声が届かない
朝の鐘が鳴り終わるころ、調査隊は施設の入口の前にそろった。
宿場を出る時、グレタさんが戸口に立って昼には汁を温めておくと言った。斜面の草には霜が下りていて、上る靴の下でさくさくと音を立てた。吐く息が白かった。
運搬人の二人は入口の番に残る。マルタさんがそのうちの一人に言った。
「外の鐘の数を覚えておけ。下から聞かれたら答えろ」
運搬人はうなずいて、鳴り終わったばかりの鐘の方角を一度振り返った。
搬入口の柱を数えながら奥へ進んだ。七本目を過ぎると、空気が一段冷たくなった。
中層まで下りると、リナが先に立って廊下に灯りを並べていった。壁ぎわに暗がりが残らないように、少しずつ間を詰めて置く。中層の座を閉じた日に、皆で覚えた置き方だった。
水槽室へ下りる四人は、灯りを三つと油の小瓶を一つ持った。セレスさんは停止の手順を書いた紙を、アイリは手引きの写しと図の写しを胸に抱えていた。ヨナスさんが灯りを一つ下げ、ベルントさんは図面の筒を脇に挟んでいた。
下りる前に、オットーさんがヨナスさんの背中を一つ叩いた。
「下の段は濡れとる。足もとを見ろ」
「はい、親方」
ヨナスさんの返事は少し上ずっていたが、灯りを持つ手は揺れていなかった。
俺は中継の綱の束を肩に掛けて、四人と一緒に下りた。踊り場を二人ずつ通り、下の階段を下りきって、作業台の南の端の段に綱の端を結んだ。結び目の横には白墨で印を付けた。前にアイリがやっていたやり方だ。
アイリは段の上から俺が結ぶのを見ていた。結び終えると、白墨の印を指でさした。
「印、見えます」
「帰りに綱を引いた時、ずれていたら分かる」
「はい」
アイリは写しを抱え直して、作業台の上へ戻っていった。
綱の下の端はベルントさんが受け持った。作業台の南の端に立って、結び目の少し上を片手で握る。
「引かれたら、私が返すよ」
綱を伸ばしながら階段を上る。踊り場を通る時、奥の壁のひびの両端に白墨の印が見えた。
上の階段を上りきると、灯りを横の段に置いた。綱の残りを右手に握って、いちばん上の段に腰を下ろした。
ここからは下がよく見えた。身を乗り出せば、踊り場の先の下の階段と、その奥の水槽室の灯りまで見通せる。灯りは三つ、青白い氷を背にして作業台の上に並んでいた。いちばん南の灯りの下で、小さな影が紙を広げている。アイリだ。
声と綱。両方がそろっているのを確かめてから、俺は下へ「上に着いた」と言った。少しして、アイリの「はい」が上がってきた。
「マスター。ここから、上の灯りが見えます」
「こっちからも見えてる」
いちばん南の灯りが一度だけ小さく持ち上がった。
オットーさんが俺の横に来て、どっかりと腰を下ろした。
「年寄りは座って見張るのが仕事だ」
「じゃあ、俺も」
「若いのは立っとれ」
俺は立ち上がった。後ろの廊下で、リナが小さく吹き出す声がした。振り返ると、リナは廊下の端で小盾を腕に通して立っていた。その奥にマルタさんがいて、並べた灯りが廊下の向こうまで続いていた。
*
「始めます」
下からセレスさんの声がした。俺は廊下へ「始める」と送った。マルタさんの「よし」が返ってきた。
アイリが手引きを読み始めた。
下からの声は細かったが、言葉は聞き取れた。少し遅れて、セレスさんの声が同じ言葉を返した。一行読んでは一行返す。それが何度も続いた。オットーさんは膝に肘をついて、下の灯りから目を離さなかった。
アイリが最後の行を読み、セレスさんが返した。座の近くの灯りが一つ、わずかに動いた。俺の所からは、灯りが寄って、作業台の上の影がそろって止まるのが見えるだけだった。
「最終段階、終わりました」
アイリの声が上がってきた。俺は振り返って、廊下へ同じことを言った。マルタさんの「聞いた」が返ってきた。
しばらくは何も変わらなかった。下の灯りは三つとも作業台の上にあった。時々ベルントさんの低い声がしたが、言葉までは聞こえなかった。
そのうちすぐ横で水の音がし始めた。階段の壁の裏からだった。ぽつ、ぽつと滴る音が、少しずつ間を詰めていく。
