聞かずに待つ
中層から戻った次の朝、宿で一番広い部屋の机に紙を並べた。目録の控えと、物置の木札の写しと、記録票の束。ベルントさんとマルタさんとオットーさんも来ていた。
アイリが木札の写しを一枚ずつ、目録の氷の品名の隣に置いていった。氷鋏の釘の札は氷鋏の行の隣。藁の札は、目録では「氷包み」と書かれた行の隣に来た。
「氷を作って、切り出していたんだと思います」と俺は言った。「藁は、切った氷を包むためです」
アイリはそれを、考えられることの欄に書いた。
氷鋏の線が一番多かったのも、これで分かる。毎日氷を切っていたのなら、毎日鋏を出す。
「氷出し口は、どう読みますか」
「切り出した氷を出す口だろうな。荷を出すなら、上の搬入口からだ」
「底口へ、石材と漆喰、十袋」
「底の口か。一番下の階の入口かもしれない。そこを石と漆喰で直したんだと思う」
アイリは「下の入口の補修」と書き、少し間を置いてから二つの言葉の横に一行足した。どちらも現物はまだ見ていない。
オットーさんが物置の記録を太い指で叩いた。
「後の連中は、腕はいいが雑だ。石を積まずに、板と漆喰で済ませとる」
ベルントさんは木札の写しを一枚手に取って灯りにかざした。字の崩し方が目録とそろっているのを確かめると、机に戻す手つきが丁寧になった。目録の控えも何度もめくり直していた。王国のあとの記録がこれだけまとまって出てくることはめったにないのだと、昼までに三度言った。
昼にはグレタさんが黒パンと豆の汁を運んできて、机の端の紙を少しずつ寄せて椀を置く場所を作った。
推定ばかりが増えた。どれも確かめるにはもう一度下りて見るしかない。俺は記録票の違いの欄を読み返して、読みの変わった所にだけ印を付けた。印は物置と、目録の二つの言葉の三か所だった。
次の日、領主府から中間の支払いが届いた。俺とアイリの分で銅貨千二百枚。俺が帳面に数を書き、アイリが同じ数を読み上げた。
「千二百。合っています」
*
アイリはこのところ、朝から夕方まで机に向かっていた。文書庫で作った用例の帳面を左に、手引きの写しを右に置いて一語ずつ指でたどる。分からない語に行き当たると、鉛筆の先で小さな丸を付けて次へ進んだ。
その次の日の昼、アイリが手引きの停止の手順を訳し終えた。
同じ部屋にセレスさんとベルントさんが来ていた。アイリは訳した紙を机に置いたが、手順の行はすぐには読まなかった。
「手順の前に、この手順が当たり前としていることを三つ挙げます」
アイリは別の紙を出した。
「一つ目。下の水門が開いていて、水が抜けること。二つ目。通り道に詰まりがないこと。三つ目。中心の座が、手引きの図と同じであること」
セレスさんのペンが止まった。
「それから、まだ見ていない所です。水槽の底。図面では氷の下にあります。通り道の内側。東の二室の奥」
訳の紙にはところどころに小さな丸が付いていた。用例の少ない言葉で、訳に自信のない所だという。
セレスさんは紙を引き寄せ、三つ目の行に自分の名前を書いた。
「中心の座は私が見ます。手引きの図と線を一本ずつ比べます」
ベルントさんは一つ目の行を指で押さえた。
「水が抜けるかどうかは、術式とは別に確かめよう。工程を一つ分けておくよ」
アイリは一つ目の行の横にベルントさんの名前を書いた。
「水門は、図面どおりなら氷の下です」とアイリが言った。
どう確かめるかは、その場では決まらなかった。ベルントさんは一つ目の行の横に、小さく印を付けた。
俺は自分の記録票の束を出して、一枚目の右端に細い欄を一つ書き足した。上に「前提」と書く。誰も何も言わなかった。アイリだけが、俺の手元を一度見た。
*
その翌日、オットーさんとヨナスさんとマルタさんと一緒に、中層から下層へ下りる階段を見に行った。
中層の廊下には前と同じように灯りを先に並べた。白い群れは部屋の奥に寄ったまま出てこなかった。
