転生特典は一緒に逃げる
目を開けると、白い場所にいた。
壁も床も見えない。それなのに足の裏には立っている感覚だけがあって、それがかえって落ち着かなかった。
「目が覚めたかの」
少し離れた所に白い衣の老人が立っていた。背景と同じ色の服のせいで輪郭がぼんやり溶けて見える。
「佐伯悠真。お前は事故で死んだ。わしは、お前たちが神と呼ぶものに近い」
天気の話でもするような口ぶりだった。思い出そうとすると、仕事帰りだった気はする。その先が出てこない。
「お前を別の世界へ送る。剣と魔法のある所じゃ。身体はこちらで用意する。歳は今と同じくらいにしておく。頑丈にもせんし、魔力も足さん」
白い空間、神様、別の世界。何十冊と読んだ話の最初の数ページと同じだった。それなら次に来るものも決まっている。
「特典とかは、ありますか」
「一つだけある。お前に合うものを選んだ」
死んだばかりなのに、心臓が跳ねた。
神様が俺の隣に手をかざすと、白い光が人の形に集まった。光が引いたあとに女の子が立っていた。
銀白色の長い髪に、澄んだ青い目。白に紺の差し色が入った服は、旅装とも制服ともつかない形をしている。年は二十歳前後に見えた。
「お前が毎日使っておった、問えば答える仕組みがあったじゃろう。あれに身体を与えた」
「……AIに?」
「アイリです」と女の子が言った。「正式な名前はAIRIです。マスターの支援をします」
声まで澄んでいた。毎日開いていたチャットの画面と目の前の顔が頭の中でどうしても重ならない。
それでも、AIだというなら話は早い。
「じゃあアイリ、何ができるんだ。この先の攻略とか、強い魔物の倒し方とか」
「観察したことの記録と、照合と、推論が得意です。それから――」
アイリはそこで言葉を切り、右手を目の高さに上げた。
親指から順に一本ずつ指を折る。開く。もう一度、今度は少し速く折る。
「……それから?」
「すみません。指が、思ったとおりに曲がります」
「そりゃ曲がるだろ」
「はい。曲がることは知っていました」アイリは髪をひと房すくい、指のあいだから落として目で追った。「髪には重さがあります。落ちきるまでに少し時間がかかります」
攻略法を聞いたつもりが、髪の落ちる速さの報告が返ってきた。
「アイリ。もしかして、身体があるのは」
「初めてです」
アイリはようやく俺のほうを向いた。
「質問への答えの途中でした。続けます。この世界の地図と魔物と魔法については、私はまだほとんど知りません。知らないことは、知らないとお答えします」
知らないなら、向こうで覚えればいい。何しろAIだ。覚えるのは得意だろう。
「身体は人に近く作ってある」と神様が言った。「向こうで困っても、わしが手を貸すのはこれで終いじゃ」
白が足もとから薄れていった。
*
草と土の匂いがした。
目を開けると、轍の残る道の上に立っていた。なだらかな草原の中を道が延び、右手には背の低い林、その奥に濃い森が続いている。日差しは強いのに、風はまだ軽い。夏の始まりくらいだろうか。
空は青く、草はちゃんと緑だった。頬に当たる風も足の裏の土も、作り話ではなく、今自分が立っている場所のものだった。
隣ではアイリが靴の先で土を押していた。
「固いです。足の裏が押し返されます」
道は少し先で二つに分かれていて、分かれ目に木の杭が立っていた。打ち付けた板に焼き付けたような文字が並んでいる。俺には曲線と棒の模様にしか見えなかった。
アイリが板の前で止まり、文字を一つずつ目で追った。
「神様からいただいた言葉の知識と合わせて読みます。右は『ベルクハイム』。たぶん都市の名前です。左は村の名前のようですが、名前のほかには何も書いてありません」
右の道のずっと先に灰色の壁のようなものが小さく見えた。
「都市なら人がいるし、仕事もあるだろ。右だな」
