見たかったもの
朝はよく晴れていた。戸を開けると、冷たい空気が顔に張りついて、鼻の奥が痛くなった。夜の間に降った雪が小屋の周りを平らにならしていて、昨日までの足跡はどこにも見えなかった。
セレスさんが戸口で空を見上げて、少しの間動かなかった。
「冷えますね」と俺は言った。
「はい。よく冷えています」
セレスさんはそれだけ答えて、手袋をはめ直した。
小屋の前で、リナが盾を左腕に付けて構えた。腕に重さをかけたまま、しばらく止まる。それから盾を下ろした。
「いける」
俺は膝を曲げて、小屋の前の斜面を数歩上って下りた。痛みはまだあったが、足は言うことを聞いた。
「俺もいける」
壁のかんじきを四人分借りて靴に結んだ。小屋の裏から刻み目の付いた木が尾根の方へ並んでいる。その刻み目をたどって歩き出した。
かんじきで歩く雪は、昨日までとは違った。沈まない代わりに、足を大きく開いて運ばなければならない。最初の十歩で、腿の内側が熱くなった。後ろを振り返ると、四人分の丸い跡が一列に続いていた。
「この刻み、浅いな」とリナが言った。木の幹を指でなぞっている。「あたしなら、もっと分かりやすく刻む」
「リナさんが刻むと木が倒れると思います」とアイリが言った。
「倒れない」
「倒れた木も目印になるので、分かりやすくはあります」
アイリの口の端が、少しだけ上がっていた。
「アイリ。それ、からかってるだろ」
「はい。少し」
リナが雪玉を作りかけてやめた。後ろでセレスさんが小さく咳払いをした。
しばらく上ったところで、リナが足を止めた。張り出した枝の下を指さす。
「これ」
枝の下の雪は浅かった。その上に黒く乾いた点が二つ三つ残っている。枝の葉にも一つ付いていた。
「血です」とアイリが言った。帳面を開いて前のページと見比べる。「この道の向きは、二度の記録と同じ尾根の方です」
俺は記録票に血の跡を見つけた所と日の高さを書いた。枝の形も一つ描いておいた。帰りに同じ道を通るなら目印になる。
あの一頭の血なら、記録と同じ方へ上がっていったことになる。刻み目の道も、その方へ続いていた。
俺たちは戦いに来たのではない。見て戻る。リナは盾を背負わずに左腕に付けたまま歩き、アイリはときどき立ち止まって林の奥を見た。
セレスさんは歩きながら何度か空を見上げていた。雲は一つもなかった。
*
昼が近くなって、林が切れた。
尾根の下に開けた所があった。雪が平らに広がって、その向こうで岩の壁が日を受けて白く光っている。風はほとんどなかった。自分の息の音がやけに大きく聞こえた。
セレスさんが立ち止まった。
「……もしかしたら」
ほとんど息だけの声だった。俺はセレスさんの見ている方を見た。
最初は雪の照り返しかと思った。開けた所の上の空気が細かくきらきらと光っていた。それがふっと形になった。
細い光が一本、雪の上からまっすぐ立った。少し離れてもう一本。三本目は岩壁の前に立った。
音はなかった。光の柱は揺れもせずに、ただそこに立っていた。空の青さの中で、そこだけが淡く光っていた。
セレスさんの手が背負い袋の脇の測る棒へ伸びた。指先が棒に触れて少しだけ止まり、そのまま離れた。セレスさんは空いた手を胸の前で握った。
俺は隣で見ていた。何が起きているのかは分からなかった。分からないまま、きれいだと思った。
少し離れた所で、リナが「あ」と小さく声を上げた。盾を構えたまま、周りを見張る目の端で柱を見ている。アイリはリナの隣で帳面を開かずに、黙って光を見ていた。
どのくらい立っていたのかは分からない。たぶん長くはなかった。一本目がふっと薄くなって消えた。二本目と三本目もそれに続いた。
開けた所には、平らな雪と岩壁だけが残った。
セレスさんが長く息を吐いた。白い息が、柱の立っていた辺りへ流れていった。
「見られました」
小さな声だった。
「うれしいです」
セレスさんはそう言って笑った。
俺はその顔を見て少し驚いた。研究の話で早口になる時とも違った。子どもみたいに、まっすぐ笑っていた。
セレスさんにこんな顔があったのか、と思った。
しばらくして、セレスさんは手帳を出した。
「少しだけ、書いておいていいですか」
