用事のない日
その夜、宿場の食堂の火はいつもより大きかった。
グレタさんがヨナスさんの脚の布を冷たい水で絞り直して巻き替えていた。ベルントさんは両手をぬるい湯の桶に浸けて、ときどき指を曲げては顔をしかめた。マルタさんは戸口の近くに座って外から戻る男たちの数を目で追っていた。
施設はこのまま置くことになった。中心は一段戻したまま。氷出し口は開けたまま。踊り場には誰も入れない。マルタさんはそれだけ言ってあとは汁をすすった。
内側で何があったのかを俺は火の前で初めて聞いた。
「灯りを一つにしてから、アイリさんがずっと数えていたんです」とセレスさんが言った。「暗いと、隣にいても誰がいるか分からなくなるので。『ベルントさん、セレスさん、ヨナスさん、私』と、何度も」
セレスさんは隣のアイリを見た。
「数えてもらうたびに、まだ四人だと分かりました」
セレスさんの指先は、まだ少し赤かった。
「セレスさんは、ヨナスさんが眠らないように術式の話をずっとしていました」とアイリが言った。
「半分も分からなかったです」とヨナスさんが言った。「でも、眠りませんでした」
「作業台に上がると決めたのは」
俺が聞くと、ベルントさんが湯の中の手を少し持ち上げた。
「アイリさんと私だよ。階段が崩れて上へ戻れなくなった時、残った中では台がいちばん高いと、アイリさんが先に言った」
ヨナスさんが毛布の中から顔を出した。
「セレスさんの話、三つ目の術式から覚えてません」
「では明日、一つ目からもう一度」
ヨナスさんは毛布の中に首を縮めた。オットーさんは黙って立ち上がり、ヨナスさんの椀に汁をもう一杯よそってきた。
外で何があったかは、ほとんどリナが話した。話すうちに、リナの手の振りがだんだん大きくなった。
リナは火のそばで、盾の縁の歯の跡を指でなぞっていた。
アイリは俺の隣で湯の器を両手で持っていた。湯気が細く上がっていた。
「マスター」
「うん」
「管からマスターの声が聞こえた時、言葉より先に、声だと分かりました」
アイリはそう言って器の中に目を落とした。
俺は何か返そうとして、言葉が見つからなかった。鍋から湯を汲んでアイリの器に足した。アイリは器を少し傾けてそれを受けた。
その夜は誰も早く寝ようとしなかった。火が小さくなるたびに、グレタさんが黙って薪を足した。
*
次の朝にはベルクハイムからの応援と救護の人が着いていた。夜のうちに街道を来たという。救護の人はヨナスさんの脚を見て、骨は折れていない、しばらく現場は休みだと言った。
ベルントさんは宿の部屋の机に図面の写しを広げて、隅に今日の日付を書き足した。日付の横には天気も書いた。手がまだ少し赤く、字はいつもより大きかった。
それから水槽室の所に線を足していった。南東の底の水門の前に短い太い線を引いて、「後の時代の壁」と小さく書く。床には細い溝の線。北の壁にはアーチの形。氷の下でまだ見ていない所は何も描かずに枠だけ残した。
「確かめた所だけ書くよ」とベルントさんは言った。「次にこれを読む人が、どこまで信じていいか分かるように」
帳場の裏の物置を見つけた時も、ベルントさんは測ってから線を引くと言っていた。
アイリが写しの余白に一行書き足した。灰水の試験で確かめたのは、溝から斜面の排水口まで。水門は含まない。
ベルントさんはその一行を読んで黙ってうなずいた。
オットーさんは窓の外を見たまま、踊り場は石を組み直すまで誰も通さんと言った。マルタさんは俺の記録票の写しを一部置いていけと言った。点検の役に立つからだという。
「サエキ君の記録票の様式は、領主府への報告にも使わせてもらうよ」とベルントさんが言った。
俺はうなずいて、荷物の数を数え始めた。アイリは帳面を一冊ずつ紐で束ねていた。
点検はセレスさんとオットーさんとマルタさん、それに応援の人たちが続ける。施設をこの先も使うかどうかは、領主府が決める。俺たちの調査の仕事は、この日で終わりだった。
