氷の下の部屋
中層の廊下には入る前に灯りを並べた。入口に一つ、廊下の中ほどに一つ、戸口の脇に一つ。白い群れは部屋の奥の隅に寄ったままこすれる音だけを立てていた。
西の一つ目の部屋の座の前にセレスさんが膝をついた。その斜め後ろでアイリが手引きの写しを開き、俺は記録票を板に挟んで構えた。ベルントさんは戸口に立ち、マルタさんは廊下を見ていた。
「一つ目。座の外の輪の線を、北の端から指でなぞる」
アイリが一行を読んだ。読み上げる声は、地下でもいつもと同じ高さだった。
「外の輪の線を、北の端から」
セレスさんが同じ言葉を返し、手袋を外した指で線をなぞった。指が輪を一周して元の所へ戻ると、座の上の霜の細かい光が一つずつ消えていった。
「二つ目。中の三本の線の、左から順に」
「中の三本を、左から」
読む。返す。なぞる。俺は一行ごとに票に印を付けた。座が閉じるまでにアイリが読んだ行は七つだった。
座が閉じた瞬間に音はしなかった。ただ、部屋の空気の張りつめた感じが少しだけ緩んだ。セレスさんが指先に息を吹きかけた。
それから待った。地下では日が見えない。灯りの油が一目盛り減るのを待ち、入口の運搬人が鐘の数を中継の声で下ろしてくるのを聞いた。
昼の鐘の知らせが届いたころ、閉じた部屋の床の霜が薄くなり始めた。白かった石に灰色の地肌がまだらに見えてくる。隣の部屋をのぞくと、逆に霜が厚くなっていた。廊下の端の通り道の口のまわりも、朝より霜が一回り盛り上がっている。
ベルントさんが手引きの写しを開き、その行を指でたどった。
「座を閉じると、その分の冷えは残った座と通り道へ回る」
読み終えて、顔を上げた。
「書いてあるとおりだ」
ベルントさんは写しの紙を手のひらで一度なでてから閉じた。
王国の誰かが何百年も前に書いた一行が、今日の霜の厚さとそのまま合っている。俺は票の端に「書いてあるとおり」と書いた。書いてから少し笑ってしまった。
*
次の日は、朝のうちに二つ目の座を閉じた。
昼の鐘の知らせが届くころ、廊下の様子が変わった。二つ目の部屋が温まり始め、居場所をなくした白い群れが、まだ座の動いている三つ目の部屋と廊下の端のほうへ動き出したのだ。
並べておいた灯りのおかげで群れの大半は三つ目の部屋の側へ寄っていった。こすれる音が遠ざかる。前の廊下で覚えたやり方が、そのまま効いていた。
前の日に閉じた一つ目の部屋の前では、溶けた霜が床に薄く水になって浮いていた。凍った床より滑りやすい。俺は足の裏を床から離さないように少しずつ位置を直した。マルタさんは後ろで帰り道の階段の灯りが消えていないかを一度確かめた。
前にリナ。俺はその斜め後ろ。後ろにマルタさん。セレスさんは二つ目の座の様子を見て部屋から出てきたところで、アイリは廊下の図に群れの位置の印を付けていた。帰り道は背中の側の上層への階段だ。
廊下の右と左の壁ぎわに、灯りの届きにくい細い暗がりが残っていた。そこに数匹が残っている。明るいほうを避けて、壁ぎわを伝ってこっちの足もとを抜けようとしていた。
リナが盾を左の暗がりに向けた。近い一匹がその縁に当たって止まる。リナはそれを受けたまま、通路の真ん中から動かなかった。
「兄さん、右」
右の壁ぎわは俺の受け持ちになった。持っていた灯りをセレスさんへ差し出す。セレスさんはそれを受け取り、右の壁の低い所へ持ち直した。暗がりが細くなった。
「右の壁ぎわ、一匹。マスターの足もとへ向かっています」
アイリの声と同時に、俺の目にも白い背が見えた。灯りの縁を、平たいものが滑るように這ってくる。
剣を抜いた。肘を上げない。裏庭でリナに押さえられた所まで。
短く振った。
刃の先に柔らかい手応えがあった。白いものが弾かれて灯りの外へ転がる。床の上で一度裏返り、それから三つ目の部屋のほうへ逃げていった。
腕に残った手応えは、思っていたよりずっと軽かった。それでも指の先までじんと痺れていた。
追わなかった。剣先を前へ戻して、構え直した。
残っていた数匹も灯りを避けて三つ目の部屋のほうへ退いていった。リナの盾の前にいた一匹も縁を離れて壁ぎわを去った。こすれる音が遠くなって、廊下が静かになった。
