん中に袋が転がっていた。
その先、五番の道標の手前で荷車が一台止まっていた。五番の石柱は道の左端に立っていて、すぐ外側は深い排水の溝になっている。年配の御者と手伝いの若い男が、荷台の後ろで切れた縄を見ている。路面には玉ねぎの袋が五つ落ちていて、一つは破れて中身が溝まで転がっていた。
「さっきの穴で跳ねてな。縄が持たなかった」
御者が後ろを顎で指した。二十歩ほど戻った所に、車輪の幅ほどの深い穴があった。運び手が文句を言っていたのは、たぶんこれだ。
気がつくと、俺はもう袋の一つに手をかけていた。
「マスター」
アイリが図を持ったまま言った。
「点検は八番まで残っています。日暮れの鐘の前に戻るなら、ここで長くはかけられません。どこまで手伝いますか」
言われて、手を止めた。全部やろうとすれば昼を過ぎる。
「袋を荷台に戻して、縄を掛け直すところまで。転がった玉ねぎは二人に任せる」
「分かりました。では私は、破れた袋の口を縛ります」
アイリは図を俺に預けて、破れた袋の前にしゃがんだ。
袋は重いものを下に、前寄りに積んだ。後ろに重さが寄ると、次の穴でまた跳ねる。御者の縄は長さが足りなかったので、荷台の金具を一つ飛ばして掛け直した。
「若いのに、積み方を知ってるな」
「前の仕事で少し」
アイリは縛った袋を若い男に渡し、それから図に戻って穴の場所と大きさを書き込んだ。
「縄が切れた原因として書きますか」
「穴の場所と大きさは俺たちが見たこととして書いてくれ。荷車が跳ねて縄が切れたのは、御者さんの話として別に。穴のせいだと決めるのは、俺たちじゃない」
御者は何度も礼を言って、手綱を取った。
「巡回の姉ちゃんが六番の待避所を出て、こっちへ歩いてくるのが見えたぞ。何かあったらそっちへ言いな」
*
荷車が動き出してすぐだった。
前の茂みが揺れた。灰色の獣が道に出てきた。
犬に似ているが大型犬より一回り大きい。頭を低くして、荷車の馬を見ていた。馬が嘶いて足を踏み鳴らす。
「下がって! 荷車ごと、来た道へ」
自分の声が思ったより大きく出た。御者が手綱を引き、若い男が馬の頭を押さえて後ろへ回す。荷車がゆっくり下がり始めた。
「巡回の人がこっちへ来てるはずだ。あんた、畑の縁を走って大声で呼んでくれ」
若い男はうなずいて、茂みから離れた畑の縁を走っていった。
獣が一歩出た。俺は荷車と獣の間に立って、剣の柄を握った。
抜けない。鞘ごと腰の後ろへ回る。
「左手で鞘の口を押さえてください」
アイリの声は短かった。言われたことは分かる。左手を鞘へ持っていく。今度は右手が柄から離れた。
「右手は柄のままです」
分かっている。分かっているのに、手が二つとも言うことを聞かない。ようやく刃が半分出た時には、獣との距離が半分になっていた。
遠くで若い男の叫ぶ声がした。それに答える女の声も。
獣が横へ回る。半分抜けた刃を鞘ごとそっちへ向けようとして、足が轍に取られた。膝が落ちる。
「下がりな!」
声と同時に、誰かが道の端を駆けてきた。
栗色の髪を短く結んだ女だった。左腕に小さな盾、右手に片手剣。女は道の真ん中ではなく、端の踏み固められた地面を選んで止まった。五番の石柱のすぐ脇だった。左は石柱とその外の溝でふさがれていて、獣が来られるのは正面と右だけになる。女は盾を右へ向けた。
獣が跳んだ。女は盾で鼻先を横へ払い、半歩だけ前へ出た。剣の腹が獣の肩を打つ。獣は高い声を上げて飛び退き、そのまま茂みの奥へ逃げていった。
女は追わなかった。剣を構えたまま、左右の茂みと来た道を見回した。
「見えるのは一頭か。怪我は」
「ない、です」
立ち上がって初めて、俺はその顔に気づいた。
「……武具屋の」
「ああ。あの時の」
女は剣を収めて、俺の腰の鞘を見た。
「剣はいいのを選んだのに、抜き方がひどいな。あれじゃ抜いてる間にやられる」
言い返す言葉がなかった。
