そちらではどう見える
管の奥は静かだった。
耳の中で自分の血の音だけが鳴っている。冷たい空気がかすかに頬に当たり続けていた。俺は管の縁に指を当てたまま、息を浅くした。管の奥から、水の滴るような音が小さくしていた。下の音なのか、管の中の音なのかは分からなかった。
こん。
指先が先に気づいた。石の中を細い震えが一つ通り、少し遅れて耳に音が届いた。
こん。
二つ。
「今の」とリナが言った。
俺はうなずいた。うなずくことしかできなかった。膝から力が抜けて、帳場の床に座り込んだ。管の縁に当てた指は離さなかった。
リナが黙って立ち上がり、帳場を出ていった。廊下を走る足音が遠ざかっていく。
俺は管の口に顔を寄せた。
「聞こえるか」
返ってきたのは声だった。けれど管の中で何度も跳ね返って、言葉の形が崩れていた。長い返事ほど聞き取れない。
問いを短くした。
「全員、いるか」
少し間があった。
「います。四人」
一言ずつ区切って置くような話し方だった。何度も聞いてきた声の調子。アイリだ。管の縁を押さえる指に、自分で分かるほど力が入った。
喉の奥が詰まって、次の問いがすぐには出なかった。
「怪我は」
「ヨナスさん、脚を打ちました。歩けます。遅いです」
「今、どこにいる」
「作業台の上です。四人とも」
「水は」
「ゆっくり上がっています。段のいちばん下より、まだ下です」
「灯りは」
「三つあります。今は、一つだけ点けています」
三つ。
崩れた踊り場の向こうで揺れていた一つのほかは、消してあったのだ。俺は管から顔を離して、一度だけ長く息を吐いた。管の縁に置いた手のひらに、綱の跡がまだ赤く残っていた。その手で、もう一度管を押さえた。
足音が戻ってきて、リナとマルタさんが帳場に入ってきた。マルタさんは俺の顔を見て、管を見た。
「つながったか」
「四人とも作業台の上です。ヨナスさんが脚を打って、歩けるけど遅い」
マルタさんはうなずいて、管の口に向かって言った。
「下の階段は」
答えはアイリだった。
「石が散っています。壁側は通れそうです。近くでは、まだ見ていません」
マルタさんは「分かった」とだけ言った。
問いが一通り終わると、管の向こうで少し声が入れ替わった。
「悠真さん」
セレスさんの声だった。
「こちらには記録係がいますので、崩れた時に私が何と叫んだかも、全部残ります」
リナが横を向いて、肩を震わせた。俺も声を出さずに少しだけ笑った。
*
図面の写しを膝に広げて、俺は管の前に座り直した。
四人が無事なのは分かった。次に知りたいのは、下で何が起きたかだった。聞くのは少し怖かった。それでも聞かなければ、次の手が決まらない。
「そっちから、今何が見える」
「氷の縁が下がりました。水槽の底が、一部見えています」
俺は図面の水槽室に指を置いた。底の南東の角に、小さな四角が描いてある。下の水門だ。そこから管の線が床下を通って、斜面の排水口まで伸びている。
「南東の底を照らしてくれ。図面だと、そこに水門がある」
「はい」
管の向こうが静かになった。台の上を歩く足音が遠く小さく聞こえて、それも消えた。
灯りを持って作業台の南の端まで行き、底を照らしているのだろう。俺は図面の四角に指を置いたまま待った。
「壁です」
アイリの声が戻ってきた。
「漆喰の壁で、ふさがれています」
四角はそこにある。線もそこから出ている。指を動かせば、その先の排水口まですぐたどれる。その指が、四角の上から動かせなかった。
マルタさんが横から図面をのぞきこんだ。何も言わなかった。
「続けて、北を見ます」
少しして、また声がした。
「北の壁の霜が溶けています。下に、煉瓦でふさいだアーチがあります。床の水は、北の浅い槽に集まっています。煉瓦の間に、しみ込んでいます」
俺は灰を流した溝を思い出した。氷の縁の南東から東の壁ぞいを南へ、床の暗い口に吸い込まれていった灰色の筋。あの溝は、壁の手前のどこかで下流の管へつながっているのだろう。
灰色の水は本当に外へ出た。俺が確かめたのは溝から先で、水門ではなかった。