マルタさんが後ろから前へ出て、廊下の両側の暗がりを順に見た。それから作業に戻れと手で示した。
「新人。灯りの置き方は、誰に習った」
「白いのに習いました」
マルタさんの口の端が、少しだけ動いた。
リナは盾を下ろさないまま、前を向いて言った。
「今のはよかった」
俺は息が整う前に笑ってしまった。
「うん」
返事の声が、自分で思ったより大きく廊下に響いた。剣を握った手のひらが熱かった。
セレスさんが灯りを返してくれた。受け取る手はまだ少し震えていた。前に階段の踊り場で震えた時とは、どこか違っていた。
三つ目の座は、廊下が静かになってから閉じた。
*
その次の日は下層へ下りる前に、中層の階段の上で一息ついた。階段の上は廊下より少しだけ暖かかった。灯りを一つ段に置いて、三人で並んで座った。
階段の脇の通り道の口は、三日前よりもはっきり白く盛り上がっていた。指で押すと固く締まっている。三日前には、指の跡が残るくらい柔らかかった。セレスさんがそれを見ながら、急に話し出した。
「中心の座が作る冷えの量は、ほぼ一定なんです。部屋の座を閉じると、その分が残った座と通り道に回る。だから今、ここの霜が厚くなっている。最後に中心の座を緩めれば、作る量そのものが減って、通り道の霜は溶けて底へ下りていく。そこから下の水門で抜ける。そういう作りです」
早口だった。息継ぎの場所がほとんどない。
アイリが帳面から顔を上げた。
「確認させてください。どこまでが手引きに書いてあることですか」
「全部です」
セレスさんは言ってから少し間を置いた。
「……言い方は私ですけど」
俺は手引きの写しを開いて該当の行を指で探した。冷えの量、座を閉じた時、緩めた時、溶けた水の行き先。セレスさんの言ったことを一つずつ手引きの行と並べて帳面に書いていくと、全部の行が見つかった。アイリが横から一語だけ直した。俺が「底へ流れる」と書いた所を、手引きの言葉どおり「底へ下りる」にした。
セレスさんはそれを見て、自分の帳面を開きかけた。ペンを持ったまま、手を止めた。
しばらく通り道の霜を見てから、アイリのほうへ向き直った。
「アイリさん。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「前から、アイリさんの体のことや何かを見た時の反応を、研究のために記録したいと思っていました。でも、ちゃんと聞いたことがありませんでした」
セレスさんの手が、外套の端をつまんでいた。
「調べられるのは、嫌ではないですか」
アイリは少し考えた。
「照合や記録のお仕事なら、いつでも一緒にします。それとは別に、私の体や反応を記録するのは、私が見ている前でだけにしてください」
それからはっきり言った。
「それなら、嫌ではありません」
セレスさんはうなずいて、自分の帳面を開いた。一番前の頁にゆっくり一行書いた。字が見えるように帳面をアイリのほうへ向けた。アイリはそれを読んで、もう一度「はい」と言った。セレスさんは帳面を閉じて、胸の前で両手で持った。
俺は階段の上で二人のやりとりを聞いていた。何か言おうかと思って、やめた。言うことは、もう二人の間で済んでいた。
*
次の日は踊り場を二人ずつ通って下層へ下りた。
マルタさんとリナが先に下り、俺とアイリ、セレスさんとベルントさん、最後にオットーさんとヨナスさん。マルタさんは下りきる前に帰り道の段を一度振り返った。踊り場のひびの両端には、オットーさんが付けた白墨の印がそのまま残っていた。
下の階段は上よりも長かった。段を下りるたびに空気が重くなる。階段の壁には霜の花が咲いていた。灯りが近づくと、細い針のような結晶がいっせいに光った。灯りの輪の外に、何か大きなものの気配があった。後ろで小さくぶつかる音がした。振り返ると、ヨナスさんが霜の花を見上げたまま下りてきて、オットーさんの背中に当たったところだった。オットーさんは何も言わずに、弟子の肩を前へ押した。
階段の下で、前の二人が止まった。
リナが灯りを高く掲げた。
光は、途中で白く跳ね返った。
氷だった。