「でも、荷車を先に下げたのはよかった。あの若いのを畑の縁から走らせたのも。真ん中を走らせてたら、あいつが追われかねなかった」
女はリナと名乗った。Eランクで、この区間の巡回を請け負っているという。さっきのは灰牙犬で、普段は森の奥で群れで動く。一頭で街道に出てくるのは珍しいらしい。
アイリは俺の横に立っていた。図を持つ手が少し震えていて、紙の端が鳴っていた。
「リナさん。踏み込む前に、道の端を選んでいましたね。なぜですか」
「真ん中は轍で柔らかい。踏ん張ると滑る。そこの兄さんみたいに」
俺は轍に取られた自分の膝を見た。
その日は、リナの巡回に合わせて八番まで、道標と路面だけを見た。待避所の柵は別の日に回した。
五番の先でリナが道の端にしゃがんだ。乾いた土に爪の跡のある足跡が三つ並んでいる。
「灰牙犬だ。あたしの書き付けだと、この区間で跡を見たのは先月は二回。この十日で、これが四回目」
アイリは足跡の場所と数と向きを図に書いた。前と比べられる記録は、俺たちにはない。増えたかどうかはリナの書き付けが頼りだった。
帰り道、俺はリナに頭を下げた。
「剣を教えてほしい。まずは、次に同じことがあったら、自分で下がれるようになりたい」
リナは少し考えてから、指を三本立てた。
「朝の巡回の前の、短い時間だけ。訓練料はもらう。あたしもこれで食ってるから。それと、あたしがいない日も一人で同じことをやる。それができないなら教えない」
「やります」
「教えるのは逃げ方だよ。前に出るのはあたしの仕事」
*
次の日の朝から、訓練場の端で同じ動作を繰り返した。
剣を抜く。抜いたまま三歩下がる。止まって、しまう。それだけだった。
アイリは横で見ていて、一回ごとに一つだけ言った。
「左手が遅れました」
「今度は右足が先に下がりました」
「目が剣を見ています。前を見てください」
一つ直すと、別の所が崩れる。言われていることは毎回正しい。頭では分かる。それでも腕と足は、その一つを覚えるのに何十回もかかった。
「分かったのに、できない」
「はい。私が言えるのは形だけです。覚えるのはマスターの身体なので、私には代われません」
アイリはそう言って、また一つだけ言った。
リナが来る日は、荷を背負ったまま後ろ向きに歩く練習が足された。三往復目でふくらはぎがつりそうになった。汗をかくと、柄が手の中で回った。それを見たリナが、手袋を買いなと言った。
リナの指導のない午後は、ギルドの二階でトーマという講師に補助術の初歩を習った。痩せた穏やかな人で、俺の手を取ると少し困った顔をした。
「魔力は少ないですね。普通の人より少しだけ。でも、ゼロではありません」
教わったのは《滑り止め》という術だった。軽い物に一つ触れて唱えると、その表面が滑りにくくなる。手を離しても、五つ数える間だけ効く。それだけだ。
「火の玉とかは」
「ありません」
トーマは机に板を斜めに立てかけ、上に木の杯を置いた。手を離せば杯は滑り落ちる。触れて唱えて、手を離す。杯はすぐに滑った。三回目で、こめかみの奥が重くなった。
「今日はここまでです。疲れた時に続けても身につきません」
格好いい魔法を使う自分は、少しも想像できなかった。それでも次の日もまた二階へ上がった。
朝は剣、午後は杯。リナの巡回に合わせて残りの待避所の柵も見て回った。灰牙犬が出た茂みの手前では、三人とも足を止めて、茂みの奥を見てから進んだ。
「この茂みは道のすぐ脇まで来ていて、奥が見えません。最初に通った時、私は書いていませんでした」
アイリは図の余白に、見通しの悪い茂みの印を一つ足した。点検の項目にはない印だった。
夜は宿でアイリと点検の図を清書した。リナの巡回の書き付けも一緒に見せてもらった。場所はどの道標から何歩と正確なのに、時刻は「朝」「昼過ぎ」しかない。
「リナさんの時刻は、こちらで推測して埋めません。一緒に歩いた日は私たちの図の『日が高くなる前』『日暮れの鐘の前』と同じ欄に並べます。一緒でなかった日は書いてある通りにします」