帳場の棚の目録が頭に浮かんだ。「底口へ石材・漆喰十袋」。「氷出し口の戸板二枚」。アイリが写した二行が、頭の中で別の場所に置き直されていった。
「最終段階を決めたのは私だ」
管の向こうで、ベルントさんの声がした。
「その話は、出てから私がする。サエキ君、今は先のことを」
「北の壁の外は、どこに出ますか」
自分の声が思ったより落ち着いていた。
「図面にはない。……外から探すしかないね」
俺は図面の上の指をようやく四角から離した。北の壁へ動かすと、そこには何も描かれていなかった。
*
管の前はマルタさんが受け持ち、俺とリナとオットーさんは斜面へ出た。オットーさんは階段の上で、もう一度穴とひびを見てきたところだった。
「壁の裏で鳴っとった水が、ひびから出た」と歩きながらオットーさんが言った。「通り道の霜が溶けた水だろう。冷えを戻せば、出る水も減るはずだ」
搬入口を抜けて入口の戸を出ると、日の光がまぶしくて目を細めた。日はもう高かった。宿場の方角から昼の鐘が小さく聞こえた。
排水口の石の口からは、溝の水が細く流れ続けている。灰色の水が出てきた口だ。石の縁には、灰の跡がまだ薄く残っていた。
リナが排水口の上の斜面を歩き始めた。草を分けて、一歩ずつ足もとを見ていく。
途中で足が止まった。
「兄さん。ここにも、もう一本ある」
排水口より少し高い所に、草の色の濃い筋が横に走っていた。しゃがんで苔に触ると、指先が冷たかった。下の筋と同じ冷たさだった。
「前に見た時、一本だと思って上は見なかった」
リナは苔から手を離さずに言った。
「下の筋のほうが目立ったからな。あたしの見落としだ」
「俺もあの日、一本で納得してた」
オットーさんが短い鶴嘴で筋の上の土を掘った。土は浅く、すぐに石が出てきた。オットーさんは石の面を手のひらでなで、継ぎ目に指を入れた。
「積み方が違う。後の連中が埋めた跡だ」
もう少し掘ると、石の並びが弧を描いているのが分かった。下に向かって丸く曲がっている。オットーさんは鶴嘴を置いて、石の継ぎ目に耳を近づけた。
「水の音がする。中は近いぞ」
リナは筋の端から端まで歩いて、歩幅で長さを確かめた。
俺は図面の写しを斜面に広げた。風でめくれる端を、リナが手で押さえた。排水口は水槽の底の南東の角から出ている。北のアーチは床の高さで、水槽室の北の壁にある。斜面の向き、排水口からの高さ。図面と目の前の斜面を何度も見比べた。
「アーチの外側は、ここだ」
オットーさんがうなずいた。
俺は記録票を板に挟んで、案を書いた。鉛筆の先に力が入って、紙が一度破れかけた。外から掘ってアーチを開け、水を抜く。踊り場に支えを入れて板を渡す。セレスさんにすぐ中心を一段戻してもらい、溶ける速さと、オットーさんの言ったひびからの水を抑える。三つを同時に進めれば、一番早く四人が出られる。外から見える順番は、それしかないように思えた。
「掘りきる時が危ない」とオットーさんが言った。「中の水が一度に出る。正面には誰も立たせん。横から崩す」
斜面の下から人の声がした。鍬を担いだ男たちが、街道のほうから上がってくる。グレタさんの宿の若い者の顔もあった。最初の数人だった。
「女将さんから。汁は温めてあるって」
若い者は息を切らしながら言って、鍬を肩から下ろした。
*
帳場に戻ると、俺は管の前で案を読んだ。
アイリが一つずつ復唱した。外から掘る。支えと板。中心をすぐ一段戻す。最後の言葉を言い終えたところで、管の向こうが静かになった。
間が長かった。
「マスター、その順番には反対です」
アイリの声だった。いつもの丁寧な声のままだった。
俺は口を開きかけて、閉じた。
「北の端から見ました。浅い槽は、アーチのすぐ前です。床の水は、そこへ集まっています。中心の座の後の線は、その槽へつながっていました。中心を戻せば、冷えは槽にも回るかもしれません。確かめさせてください」
マルタさんが俺を見た。オットーさんも見ていた。
声が替わった。セレスさんだった。
「一度だけ、ほんの少し戻して、すぐ緩めます。すぐ元に戻せる操作です」
「やれ」とマルタさんが言った。
管の向こうで何かが擦れる音がした。それから長い沈黙があった。
