初めての食事と最初の仕事
ギルドの中は思っていたより明るかった。
広い板張りの部屋に長い受付台。壁の掲示板には紙が重なるように貼られ、奥では誰かがジョッキを打ち合わせている。腹は減っているのに、俺は少し浮かれていた。
受付台の向こうの女性職員は三十代くらいに見えた。髪をきっちりまとめ、袖に事務用の腕抜きをしている。胸元の名札をアイリが小声で読んだ。エルマさん、というらしい。
「登録ですね。身分証はお持ちですか」
「……ありません。二人とも」
エルマさんはペンを一度止め、引き出しから別の用紙を出した。
「身元の分からない方は、まず仮の受付になります。お名前と、明日から何ができるか。分かる範囲で申告してください」
明日から何ができるか。
剣は振れない。魔法も使えない。獣からは荷車の陰に逃げ込んだだけだ。
「佐伯悠真です。できることは……前の職場で、倉庫の荷物を管理していました。どこに何があるか、数が合っているか、そういう仕事です」
「倉庫の管理、と」
エルマさんが書き取った。派手な言葉は一つも並ばなかったが、ペンは止まらなかった。
「そちらの方は、お連れ様として一緒に記入しますか」
「いいえ」
アイリが一歩前に出た。
「私も私の名前で登録したいです。アイリです。働くのは私なので」
エルマさんは一拍おいて、新しい用紙を出した。
「では、アイリさん。できることは」
「字が読めます。見たことと聞いたことを覚えて、記録できます。似た物を比べることもできます」
「字が読めるのは助かります。新人さんだと、依頼票が読めない方も多いので」
俺は掲示板のほうへ目をそらした。
エルマさんが二枚目の用紙を書き終えるのを待って、一番言いにくいことを切り出した。
「それと、所持金が、ありません」
エルマさんは驚かなかった。慣れた手つきで木の札を四枚、台に並べた。
「新人支援があります。二人で十五日分、ギルドの宿泊所と食堂を使える札です。その分は前貸しで、仕事の報酬から少しずつ返していただきます。明日は安全講習、明後日は採取の訓練。それを終えれば正式な登録になります。訓練に報酬は出ませんが、採取の道具はお貸しします」
「前貸し、ですか」
「はい。返すのは二人で銅貨六百枚分です。報酬が入るたびに少しずつ引きますから、急いで返さなくても暮らせるように作ってあります。札は十五日のあいだ、宿泊所と食堂で見せてください。使った分はこちらの帳面に付けて、期間が済んだら返していただきます」
札は四枚とも手のひらに収まる大きさだった。これで十五日、俺たちは食べて寝られる。
*
食堂はギルドの裏手にあった。長い卓に仕事帰りらしい人たちが肩を並べている。
札を渡すとカウンターの女の人が皿を二つ出してくれた。日替わりは二種類で、俺は豆と腸詰めの煮込み、アイリは根菜と鶏の汁物にした。どちらにも固い黒パンが一切れ付いている。
アイリは匙で汁をすくって口に運び、そのまま動きを止めた。
「……温かいです」
「熱くないか」
「熱くはありません。口の中に塩の味が広がります。それから、甘いものがあとから来ます。何が甘いのかは分かりません」
「たぶん、その芋かなんかだ」
アイリは匙の先で芋を割り、小さいかけらを口に入れた。噛みながら、目が少し細くなった。
「甘いのはこれでした」
確かめた結果を報告する声だった。それなのに、次の一口が前より早い。
ふと見ると、アイリの目が俺の皿の上で止まっていた。
「そっちが気になるか」
「色が違います。匂いも違います。比べると、何が違うのか分かるかもしれません」
「ほら」
腸詰めをひと切れパンの端に載せて渡した。アイリは両手で受け取り、ゆっくり噛んだ。
「……しょっぱいです。脂が舌に残ります。こちらのほうが強いです」