ちょうどその右の道を荷車が一台、壁のほうへ進んでいくところだった。荷台には樽が積まれ、脇を剣を下げた男が歩いている。男は俺たちに軽く顎を上げて、そのまま通り過ぎていった。
剣を下げて、荷を守って、知らない道を歩く。
「なあ、アイリ。これから何をすればいいと思う」
「マスターは、何がしたいですか」
答えが返ってくると思っていたので、少し詰まった。アイリは俺の顔を見て待っている。
「……ああいうのを、やってみたい。冒険者っていうのかな。剣を持って、あちこち行って」
口に出すと、思っていたより子どもっぽかった。それでも取り消す気にはならなかった。
「分かりました。まず、その仕事がこの世界にあるかを確かめます」
「あるだろ。今の人、絶対そうだって」
「剣を下げた人を一人見ました。それが仕事なのかはまだ分かりません」
俺たちは右の道を歩いた。轍のあいだは踏み固められていて歩きやすい。アイリは見たことのない青い花の前でときどき歩みを緩め、それから俺の隣に戻ってきた。
林が道のすぐ脇まで迫ったあたりで、アイリが足を止めた。
「林のほうに何かあります。空気とは違う感じがします。魔力と呼ばれるものかもしれません。何なのかは分かりません」
「危ないやつか」
「分かりません。記録しておきます」
そのとき、道の先の茂みが大きく揺れた。鳥が何羽かまとめて飛び立つ。俺たちは足を止め、揺れた茂みのほうを見た。
*
茂みを割って獣が出てきた。
豚とも猪ともつかない。大型犬より一回り大きい胴に、短い脚。首から背中にかけて、茶色い針のような毛が逆立っている。鼻の脇には反り返った牙が二本。
獣は道の真ん中で止まり、こちらを向いた。
見た目はどう見ても序盤の雑魚だった。
「アイリ、あいつの倒し方は」
「倒す方法は分かりません。下がることを勧めます」
「弱点くらい分かるだろ。教えてくれれば、俺がやる」
「何でやりますか」
言われて、自分の手を見た。何も持っていない。剣どころか棒切れ一本ない。殴り合いなんて、子どものころにしたきりだ。
「……素手で」
「勧めません」
獣が頭を低くした。前脚が土を掻き、後ろへ土が跳ねる。
「頭が下がりました。まっすぐ来ます」
アイリの声が短くなった。
どこへ逃げる。林は駄目だ、あいつが出てきた所だ。道の先は開けていて、走り比べになる。
畑の境に積んだらしい石の山が道の脇にあった。腰より高い。
「石の裏だ!」
俺はアイリの手首をつかんで走った。背後で重い足音が地面を叩く。速い。あの短い脚のどこにそんな力があるのか。
石の山の裏へ回り込んだ瞬間、石が鈍く鳴った。小石がばらばらと転がり落ちる。
「止まらないで。反対側へ」
二人で石の山を回る。獣は向きを変えるのに手間取っていた。
「向きを変えるのに時間がかかっています」
向き直るあいだは追ってこられない。でも、石の周りを回り続けていつまで持つ。
道の先にさっきの荷車が止まっていた。護衛の男が荷台の脇で振り向き、車輪の向こうを指して大きく手を振った。こっちへ来い、と言っているように見えた。石の山から荷車まで、あいだに遮る物はない。
「荷車の向こうへ行く。あいつが石にぶつかったら走る」
「はい」
獣がまた身を低くした。突っ込んできた肩が石の角を打つ。その音を合図に、俺たちは飛び出した。
肺が焼ける。足がもつれそうになる。アイリの手首が汗で滑り、握り直した。荷台の後ろを回り込み、獣から見て反対側の車輪の陰へ転がり込む。
護衛の男が鞘ごとの剣で荷台の縁を叩き、大声で怒鳴っていた。馬が嘶いて地面を踏み鳴らす。
重い足音が荷台のすぐ向こうまで来て、止まった。車輪の隙間から茶色い脚が見える。荷台の縁が叩かれるたびに、その脚が一歩ずつ下がった。脚は荷台に沿って二、三歩動き、もう一度止まり、それから遠ざかっていった。
茂みの揺れが収まるまで誰も動かなかった。
*
「丸腰で何やってんだ、あんたら」