廊下の突き当たりから、階段が下へ折れていた。壁一枚向こうを通り道の石の管が下りているのだと、図面で見て知っていた。壁に手を当てると石は氷のように冷たかった。ヨナスさんも壁に手をつきかけて、すぐに引っ込めた。
段には薄く霜が降りていた。足を高く上げずに、一段ずつ下りた。灯りの輪の中で、自分の吐く息だけが白く動いていた。
踊り場は階段の途中で向きが変わる所にあった。奥の壁に斜めのひびが一本走っている。オットーさんとヨナスさんが踊り場に下り、俺とマルタさんは二段上で灯りを掲げた。
オットーさんがひびの縁を指でなぞり、指先についた埃を灯りにかざした。
「古いひびだ。縁が丸い。埃も乱れとらん。動いた跡はない」
ヨナスさんがひびのまわりを拳の背で叩いていった。音はどこも詰まっていて、帳場の裏の壁のような軽い音はしなかった。
「中、詰まってます」
俺は一つ聞いておきたかった。
「冷えを止めたら、何か変わりますか」
オットーさんはひびから目を離さずに答えた。
「わしに言えるのは、見える石のことだけだ。このひびは今は動いとらん。裏の土がどうなっとるかは、掘らにゃ分からん。掘るほどのひびには見えん」
言い終えると、オットーさんはひびの両端に白墨で小さな印を付けた。ヨナスさんがその位置を帳面に写した。
二人が段の上へ戻ってから、マルタさんが踊り場に下り、端から端まで歩いて幅を確かめた。
「ここに同時に立つのは二人まで。荷を持ったまま、すれ違わない」
踊り場から先の階段は、灯りの届かない暗がりへ続いていた。下から湿った冷たい空気が上がってくる。
「今日はここまでだ」とマルタさんが言った。
俺は記録票に書いた。踊り場、古いひび、動いた跡なし。
戻る途中で、中層の廊下の灯りを一つずつ回収した。油は帰りの分に手を付けずに済んだ。
*
その夜は俺とリナが入口の番だった。
見張り小屋は入口の脇に板を三方に立てただけの囲いで、入口の側だけが開いている。昼の番は運搬人の二人がして、夜は隊の誰かが二人ずつ火を焚いて獣と勝手に入ろうとする者に備える。俺たちの次はアイリとセレスさんだった。
空は晴れていた。宿場の灯りはもうほとんど消えていて、星が多かった。吐く息が白い。火の明るさの外は、斜面の草も入口の石も同じ黒に沈んでいた。
火に小鍋をかけて、湯が沸くのを待った。リナは膝の上で剣の手入れをしていた。油を含ませた布で、刃を根元から先へ拭く。また根元へ戻す。刃の根元に小さな欠けが一つあって、リナはそこだけ布をゆっくり動かした。
「一人でやってたころはさ」
リナが刃から目を上げずに言った。
「夜番も一人だった。起きてるのも一人、寝るのも一人。だから、こういうのは久しぶり」
俺は黙って火に枝を一本足した。
リナが自分のことを話すのは珍しかった。一緒に仕事をするようになってからも、リナが話すのは道と天気と、俺の剣の振り方のことばかりだった。
「その前は、組にいたんだ」
布が刃の上を往復する。
「あたしはいつも一番先に出てた。足が速いから、先を見てくるのがあたしの役だと思ってた。それで、ある日、先に出てるあいだに、後ろで一人が怪我をした」
リナは刃を返した。
「死んじゃいないよ。でも、組はそれで解けた」
焚き火がはぜた。
中層の廊下で、リナは盾の縁を噛まれても前へ出なかった。裏庭で「あたしの横で」と言った声を、俺は思い出していた。
「それからは、守る人が少ないほうが楽だって……」
そこで手が止まった。布を持った指が、刃の峰に置かれたまま動かない。
俺は何も聞かなかった。小鍋をのぞくと、湯が細かく泡を立てていた。
「湯、沸いた」
リナは一拍おいてから顔を上げた。
「……うん」
湯を椀に注いで一つをリナに渡した。湯気が二人の間に上がった。リナは椀を両手で包み、縁越しに一度だけ俺を見た。それから小さく息を吹きかけた。剣は膝の上に置いたままだった。肩から少しだけ力が抜けたように見えた。
小屋の陰で、砂を踏む音がした。
アイリが毛布を二枚抱えて立っていた。交代にはまだ早い。いつからそこにいたのかは分からなかった。