「通り道の霜が溶けとる」
オットーさんが壁に手を当てて言った。
「手引きのとおりだ」
俺はうなずいて、記録票に一行書いた。壁の裏、水の音。
下で何かが割れる音がした。
乾いた音が長く尾を引いた。水槽室の灯りが三つとも同じほうへ向いた。氷の縁のほうだ。続いて、ざっと水の広がる音が階段を上がってきた。
「マスター」
アイリの声だった。いつもより短かった。
「溝、あふれました。水が床に広がっています」
俺はそのまま後ろへ叫んだ。
「溝からあふれた。床に水」
「戻る」
マルタさんの声はすぐに来た。前の晩に決めた、一つ目の条件だった。
俺は綱を二回引いた。二回は戻れだ。それから声でも下へ言った。
「戻る。戻ってくれ」
「戻ります」
アイリの声のあとに、綱が向こうから二回引き返された。ベルントさんの手だろう。
水槽室の灯りが動き出した。一つが先に立って、階段の下へ向かってくる。ヨナスさんの灯りだ。残りの二つがその後に続いて、作業台の段を下りていった。誰も走ってはいなかった。灯りの揺れ方で、足もとを確かめながら歩いているのが分かった。
「四人、動いた」
俺が後ろへ言うと、マルタさんの「聞いた」がまた返ってきた。
*
ヨナスさんの灯りが階段の下に着いた。灯りはそこで一度止まった。後ろの二つを待っているようだった。
俺は段に置いていた灯りを左手に取り、綱を握ったまま上の階段を三段下りた。上から灯りを向けてやれば、下の階段の足もとが少しでも見える。オットーさんも後ろから付いてきて、踊り場の奥の壁に灯りを向けた。
オットーさんの手が止まった。
ひびから黒く水がしみ出していた。白墨の印の間を、細い筋になって下りてくる。
「離れろ」
低い声だった。言い終える前に、オットーさんの手が俺の襟をつかんで後ろへ引いた。かかとが段の角に当たって、俺は上の段に尻をついた。
足の下で、石がきしんだ。
最初は小さな音だった。乾いた枝を踏んだような音が一つ。それから重いものが重いものの上をずれていく音が、腹の底に響いた。踊り場の外側の半分がゆっくり傾いた。縁の石が外れて、下の段へ転がり落ちていく。一つ、二つ。数えられたのはそこまでだった。あとは音がつながって、何の音なのか分からなくなった。
埃が上がってきた。灯りがにじんで、口の中が砂の味になった。目にしみて、涙が勝手に出た。襟をつかんだオットーさんの手は、まだ離れていなかった。
下で灯りが大きく揺れた。誰かの短い声がした。言葉になる前に、石の音にかき消された。
俺は段に尻をついたまま動けなかった。
音がやんだ。
埃がゆっくり下りていく。灯りをかざすと、踊り場のあった所に黒い穴が開いていた。内側の半分だけが壁ぎわに残っている。その先の下の階段にも石が散らばっているのが、埃の向こうにぼんやり見えた。通れるのかどうかは、ここからは分からなかった。
後ろの廊下で、マルタさんが何か言っていた。何と言ったのかは耳に入らなかった。
*
穴の向こう、下のほうで灯りが一つだけ揺れていた。
さっきまで三つあった灯りが、一つだけだった。
「アイリ」
叫んだ。自分の声が壁に跳ね返って、何度も戻ってきた。
「アイリ。ヨナスさん。聞こえるか」
下から声が返ってきた。高い声なのか低い声なのかも分からない。言葉の形にならないまま、水の音に混じって消えた。
俺は綱を引いた。一回。止まれ。向こうから引き返されれば、綱の端に誰かがいる。
綱は動かなかった。もう一度引いた。綱は手の中で張りつめたまま穴の縁の石の下へまっすぐ入っていた。崩れた石に挟まれている。
「揺らすな」
オットーさんが俺の腕を押さえた。
「まだ石が動く」
上から足音がして、マルタさんとリナが下りてきた。マルタさんは穴を一目見て言った。
「全員、階段から上がれ。廊下まで下がる」
オットーさんが段を上がっていった。俺も上がろうとした。体は上を向いたのに、手が綱を離さなかった。
指が自分のものではないみたいに綱を握りしめていた。離そうと思うたびに、指の内側に力が入った。この綱の先は石の下を通って作業台の段の結び目までつながっている。結び目の横には、白墨の印がある。