「強いって、味がか」
「はい。どう違うのか、マスターは説明できますか」
聞かれて詰まった。脂がどうとか、塩がどうとか、言葉はいくつか浮かんだ。どれも説明にはなりそうになかった。
「説明は無理だな。俺はこっちが好きだ。腹が減ってる時は特に」
「好き、ですか」
アイリは自分の汁物と俺の皿を見比べてから、芋を一つ匙に載せて俺のほうへ差し出した。
「では、こちらも食べてみてください。マスターがどちらを好きか知りたいです」
芋は柔らかくて、ほんのり甘かった。歩き通した身体にその甘さがゆっくり染みていく。
「……これもうまいな」
「どちらが好きですか」
「両方。今日は両方」
「その答えは比較になっていません」
そう言いながら、アイリはもう一口、自分の汁をすすった。俺も匙を動かした。気がつくと、二人とも皿の底をパンでぬぐっていた。
宿泊所の部屋は狭く、寝台が二つと小さな窓が一つあるだけだった。俺は明日の講習で使う紙を寝台の脇にそろえた。読めないので、そろえることしかできない。
アイリは寝台に腰を下ろし、靴を脱いで足の裏を手で押していた。
「足の裏が痛みます。今日はずいぶん歩きました。これも、休めば戻りますか」
「戻る。寝れば、だいたいはな」
アイリは靴を寝台の脇にきちんと並べ、毛布にもぐった。
俺も自分の寝台に横になった。目を閉じると、さっきパンで皿をぬぐっていたアイリの手つきが浮かんだ。
借りた札で食べた飯だ。いつか自分たちで稼いだ金で、自分たちで選んだものを食べたい。そう思いながら目を閉じた。
*
次の日は一日がかりの講習で、午前はギルドの二階で安全講習を受けた。
魔物に出会ったときの退き方、新人が入ってはいけない場所、採取の決まり。前に立つ指導員は四十がらみの男で、話は分かりやすかったが量が多い。配られた紙は俺には挿絵しか読めなかった。アイリが小声で見出しを読んでくれた。
「『採取の決まり』です。ただ、この『指定採取区』が何を指すのかは、私にも分かりません。字が読めることと、言葉の意味を知っていることは別でした」
アイリが手を挙げて尋ねると、指導員はあっさり答えた。ギルドが決めて標識を立てた採取の範囲のことで、新人はその外の林や森に入ってはいけないらしい。
昨日の獣の話をすると、指導員は「トゲイノシシだな。林の際に出る」と言った。
「石と荷車の陰に入ったのは悪くない。次は、出る場所に近づかないことだ」
午後は訓練場で、木剣の構えだけを習った。足を開けば腕が下がり、腕を上げれば腰が浮く。夕方まで俺は構えたまま立っているだけで汗だくになった。
その次の日が採取の訓練だった。
門を出て朝の街道を少し歩いた先に、ギルドが管理する草地があった。露の残る草の上を風が渡り、アイリは足もとの小さな花を見つけるたびに歩みを緩めた。指導員から見本を一本ずつ渡される。ぎざぎざの葉に、少し赤みのある茎。これを籠に一杯。
「早く終わらせて、残りの時間で練習しようぜ」
俺は籠を抱えて歩き出した。アイリは見本を手に近くの株の前でしゃがんでは立ち上がる。
「この株は、葉の形と茎の色が見本と似ています」
「よし」
似ている、と言われた株を片っ端から摘んでいった。途中からはアイリに見せる前に摘んでいた。周りの新人より明らかに籠が早く膨らんでいく。
籠が半分を超えたころ、アイリが一株を摘んだ指を止めた。指の腹で葉の裏をなぞり、見本と並べて裏返す。
「マスター。これは見本と違います」
「指に当たる感じが、見本と違いました」
見本の葉の裏には細かい毛がびっしり生えていた。アイリの手にあるほうはつるりとしている。
籠の中を見た。同じようにつるりとした葉が何本もまじっていた。
「お前、似てるって——」
