戻ってくる足音
宿場から人と荷が届き始めた。上層の廊下に人の声と足音が増えて、帳場の中まで土と汗の匂いが入ってきた。材木を担いだ男たち、灰の袋、油の壺。グレタさんの宿の若い者が二人、帳場まで上がってきた。一人は管の番の控えとして帳場に残った。もう一人は伝令に付いた。斜面で汁の伝言を言った若い者だった。控えの若い者は帳場の隅に座って、俺の手もとをじっと見ていた。
入口では宿場の男が外の鐘を数えている。鐘が鳴るたびに伝令が帳場へ知らせに来て、俺は管を二つ叩いた。内側から二つが返る。全員無事。それを聞くまでの間がいつも長かった。最初の鐘の知らせが来た時は叩く手が少し震えた。二つが返ってきて、ようやく息ができた。
伝令が階段のほうから駆け上がってきた。
「マルタさんから。三つ、送っていいそうです」
俺は剣の柄頭を管の縁に当てた。
これを叩けば、セレスさんは後の線を切る。切った線は戻らない。
三つ叩いた。
こん、こん、こん。
管に耳を寄せる。少しして内側から三つ。了解。作業に入る。
それから管の向こうは静かになった。
目を閉じると、作業台の上の座と、その脇から分かれた細い枝の線が浮かんだ。中層で初めて見たのと同じ、迷いながら彫ったような線だった。
耳を澄ませると、布の擦れる音がした。台に何か硬いものが当たる小さな音。誰が何をしているのかは分からない。遠くでは斜面の鍬の音が続いていた。一定の間を空けて土と石を打つ。管の静けさと遠い鍬の音がかわるがわる耳に入ってきた。
こん、こん、こん、こん。
四つ。線を切り、中心を一段戻した。
俺は四つ返した。指に力が入りすぎて、最後の一つだけ音が大きくなった。
「通り道の口に、霜が戻りました」
セレスさんの声だった。いつもより低かった。
俺は紙に書いた。三つ、三つ、四つ。
しばらくして伝令が戻ってきた。
「親方から。……ええと、『ひびから水がしみ出なくなった。水は止まった。石が止まったかは、まだ分からん』だそうです」
若い者はオットーさんの口ぶりを真似ようとして、途中で自分の言い方に戻っていた。
水は止まった。石はまだ分からない。俺は紙に二行を分けて書いた。
*
支えの話も、伝令が運んできた。
階段の上では男たちが材木と楔で踊り場の残った半分を支えたという。オットーさんが荷を受けている石を一つずつ指して、そこへ材木を当てさせた。最後にひびと楔に白墨で印を付けた。
「石が落ち着くか見るには、しばらくかかる。その間に斜面だ」
そう言ってオットーさんは印の見張りをマルタさんに頼んだそうだ。
「髪一本でもずれたら呼べ、って」
伝令は自分の前髪をつまんでみせた。階段は冷えが戻って、また白くなり始めているという。
俺は管に顔を寄せた。
「支えを入れた。まだ通れない」
「支えを入れた。まだ通れない」
アイリの声が同じ言葉を返した。
支えが効いているかどうかは、時間を置かないと分からない。待つしかなかった。
俺は紙に「支え。見張りはマルタさん」と書いて、帳場の灯りに油を足した。
*
斜面では埋めた土の下から後の時代の石積みが出てきたという。どこを外すか決めるのに、オットーさんは中からの音が欲しいと言ってきた。
俺は管に頼んだ。
「ヨナスさん、アーチの上の壁を叩いてくれ」
「は、はい」
遠くで返事がした。ヨナスさんの声を聞くのは崩れてから初めてだった。
少しして管の奥から小さく金槌の音が伝わってきた。かん、かん。作業台の北の端から、アーチの上の壁石を叩いているのだろう。音は一定ではなかった。少し間が空いてはまた鳴る。脚をかばいながら台の端に立っているのだと思った。
伝令が斜面と帳場を何度も往復した。
「親方が石に耳を当てて、音のする所に印を付けました」
「男の人たちを、水の出る正面から外して立たせてます」
「外す石を、一つずつ指してます」
そのたびに俺は金槌を続けるか止めるかを管で伝えた。
何度目かに戻ってきた伝令が、膝に手をついて言った。