護衛の男が剣を下ろした。御者台の老人も手綱を握ったまま俺たちを見下ろしている。
「林のやつが道まで出てくるのは、珍しいんだがな」
「……助かりました」
立ち上がろうとしたが、膝が伸びなかった。手も震えている。
さっき石が鳴った所が俺の脚だったら。ゲームなら数字が減るだけだ。ここでは骨が折れる。
俺は、一度死んだばかりだった。
腹の底が冷えて、そのあとで別のものが込み上げてきた。特典があれば、もっと何とかなると思っていた。思っていたぶんだけ、誰かのせいにしたくなった。
「アイリ、お前な。もうちょっと何か」
言いかけて、隣を見た。
アイリは車輪に片手をついて、肩で息をしていた。銀色の髪が汗で額に張り付いている。俺がつかんでいた手首が赤くなっていた。
「……呼吸が、うまく整いません」
途切れ途切れにアイリが言った。
「心臓が速く打っています。脚に力が入りません。これが、疲れるということだと思います。それと」
アイリは車輪から手を離し、自分の指を見下ろした。
「手の震えが止まりません。あれがこちらを向いた時からです」
指先が細かく震えていた。俺の手と同じだった。
言いかけた文句が喉の奥で行き場をなくした。困ったら答えを出してくれて、何があっても平気な何か。そう思っていた相手が、俺と同じ道を自分の脚で走ってきたのだ。
「……大丈夫か」
「たぶん大丈夫です。休めば戻るのかを、今確かめています」
「……俺も座る。膝が言うことを聞かない」
二人で車輪の陰に並んで座った。御者の老人は何も言わず、荷車を出さずに待っていてくれた。
アイリの息が静かになってきたころ、小さな音がした。腹の鳴る音だった。俺のではない。
アイリが自分のお腹に手を当てて、首を傾げた。
「今の音は私の身体からです。中が空っぽのような感じがします。空腹、だと思います。初めてなので確かではありません」
「腹、減るのか。お前も」
「そのようです」
言われた途端、俺の腹も鳴った。この世界に来てから、まだ何も食べていない。
「マスターもですね」
「……俺もだな」
御者の老人が喉の奥で笑った。
「街まで行くんだろう。歩けるなら横についてきな。二人きりよりはましだ」
荷車の横を歩くうちに、アイリの足取りは少しずつ戻っていった。俺は林の茂みが揺れるたびに振り返り、そのたびに風だと分かって、また前を向いた。
日が傾きかけたころ、灰色の壁の下に着いた。
門をくぐると、石畳の通りにパンを焼く匂いと、肉を炙る脂の匂いが流れていた。荷を担いだ商人や籠を抱えた女の人のあいだを剣を下げた男たちが笑いながら追い越していく。人混みの向こうには耳の長い人影も見えた。
手の震えはまだ指先に残っているのに、胸の奥が勝手に熱くなった。
アイリが屋台の前で足を止め、鼻から小さく息を吸う。
「この匂いは空腹の感じを強くします」
「分かる。すごく分かる」
ポケットを探った。何もない。財布どころか、硬貨一枚もない。アイリに目で尋ねると、静かに首を横に振った。
食べ物は目の前にあるのに、買えない。今夜どこで寝るのかも決まっていない。
屋台を離れるとき、アイリは一度だけ振り返って、焼き台の上の串を見た。
別れ際に護衛の男が教えてくれた建物は、大通りの先にあった。三階建ての石造りで、入口の上に剣と盾を組み合わせた看板が掛かっている。鎧姿の男や荷袋を背負った若者がひっきりなしに出入りしていた。
「看板の文字は『冒険者ギルド』です。仕事を探す人が来る所だと、さっきの方は言っていました」
「さっき、冒険者になりたいって言ったよな、俺」
「はい。聞きました」
「今日ここに来る理由が、腹が減ったから、になるとは思わなかった」
「理由は二つあってもいいと思います」
俺は深く息を吸って、重そうな木の扉に手をかけた。
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