俺も自分の記録票の端に日付を書いた。その横に見た場所とまだ見ていない場所を一行ずつ。いつの間にかそう書くのが手の癖になっていた。
次の日、俺とアイリとリナは都市へ戻った。ヨナスさんは宿の戸口から杖を上げた。セレスさんは点検に残った。宿場の入口で手を振るセレスさんの外套の袖に、灰がまだ白く付いていた。
「戻ったら、続きの話をしましょう」とセレスさんはアイリに言った。
「はい」
帰りの街道は、来た時より荷車が少なかった。リナは前を歩きながら一度だけ振り返った。
「帰ったら、ちゃんと寝な」
*
四日後、ギルドで調査の残りの日当を受け取った。二人で銅貨千六百枚分、銀貨が十六枚。エルマさんは並べた銀貨の前で「お疲れさまでした」とだけ言った。
その足で宿場の見回りの依頼を受けた。点検を終えて戻ってきたセレスさんも加わって、四人でハーゼル宿へ向かった。見回りの道は秋の初めと同じだった。リナが前を歩き、俺が道順を書き、アイリが同じ場所から同じ向きを見る。
旧道の分かれ道の手前、石垣の下の陥没は埋められていた。土の色だけが新しい。点検で分かったことをセレスさんが歩きながら話してくれた。あれは後の使い手が掘った通気の縦穴で、大雨で口を開けたものだった。冷たい風の通り道も、もう別の向きに変えてあるという。日なたの草に霜はなかった。穴のあった所から冷たい風も吹いてこなかった。
俺は埋めた所の四隅に杭を打ち、紐を張った。紐と地面の間をアイリが一つずつ見ていく。
「点検の時に付けた印と同じ高さです。沈みは見えません」
初めてここに立った時、俺は中には入らないと言った。今は埋めた土の上に紐を張っている。
次の日、宿場の荷車が埋めた所の脇を通っていった。車輪は一度も止まらなかった。街道は元に戻った。
宿場ではヨナスさんが杖をついて待っていた。
「アイリさん。古い字の読み方を、教えてもらえませんか」
「はい。私も文書庫で習ったところです。一緒に読みましょう」
アイリはその場で帳面を開いて、最初の一字を大きく書いてみせた。ヨナスさんは杖を脇に挟んで、それを指でなぞった。
グレタさんは宿の前の道を箒で掃いていた。帰りぎわ、グレタさんがアイリに灰の袋を一つ持たせた。
「冬になったら、あんたも道にまきな」
「まく量を教えてください」
「勘だよ」
「勘、と記録します」
グレタさんは笑ってアイリの外套の肩を叩いた。
それから冬の前の依頼をいくつか受けた。倉の冬支度の棚卸し、荷馬車の護衛、薬草の採取。どれも決めた日に始まって決めた日に終わった。
*
Dの審査は三日がかりだった。一日目が書類、二日目が実技、三日目が面談。
俺の実技は、日暮れまでに野営地を作る課題だった。試験官が二人を付けた。野営に慣れた冒険者と、登録したばかりの新人。試験官は少し離れた岩に座って、板を膝に置いていた。
俺は慣れたほうに天幕と火の場所を、新人に水汲みと薪を頼んだ。慣れたほうは返事をする前に、もう天幕の袋を開けていた。
野営地は林の縁の平らな所だった。日はもう低く、天幕の布に木の影が長く伸びていた。
しばらくして新人が空の桶を下げたまま走って戻ってきた。
「水場に、獣の足跡があります」
俺は水場へ行きかけて、足を止めた。
「どこにあった。水際か、少し上か」
「水際の、泥の所です」
「足跡の縁は崩れてたか。中に水は溜まってたか」
「……縁ははっきりしてました。水は、溜まってなかったと思います」
「周りに折れた枝とか、ほかの跡は」
「見てません」
俺は慣れたほうを呼んだ。
「足跡を見てきてください。いつのものか、何の獣か。日が沈む前に戻ってください」
それから新人のほうへ向き直った。
「君はここで薪を続けてくれ。水汲みはあとだ。危なくないと分からなければ、水場はやめて持ってきた水だけで済ませる」
慣れたほうはうなずいて水場へ行った。戻ってきて、狐の足跡で今朝のものだと言った。水汲みは二人で行ってもらった。日が沈む前に、天幕と火がそろった。