「どうぞ」
セレスさんは手帳に数行書いて、すぐに閉じた。閉じた手帳を両手で持ったまま、もう一度だけ開けた所を見た。
*
引き返す前に、開けた所の周りを見て回った。
開けた所の東は切り立った岩の壁だった。表面がつるりとしていて、手をかける所も、雪が積もる段もない。西は雪の付いた急な斜面で、少し先から下へ切れ落ちていた。その間を、岩に挟まれた狭い道が尾根の方へ上がっていた。見える範囲では、登り口はそこだけだった。
枝の下で見たのと同じ黒い点が、その道の入口の岩の陰にも残っていた。
リナが狭い道へ入って、両側の岩に手を当てながら少し歩いた。狭い所では、二人並べば肩が岩に触れそうだった。それからリナは西の斜面の縁へ行って、一歩下りかけた。足もとの雪が崩れて、斜面を音もなく滑っていった。リナは足を引いた。
「ここを走って上がるのは、あたしでも無理」
今度は東の壁に手を当てて、指をかけようとした。指は岩の上を滑って、雪の粉だけが落ちた。
「こっちも無理だ。爪も引っかからない」
「この一帯で走って尾根へ戻れるのは、この道だけかもしれません」とアイリが言った。「二度の逃げた方向とも重なります」
アイリの帳面の二本の線と、目の前の一本の道が重なった。柵の夜から書きためてきたものが、ここで一つにつながった気がした。
狭い道を少し上ると、岩の切れ目から下が見えた。高地側の街道が白い帯のように谷をうねっていて、その一部がここから見下ろせた。荷車の轍は見えなかった。動いている物も人影も、どこにもなかった。
俺は記録票に、岩の壁と斜面と、その間の道を描いた。
その時、セレスさんが顔を上げた。
「風が変わりました」
朝は斜面の上から吹き下ろしていた風が、今は谷の方から上がってきていた。頬に当たる冷たさの向きがさっきと逆になっている。
「私の風では、この風は変えられません」とセレスさんが言った。「動かせるのは、数歩から十数歩の間だけです」
「谷から吹くと、俺たちの匂いは尾根の方へ行くのか」
「はい。今の風なら」
俺は日の高さを見て、記録票に書いた。昼過ぎ、風が谷から上がる。この日はそうだった。明日もそうなのかは分からない。
尾根の方には、あの群れがいるかもしれない。そちらへ俺たちの匂いが流れていく。
「戻ろう」と俺は言った。「今日はここまでだ」
誰も反対しなかった。リナが盾を構え直して、一番後ろに回った。
*
谷からの風を顔に受けながら、刻み目の道を下り始めた。
しばらくはリナが一番後ろを歩いて、何度も振り返った。開けた所が林に隠れてから、リナはアイリの隣へ上がっていった。二人が前を歩き、俺とセレスさんが並んでその後ろになった。
「さっきは、ありがとうございました」
「何もしてないよ」
「一緒に見てくれました」
セレスさんはそれだけ言って前を向いた。
「手帳には、何を書いたんですか」
「三本だったことと、だいたいの時刻です」セレスさんは少し考えてから付け足した。「あとは、秘密です」
俺は聞き返さなかった。かんじきが雪を踏む音が、二人分並んで続いた。
前の方で、リナがアイリに何か言っていた。
「三本目が一番太かった」
「二本目の方が、少し長く残っていました」
「太さの話だって」
二人もちゃんと見ていたのだ。
セレスさんがまた小さく笑った。俺は、さっきの顔を思い出していた。
猟師の小屋に着いたのは、日が沈む少し前だった。
*
その夜、炉の明かりで、記録票の絵を描き直した。
東の岩壁。西の切れ落ちた斜面。その間の狭い道。道の上から見下ろせる街道。
アイリが横からのぞいて、道の幅の所に小さく数字を書き足した。リナが歩いて確かめた幅だった。リナは炉のそばで、もう寝息を立てていた。
あの道なら、待っていられるかもしれない。
次の日、俺たちは約束どおり昼に番小屋へ戻った。
ハーゲンさんが小屋の前に立っていた。四人を一人ずつ見て、リナの腕の布と俺の歩き方で目を止めた。
「戻ったな」
「はい。話したいことがあります」
ハーゲンさんは短くうなずいて、小屋の戸を開けた。
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