「兄さん」
リナが段を下りてきて、俺の手首をつかんだ。冷たい手だった。
リナはそれきり何も言わずに、俺の指を一本ずつ綱からはがしていった。一本はがすたびに、俺の手は綱へ戻ろうとした。リナは手首を押さえてそれを止め、次の指に移った。
最後に親指が離れた。指の関節が白くなっていた。綱は穴の縁へだらりと垂れた。
リナは俺の手首を放さなかった。そのまま上の段へ引いていった。俺は途中で一度だけ振り返った。穴の向こうの灯りはまだ揺れていた。
廊下に着くと、マルタさんが一人ずつ顔を見た。俺、リナ、オットーさん。それから階段の下り口に目をやって、口を結んだ。
*
中層の廊下の壁にもたれて、俺は自分の手のひらを見ていた。綱の跡が赤く残っていた。
灰色の水は確かに外へ出た。リナが見て、オットーさんが図面どおりの排水口だと言った。俺も桶を傾けた重さを覚えている。それなのに溝はあふれた。どこで何が違ったのか、俺には分からなかった。分からないまま、下の四人に何ができるかを考えようとした。何も浮かばなかった。
マルタさんはもう動いていた。入口まで声を送って運搬人を二人とも呼ばせ、来るなり言った。
「一人は宿場へ。グレタに人手を頼め。材木と灰と油もだ。もう一人は都市へ。領主府とギルドに、応援と救護を頼め」
運搬人は二人とも走っていった。足音が上層への階段に消えた。マルタさんはそれを待たずに、廊下の灯りの油を一つずつ確かめ始めた。オットーさんは階段の上の端に膝をついて、灯りで穴の縁を照らしていた。しばらくして戻ってくると、マルタさんに短く言った。
「縁はまだ落ちる。誰も近づけるな」
マルタさんは黙ってうなずいた。
リナが俺の前にしゃがんだ。
「兄さん。図面」
短い声だった。
俺は鞄から図面の写しを出した。物資の表と一緒に、いつも持ち歩いていた写しだ。写しを開く手が震えて、端が一度折れた。床に広げると、指が勝手に水槽室を探した。上の階段から水槽室まで、人の通れる道をたどると、指はさっきの穴の所で止まった。
その横にもう一本の線があった。ほかの線をよけるようにして、水槽室から上の階まで通っている細い線。領主府で初めて図面を見た日に、ベルントさんに何の線かと聞いた線だった。
「伝声管だ」
声に出してから、自分の声がかすれているのに気づいた。
線は上層の帳場で止まっていた。帳場の壁で埃の詰まった口を見たことがある。
「マルタさん。帳場の管を試させてください」
マルタさんは図面の線を一度目で追って、うなずいた。
「行け。リナ、付いていけ」
上層への階段を上がった。上層の廊下には灯りを並べていなかった。リナが一つ掲げて前を行き、俺は図面を握ったままその後ろを歩いた。上層の空気は乾いていて、下の湿り気がうそのようだった。
帳場へ入った。棚には、アイリが目録を写した日のまま帳面が並んでいた。壁の低い所に、丸い口が開いている。前に見た時と同じで、灰色の埃が奥まで詰まっていた。
リナが荷の部屋から、閂ほどの太さの棒を持ってきた。俺はその先に手拭いを巻きつけた。
「そっとやりな。奥へ押し込むなよ」
棒を差し入れて、埃を手前へかき出す。乾いた埃が床に落ちて、灯りの中を舞った。古い紙と黴の混じったような匂いがした。リナが袖で口を押さえて、一度咳をした。手拭いをはたいて、もう一度入れる。三度目で、棒の先が何にも当たらなくなった。口に顔を寄せると、冷たい空気がかすかに頬に触れた。
下までつながっているのかどうかは、まだ分からなかった。
何を送るか、一瞬迷った。呼んでも、さっきは言葉にならなかった。音なら、言葉にならなくても数は分かる。
俺は剣の柄頭で管の縁を二つ叩いた。
こん、こん。
音が管の奥へ吸い込まれていった。
俺は管の口に耳を押し当てた。リナが横で膝をついて、灯りを管の口に近づけた。自分の心臓の音がうるさかった。
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