「戸板が出てきました。腐ったのが二枚。その奥に、薄い煉瓦が」
氷出し口の戸板、二枚。
帳場の棚にある目録の一行が、斜面の土の中から出てきた。アイリがこの部屋で目録を写した日の鉛筆の音を、なぜか思い出した。
しばらくして管の奥の水の音が変わった。低く引いていくような音だった。
「段の印、一つ下がりました」
アイリの声だった。
伝令が駆け込んできた。煉瓦が抜けて水が斜面へ流れ出したという。濁った水が音を立てて斜面を下っていったそうだ。水は街道の脇の溝へ向かっていて、男たちが鍬で流れの向きを整えている。オットーさんはもう階段の上へ戻り始めていた。
*
階段の上のことは、全部伝令の口から聞いた。
オットーさんは戻るとすぐ、白墨の印と楔を自分で確かめた。マルタさんが見張っている間、印はずれなかった。
「石は動かん、って」
穴には板が渡された。渡してから板の上に霜が付いていった。男たちが宿場から運んだ灰の袋を開けて、板にまいた。冬は道に灰をまく、とグレタさんが前に言っていた。
それから伝令はしばらく戻ってこなかった。
戻ってきた時の若い者の顔は白かった。
「霜這いが、階段のほうへ出てきてます」
冷えが戻った階段の側へ、廊下の奥から白いのが移ってきたという。数は多くない。リナが灯りと盾を持って、廊下の真ん中に立っている。
「リナさん、追わないんです。盾で、こう、横に流して」
若い者は腕を斜めに振ってみせた。
「石の隙間から白いのが顔を出すと、リナさんが灯りを少し寄せるんです。それで引っ込む」
「一度だけ盾の縁を噛まれて、そのまま押し返してました」
「でも壁ぎわの暗い所に、まだ何匹かいて。リナさん、そこから動けなくて」
俺は立ち上がりかけて、また座った。行けば手が一つ増える。けれど通行の合図を送るまでは、管の前が俺の持ち場だった。
「マルタさんが、灯りを動かす人を名前で呼んで、並べ直させてます。帰り道の側に先に置いて、暗い所を残さないように」
中層の座を閉じた日に、皆で覚えた置き方だった。
伝令はまた走っていった。しばらくして戻ってきたが、運んできたのは鐘の知らせだけだった。俺は二つを叩き、二つが返った。
管の奥からアイリの声がした。
「水が膝より下になりました。いちばん下の段の印より、下です」
「マルタさんに伝えてくれ」
若い者はうなずいて、すぐ階段のほうへ引き返していった。待っているのは、通っていいかどうかの一言だった。管の縁に置いた指先が冷えていった。俺は紙の端を何度も揃え直した。廊下に足音が聞こえるたびに顔を上げた。違う足音だと分かるたびに紙に目を戻した。
次に戻ってきた伝令はさっきより息が落ち着いていた。
「通路、空きました。白いのは廊下の奥の、灯りの届かないほうへ下がりました。リナさん、まだ立ってますけど」
それから、もう一つ。
「マルタさんが、通っていいって」
俺は管を二つ叩き、少し間を空けてもう二つ叩いた。
こん、こん。こん、こん。
耳を当てる。内側から二つ・二つ。
それからアイリの声がした。
「灯りを点けます。下ります。ベルントさん、セレスさん、ヨナスさん、私。四人、下ります」
水を分ける足音が、管の奥で遠くなっていった。足音は一度止まり、また続いた。ヨナスさんの足に合わせているのだろう。
俺はもう一人の若い者に管を渡した。
「中はもう誰も管の前にいない。鐘の二つは送らなくていい。何か聞こえたら、すぐ階段の上へ知らせてくれ」
「はい」
ここから先は、穴越しの声と自分の目で確かめる。
帳場を出て上層の廊下を走った。階段を下りる足が一度もつれかけた。廊下の灯りは、朝より間を詰めて並んでいた。
階段の上に着くと、廊下の端にリナがいた。盾を左腕に通したまま、廊下の奥を向いて立っている。足もとの灯りの油は半分を切っていた。リナは盾を持つ手を一度ほどいて、握り直した。盾の縁には新しい歯の跡が並んでいた。
「兄さん」
振り向かずに言った。
「こっちは見てる。行きな」