マルタさんの指が机の縁を一度だけ叩いて、止まった。帳場の灯りの芯が小さく鳴った。管の口からは冷たい空気が変わらずに流れてくる。
「最初に霜が付いたのは、浅い槽の水面です」
アイリの声だった。
「このまま戻すと、出口の前の水が凍ります」
「緩めました」とセレスさんが続けた。
俺は手もとの記録票を見た。外から掘る。支えと板。中心をすぐ一段戻す。斜面で書いた時は、一番早く見えた順番だった。中心を戻せば、四人の前の出口が凍る。斜面からは、それは見えなかった。
記録票を机に置いた。紙の上に手を置いたまま、少しの間そのままでいた。それから手を離した。
「俺の案はやめる。そっちの順番を言ってくれ」
「はい」
アイリの返事はいつもと同じ短さだった。
「後の線は、元の線の脇から分かれた枝です」とセレスさんが言った。「枝を根元で切れば、槽へ冷えは行きません」
「座の前に戻って、手引きの図と照らしました」とアイリが続けた。「枝がなくても、元の系統の図と同じです」
マルタさんが管に顔を寄せた。
「切ったら戻せるか」
「戻せません」
「元の線は残るか」
「残ります」
マルタさんは少し黙ってから言った。
「いい。線を切る。次に中心を一段戻す。それから支えと板だ。氷出し口の掘りは、その間ずっと続ける」
オットーさんが帳場の戸口で一度振り返った。
「切ってから支えか。そのほうが石も落ち着く」
それだけ言って出ていった。斜面へ指図に行くのだろう。
*
俺は新しい紙を出した。
「油は」とマルタさんが管に聞いた。
「小瓶が一つと、灯りの中の分です」とアイリが答えた。
点けている灯りは一つでも、油は減り続ける。
初めに、決めごとを三つ書いた。待つ場所は作業台。灯りは待つ間は一つだけ。人が動くのと線を切るのは、合図が行って返ってから。
それから合図を管に読んだ。線を切って中心を一段戻すのは、外から三つを送って、内から三つが返ってから。人が動くのは、外から二つ・二つが行って、内から二つ・二つが返ってから。
アイリが一行ずつ復唱した。「外から三つ。線を切って、一段戻してよい」。「二つ・二つが行って、返ってから動く」。復唱するたびに、管の向こうで同じ言葉を内側の三人へ伝える声が小さく聞こえた。
水の高さは、作業台の南の端の段で見ることにした。段ごとに白墨で印を付けてもらう。
「付けます」とアイリが言った。
中止の条件も一つずつ決めた。水がいちばん下の段の印に届いたら、内側は階段の下へは行かず、外は支えより掘るほうを先にする。霜這いが出ても、作業台で待つ。最後に残ったのは、打音も返らなくなった時のことだった。
「その時、内側は作業台で待つ」と俺は管に言った。「水がいちばん上の段の印に届いた時だけ、セレスさんとベルントさんの判断で、線を切って中心を一段戻していい。切るだけじゃ、溶けるのは遅くならないから続けて」
「はい。いちばん上の段の印に届いた時だけ、切って、続けて一段戻す」
「外は、中の動きが要らない作業だけ続ける。支えを入れるのは、オットーさんが外で冷えの戻りを確かめてから。それまでは掘るのと支えの用意だけだ。階段の下へ来いという合図は送らない」
書きながら、手が震えていた。字がゆがんで、「送らない」の「送」が半分つぶれた。それでも書き続けた。声がもう一度途切れたらと思うと、一行でも書き漏らすのが怖かった。
震える手の下でずれていた紙が、急に動かなくなった。リナが指で端を押さえていた。
「返事、聞こえたな」
リナは紙から目を離さずに言った。
「……聞こえた」
「なら、次を読みな」
顔を上げると、リナと目が合った。リナはすぐ紙に目を戻して、押さえる指に少し力を入れた。
俺は震えの残る手で最後の行に印を付けて、もう一度管に顔を寄せた。アイリの復唱が一行ずつ返ってくるのを、最後まで待った。
「それでいこう」
ベルントさんの声が中から言った。
帳場の外の廊下を、宿場の男たちが材木を担いで通っていった。
遠くで、硬いものが石に当たる音がした。斜面で掘り始めたのだと思った。
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