部屋の真ん中から奥まで、青白い氷の塊が埋めていた。灯りを上げても、上の端が見えない。光が氷の中へしみこんで、奥のほうで鈍く青く光っている。表面には細かい筋が何本も、何百本も重なっていた。木の年輪のような層だった。一本の筋が、一冬の分なのかもしれない。
誰も何も言わなかった。
吐く息が白い。近づくと、頬の皮膚が冷たさで張った。手を伸ばせば届く所まで行って止まった。触っていいものかどうか分からなかった。手をかざすと、手のひらから熱が吸い出されていくのが分かった。氷の中に、小さな泡が閉じ込められていた。ずっと昔の、どこかの冬の空気なのかもしれない。
前の世界で一度だけ、冷凍倉庫の応援に入ったことがある。息を吸うと鼻の奥が痛む部屋で、機械の音がずっとうるさかった。ここには、その音がなかった。
リナが灯りを下ろさないまま、小さく口笛を吹きかけてやめた。アイリはしばらく帳面を開かなかった。氷を見上げたまま立っていた。
セレスさんは階段の最後の段に立ったまま口を開けていた。何か言いかけて、言葉にならなかった。測定棒を持った手が、構えるのを忘れて下がっていた。
ベルントさんが、ゆっくり息を吐いた。
「王国の人たちは、これを作ったのか」
その声も氷に吸い込まれるように小さかった。ベルントさんは図面の写しを胸に抱えたまま、氷の縁に沿って何歩か歩いた。図面には、この部屋の真ん中に四角い線が一つ描いてあるだけだった。その線の中が、全部これだった。
しばらくして、セレスさんが最初に動いた。測定棒を下げたまま、西の壁のほうへ歩いていく。目で追うと、壁ぞいに石の台が南から北まで続いていた。高さは人の背ほど。南の端に上がる段が付いている。台の縁は、手の当たる所だけ丸くすり減っていた。選別室の石の台と同じだった。台の中ほどには石の柱が台の高さまで立ち上がり、その上に座が据えてあった。中層の座より一回り大きく、線の数も多い。セレスさんがようやく測定棒を構え、台の段を上がっていった。
オットーさんは壁の石に手を当てて、「王国の積み方だ。上より丁寧だ」とだけ言った。
アイリは台の南の端で止まって、数拍見てから帳面に書いた。
台の上を北の端まで目でたどると、その下の北の壁の前の床に浅い槽があった。中は空だった。底には、何かを切り出したような真っ直ぐな溝が何本も残っていた。図面には描かれていない。
その奥の北の壁は、厚い霜で真っ白だった。どこまでが霜で、どこからが石なのか分からない。アイリは「霜が厚く、下の石は見えない」と書いた。
足もとで小さな水音がした。床の東の端には細い溝が走っていて、氷のほうから少しの水が流れていた。速くも遅くもない。灯りを向けているあいだ、ずっと同じ調子で流れていた。
俺は記録票の違いの欄に浅い槽のことを書いた。それからもう一度氷を見上げた。灯りはやはり、上まで届かなかった。
油が半分になるまで、誰も帰ろうと言わなかった。マルタさんが言うまで、皆で氷のまわりを少しずつ歩いた。帰りの階段で俺は何度か振り返った。灯りが遠ざかると、氷は暗がりの中にすぐ沈んで見えなくなった。
*
夕飯のあいだ、セレスさんは中心の座の線が中層の座の何倍もあったと、ずっと話していた。
そのあと、宿場の部屋で図面の断面を広げた。
ベルントさんが指で線をたどった。水槽の底に「下の水門」。そこから管が床下を通って、斜面の排水口へ出る。中心の座を緩めて溶けた水は、ここを抜けていく作りだ。
「水門は、氷の下ですね」とアイリが言った。
アイリは前提の紙を出して、まだ見ていない所の「水槽の底」にもう一度印を付けた。今日見た部屋のどこにも、水門は見えなかった。
「最終段階の前に、水門を確かめないと」と俺は言った。
「氷を割るわけにはいかん」とオットーさんが言った。「あれは割ったら戻らん」
しばらく誰も言わなかった。
ベルントさんが断面図を畳んだ。
「明日は、中心の座の照合から始めよう。水門の確かめ方は、そのあいだに考える」
俺は表の空いたままの欄を見た。確かめることが一つ、はっきりした形で残っていた。
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