穴の向こう、下の階段に灯りが一つ見えた。灯りの下で二つの影がかがんで、壁側の小石を拾っては脇へ寄せていた。
「下の階段、壁側。一人ずつ通れます」
アイリの声が穴を越えて上がってきた。管を通らない、そのままの声だった。
*
板の上は灰で白かった。
穴の上には手綱が一本張ってある。上の端は俺の手もとの杭に、下の端はセレスさんが下の壁の石の輪に結んだ。腰綱は別の一本で、マルタさんとオットーさんが上から持っている。
最初にヨナスさんが渡った。腰綱を付けて手綱を握り、片脚をかばいながら板を進む。上の端でオットーさんが腕をつかんで引き上げた。
「親方」
「遅い」
オットーさんはそれだけ言って、ヨナスさんの肩を一度強く叩いた。
次はベルントさんだった。腰綱を付けて下の端に立ったが、手綱を握る指がほとんど曲がっていないのが灯りで見えた。冷えで力が入らないのだ。
俺は手綱に触れて《滑り止め》をかけ、手を離した。
「今です」
ベルントさんは手綱にすがって、いちばん凍った真ん中を渡りきった。上の端でマルタさんが腰綱を引き寄せ、ベルントさんの手を手綱から外させた。
腕が重かった。肘から先に砂を詰められたようだった。二回目は効かないかもしれない。残りの二人は決めてあったとおり手綱と腰綱と灰で渡る。
アイリが下の端に立った。
灯りを一つ持っていた。腰綱を結び、灯りを持たない手で手綱を握る。一歩目を板に乗せて、止まった。灯りを少し下げて板の霜を見ている。それから二歩目。
俺は上の端で膝をついた。手綱の端に手を添えて、腕を伸ばせばすぐ届く所で待った。手綱はアイリが一歩進むたびに、俺の手の中でかすかに張った。後ろではマルタさんがアイリの腰綱を少しずつたぐっていた。たぐる手もアイリの足に合わせてゆっくりだった。
さく、と灰を踏む音がした。
アイリはまた止まった。板の真ん中、霜がいちばん厚い所だった。灯りを足もとへ向ける。灰の白と霜の白が、灯りの中で混じっていた。灯りの火が小さく揺れた。アイリは火が落ち着くのを待ってから足を出した。
早く、と言いそうになった。言わなかった。手綱に添えた手も動かさなかった。
さく。
さく。
足音が近づいてくる。一歩ごとに灯りが少しずつ大きくなり、その向こうにアイリの顔が見えてきた。唇を結んで足もとだけを見ていた。
最後の一歩でアイリの靴が上の端の板に乗った。
アイリは俺の前で止まって、顔を上げた。
「戻りました」
「うん」
それしか言えなかった。アイリの髪の先に細かい霜が付いていた。灯りを受け取ろうと手を出すと、アイリの指に触れた。冷たい指だった。アイリは灯りを渡さずに少しの間そのまま持っていた。
最後にセレスさんが渡ってきた。一度も止まらずに渡りきると、上の端でまずアイリのほうを見た。
*
中層の廊下の灯りの下で、マルタさんが名前を一人ずつ呼んだ。
「ベルント」
「ここに」
「オットー」
「おう」
「ヨナス」
「はい」
「リナ」
「いる」
リナは廊下の奥を向いたまま答えた。
「悠真」
「はい」
返事をしてから、呼ばれ方が違うことに気づいた。
最後に上がってきたセレスさんは、自分の名前を呼ばれる前に口を開いた。
「アイリさん」
「はい、ここにいます」
セレスさんはそれを聞いてようやく自分の名前に答えた。
入口の戸を出ると、冷たい外の風が汗の上を通っていった。空はもう夕方の色だった。皆で斜面を下りて宿場へ戻った。
宿場の火の前に、全員がいた。火のまわりには宿場の男たちも集まっていて、汁の湯気が白く立っていた。リナは火のそばに座ると、盾を下ろしてやっと腕を振った。
ベルントさんが凍えた手を火へ近づけようとして、マルタさんに手首をつかまれた。
「急に温めるな」
「……図面より厳しいね」
グレタさんは俺たちの顔を一つずつ見てから、黙って椀を並べ始めた。
アイリは椀を両手で受け取って、湯気に顔を寄せた。
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