試験官は何も言わずに板に何か書いた。
アイリとリナの実技の話は、あとで本人たちから聞いた。アイリは試験官の出した野営の記録を読んだという。雨の備えの欄には「なし(晴れの見込み)」とあった。アイリはそのいちばん下に「夜の間に天気が変わらない前提です。雨なら薪と火の場所が濡れます」と一行書き足した。リナは新人二人を連れて練習の道を下がる時、先頭ではなく二人の真ん中を歩いた。
三日目の面談では、調査のことを聞かれた。踊り場が崩れた時のことを話すと、喉が少し詰まった。試験官は最後まで黙って聞いていた。
その日の夕方、エルマさんが三枚のカードを並べた。
「悠真さん、アイリさん、リナさん。本日付けで、Dです」
セレスさんがカードを一枚ずつ手に取って見た。
「三枚とも、違う理由ですね」
リナはカードを裏返して、また表に戻した。アイリはカードの字を指で一度なぞった。俺は自分のカードを握ったまま、顔がゆるむのを止められなかった。
ギルドを出ると、通りの屋台に灯りが入り始めていた。アイリとセレスさんは、戸口でエルマさんに記録の話でつかまっていた。
「リナ。焼き栗、食べないか」
リナが足を止めた。
「……なんで栗」
「祭りの時、あの屋台の前で止まってただろ」
リナは少しの間俺の顔を見ていた。それから目をそらした。
「覚えてたのか」
「止まったのは覚えてる。匂いもな」
リナは何か言いかけて、やめた。それから屋台のほうへ先に歩き出した。
屋台の鉄鍋の中で、栗の殻がはぜていた。屋台の主人が、熱いから気をつけなと袋の口を折ってくれた。紙の袋に一杯分を買って二人で通りを歩いた。
リナは栗の殻を親指で割りながらしばらく黙っていた。割った殻は石畳に落とさずに手のひらに集めていた。
「前の組の、怪我したやつ」
俺は黙って栗を一つ割った。
「今は南の町で、荷車を引いてる。前より遅いけど、ちゃんと引いてる」
リナは割った栗を口に入れて少し熱そうにした。
「それを、兄さんに言っときたかった」
「うん」
俺は袋をリナのほうへ少し寄せた。リナは黙って次の栗を取った。
リナはそれ以上は言わなかった。俺も聞かなかった。袋の栗は、帰り道の途中でなくなった。通りの先でアイリとセレスさんが手を振っていた。
*
ベルクハイムに初雪が降ったのは、その二日後の朝だった。
目を覚ますと、外の音がいつもより静かだった。荷車の音も、通りの呼び声も遠かった。アイリはもう起きていて、帳面を閉じたところだった。
休みの日だった。部屋の窓のそばを通りかかったアイリが足を止めた。
外は白かった。向かいの屋根に薄く積もって、通りを行く人の肩にも落ちている。
アイリが振り向いた。
「マスター、雪です。歩きに行きましょう」
それだけだった。
俺は壁に掛けた外套を取った。
秋の初めにアイリが作った予定には、外套という用事が真ん中に書いてあった。
外へ出ると、雪は細かく風はなかった。アイリの外套の肩に雪が落ちて、すぐに小さな水の粒になった。粒は布にしみこまずに、丸いまま残っていた。
「はじいていますね」とアイリが言った。
「店の人の話、片方は本当だったな」
「はい。雪の中で一晩のほうは、まだ確かめていません」
古着屋の前を通ると、店主が戸口で雪を掃いていた。俺たちの外套を見て、ほらね、という顔をした。アイリは小さく頭を下げた。
広場の端では、子どもたちが薄い雪をかき集めて小さな玉を作っていた。アイリの吐く息が白かった。
アイリはときどき立ち止まって、屋根の雪を見上げた。俺も一緒に止まった。
明日はリナとセレスさんと、ギルドの掲示板の前で待ち合わせている。普通の依頼を探す約束だ。
今日はどこへ行くとも決めていなかった。
道の先に、まだ誰の足跡もない所があった。アイリがそこへ一歩出て、振り返った。俺はその隣に並んだ。
アイリの前髪に雪の粒が一つ、溶けずに乗っていた。
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