言いかけて、自分の籠に目が落ちた。途中からは、アイリに見せもしないで摘んでいた。『似ている』を『同じだ』にしていたのは俺だ。
「……似ている、と言いました」アイリは見本の葉を指でめくったまま言った。「葉の形と茎の色が似ている、と。葉の裏は見ていませんでした。見ていないことを、言っていませんでした」
「……分けよう。全部出して」
二人で籠を逆さにして、草を地面に広げた。一本ずつ葉を裏返し、毛のあるものとないものを左右に分けていく。どちらとも決められないものが三本残った。
「この三本は、指導員さんに聞きます」
指導員は見本と三本の茎を一本ずつ折って、俺たちの鼻先に差し出した。見本は青臭い。三本のうち二本は、ほとんど匂いがしなかった。残る一本は見本と同じ匂いがした。似たほうに毒はないが、薬の材料に混ぜて納めれば効き目が落ちるという。
「納める前に分けたな。それでいい」
午後はやり直した。アイリが形と色を見て、俺が葉を裏返し、茎の匂いを嗅ぐ。さっきの倍の時間がかかった。それでも籠を差し出すと、指導員は全部を確かめてから一度だけうなずいた。
この訓練に報酬は出ない。籠いっぱいの草はそのまま薬屋へ回るらしい。
*
夕方、ギルドの受付でエルマさんが薄い金属の板を二枚、台に置いた。
「講習と訓練の確認が済みました。お二人とも、今日からFランクです」
名前とランクが刻まれただけの、手のひらに乗る板だった。字は読めないが、自分の名前の形だけは昨日のうちにアイリに教わって覚えた。
隣でアイリが自分のカードを窓の光にかざし、角度を変えては眺めていた。
「嬉しいか」
「目標の一つが済みました。……マスターが今言った言葉は、こういう時に使うのですか」
「たぶんな」
「では、仮にそう呼びます。嬉しい、です」
アイリはカードを胸の前に下ろし、両手で持ち直した。
掲示板の前は人だかりだった。アイリが端から読み上げていく。
「街道沿いの大型獣の討伐、Cランク以上。森の奥の護衛、Dランク以上……」
「討伐」
その一語で足が止まった。剣を下げて荷を守り、知らない道を歩いていた男の背中が浮かぶ。
「アイリ、その討伐の条件って」
「Cランク以上で、三人以上の組です。新人は受けられません」
「……だよな」
分かってはいた。昨日、木剣を構えて立っているだけで汗だくになったのは俺だ。
「Fの欄も読んでくれ」
「薬草の採取。荷運びの手伝い。倉庫整理」
アイリは題名だけを短く読んだ。最後の一つで、耳が勝手に止まった。
「倉庫整理のを、詳しく」
「東の通りの荷置き場。四日間。棚の荷を数え、出荷の予定に合わせて並べ直す手伝い。日払いです」
読み上げを聞くうちに、頭の中に勝手に棚が並んでいった。入ってくる荷と出ていく荷。札と現物。合わない数。
「経験のある仕事ですね」とアイリが言った。
「……ああ。異世界まで来て倉庫だけどな」
口ではそう言ったが、嫌な気分ではなかった。荷を数えるのは俺が慣れている。札を読むのはアイリが速い。二人でやれば、一人の倍よりもう少し先まで行ける気がした。
「受けよう。これなら俺がちゃんと働ける」
アイリが依頼票を剥がし、エルマさんの所へ持っていった。
「荷置き場の親方は口が悪いですが、仕事はよく見る人です」エルマさんは票に判を押しながら言った。「明日の朝の鐘で、東の通りへ行ってください」
受付を済ませて外に出ると、通りはもう夕焼けだった。
明日の朝が報酬の出る最初の仕事だ。荷の持ち方や数え方なら、アイリに教えられることもあるかもしれない。
そう考えると、少しだけ早く朝が来てほしかった。
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