アイリは何も言わずに近づいてきて、毛布を一枚リナの肩に掛けた。もう一枚を俺に渡した。それから、火のこちら側の空いている所に腰を下ろした。座っていいかとは聞かなかった。
俺は三つ目の椀に湯を注いで、アイリに渡した。アイリは両手で受け取って火のほうを見た。
それきり誰も話さなかった。
小鍋の湯が少なくなると、水を足してもう一度沸かした。リナは二杯目を受け取る時、「ありがと」とだけ言った。
入口の暗がりから、ときどき冷たい息のような風が出てきた。そのたびに火が少し傾いて、三人の影が小屋の板壁の上で一緒に揺れた。リナはもう剣を拭いていなかった。毛布の端を指でつまんだまま、火を見ていた。
しばらくして、セレスさんが交代の時刻ちょうどに小屋の角を曲がってきた。三人が並んで座っているのを見て少し目を丸くし、それから黙って火の向こう側に座った。
交代したあとも、俺とリナはしばらく小屋を離れなかった。火のそばはまだ暖かかった。宿へ戻る坂の途中で、リナが一度だけ振り返って入口の火を見た。
*
次の日、領主府から書状が届いた。
ベルントさんが読み上げた。収穫の荷車が街道を通る季節になった。冬には陥没から出る冷気で道が凍るおそれがある。冷気を止めてよいかを、冬の前に知りたい。
ベルントさんは書状をたたんで机に置いた。
「早く知りたい、という手紙だね。でも、確かめることは削らないよ」
それから手引きの訳を広げた。
「手引きの停止の順番で進めます。まず中層の座を一つずつ閉じる。それから中心の座を段階ごとに緩めて、一段ごとに様子を見る。全部止めても安全かどうかは、そうやって確かめる」
「術式の側は、それで問題ないと思います」とセレスさんが言った。「ただ、水と石のことは私だけでは判断できません。石と排水口は、オットーさんに見ていただかないと」
オットーさんは腕を組んだまま頷いた。
マルタさんが紙を一枚取った。
「毎日、下りる前に中止の条件を言う。帰りの油に手を付けたら戻る。踊り場には二人まで。誰がどこに立つかは、その日の朝に決める。リナは前と退路。灯りの数はリナが見ろ」
リナは短くうなずいた。
「最終段階の前に、前提を一つずつ確かめることを、方針に入れてください」とアイリが言った。
ベルントさんはペンを取り、方針の紙の真ん中に一行書き足した。最終段階の前に、前提を現場で確かめる。
持ち場の話になった。中層の座を閉じる間は、これまでどおり皆で下りる。決めておくのはその先、下の部屋で中心の座を緩める時の持ち場だった。座を緩めるのはセレスさんで、手引きと座を照らし合わせる人がその横に要る。階段の上には、物資と順番を見て声をつなぐ人が要る。
アイリが俺のほうを見た。
「私は、マスターと同じ持ち場がいいです」
部屋が少し静かになった。アイリはそのまま続けた。
「でも、手引きの古い字を読みながら座と照らし合わせるのは、座の前でしかできません。中心の座を緩める時、私は下の部屋でセレスさんのそばに付きます」
膝の上で重ねた両手は、言い終えてもほどかれなかった。
自分で決めた声だった。俺はうなずいた。
「なら、その時の階段の上は俺がやる。物資と順番の表も作る」
「はい」とアイリが言った。
セレスさんが小さく頭を下げた。マルタさんは何も言わずに、紙の持ち場の欄に名前を二つ書いた。
俺は物資と順番を表にした。一番上に日付の欄を作る。座を一つ閉じるごとに、灯りがいくつ、油がどれだけ、誰が何を運ぶか。倉庫で出荷の順番を組んでいた時と同じ手つきで、欄を一つずつ埋めていった。品名はアイリが書き、数は俺が書いた。
二日かけて表ができた。水門の確かめ方の欄は、まだ空いていた。
表を壁に貼ると、リナが上から順に読んでいって、自分の名前の所で指を止めた。前と退路。横に灯りの数。リナは何も言わずに、その欄を指で一度なぞった。
翌朝から、中層の座を閉じ始めることになった。
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