アイリは書き付けを日付順に並べ直して、順番の分からない二枚だけをリナに見せた。
「どっちが先か、覚えてますか」
「……こっちが先。雨の前だったから」
「助かる。あたし、そういうの苦手でさ」とリナは付け足した。
訓練を始めて八日目の朝、リナの前で剣を抜いた。
左手で鞘を押さえて、右手でまっすぐ引く。刃が一度で出た。三歩下がって止まり、しまう。
「今の、もう一回」
もう一度やった。同じように出た。
「……よし」
リナはそれだけ言って次の型に移った。アイリは何も言わなかった。言うことが一つもなかったらしいと、少し遅れて気づいた。
その日の午後、トーマの机の前で杯に触れた。唱えて、手を離す。
杯は板の上で止まっていた。
一つ。二つ。三つ。四つ。五つ目で、杯はゆっくり滑り始めた。
「……止まった」
「止まりましたね」とトーマが言った。
たった五つだ。剣も振っていないし、何も倒していない。それでも、八日かけて板の上の杯が五つ数える間だけ止まった。俺はしばらく、その杯から目を離せなかった。
「マスター、もう一回やりますか」
「やる」
二回目は止まらなかった。三回目の前に、トーマが今日はここまでと言った。
それでも宿へ戻る道で、俺は何度か右手を開いて見た。五つ数える間だけ止まった杯の手応えが、まだ指先に残っている気がした。
*
三十八日目の午後、ギルドの打ち合わせ室で点検の図と記録を納めた。
エルマさんは図を一枚ずつめくり、四番の先の穴の書き込みで手を止めた。
「穴の大きさまで測ってありますね。道の係に回します」
今回の点検は、二人に一件ずつ付いた。灰牙犬のことは別に報告として受け取られたが、件数には入らない。追い払ったのはリナで、俺たちは報告書にもそう書いた。
隣の席でリナが自分の巡回報告を書き終えた。アイリが日付と時間帯をそろえた分、いつもより早く終わったらしい。
「リナさんの巡回の記録では、東側の森の縁で灰牙犬の跡を見る回数が先月より増えています。お二人の図にも、跡の場所が書いてありますね。森の中のどこまで変わっているか、Eの区域で調べる依頼を出すことになりました」
Fの俺たちは、そのままでは森に入れない。
「受けるかどうかは、お二人で決めてください。断っても、街の中の仕事はあります」
リナが椅子の背にもたれた。
「あたしが監督で連れていく。条件はある。退く判断はあたしがする。でも、あんたらが危ないと思ったら言っていい。言われたら必ず止まる。それと、報酬は働いた分で分ける」
「私たちの担当は何ですか」とアイリが聞いた。
「あんたは見たものと時刻を書く。兄さんは荷と水と、通った道の記録。剣は抜かなくていい。抜くのはあたし」
アイリは自分の担当を一度だけ繰り返し、それから聞いた。
「リナさんにとっての利点は何ですか」
「書いてもらえること。一人で回ってると、見たことを全部覚えて帰るのは無理なんだよ。あんたが日付と時間帯をそろえてくれたやつ、エルマさんに一回で通った」
保護されるだけの同行ではない。三人とも、相手がいないとできないことがある。
俺はアイリを見た。アイリはうなずいた。
「受けます」
ギルドを出たその足で、リナに言われた物を買いに行った。底の厚い丈夫な靴と、革の手袋。今の靴は底が薄く、前の採取ではかかとの皮がむけた。轍の上で踏ん張れなかったのも、この靴だった。手袋は訓練で柄が回った分だ。
二人分で銅貨二百五十枚。財布は軽くなったが、新しい靴で踏んだ石畳は少しも滑らなかった。
「明日は森の縁で待ち合わせです」
宿へ戻る道で、アイリが言った。
「あの人に助けられた場所の、少し奥ですね」
「ああ。今度は、一緒に歩く」
格好よく助けるはずだった。結局、助けられた。それでも明日は、同じ依頼の一人として森へ入る。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




