俺にも読めるものがある
朝の鐘が鳴ってから、宿の二階の部屋で目録の控えを机に広げた。ベルントさんが図面の写しを横に置き、アイリが控えの一行目に指を当てた。
「縄二十巻は帳場の脇の棚。鋸三挺も帳場の脇の棚。藁の束は荷の部屋」
アイリが読み上げるたびに俺は図面の上で置き場所をたどった。
控えの行の端に短い線が並んでいた。四本引いて、五本目を斜めに渡してある。搬入口の柱で見た刻みと同じ組み方だった。
字は読めない。でも、これは読める。
「この線、行ごとに数が違うよな」
「はい。いま読んだ中では、縄と鋸の行に多くて、藁の行にはほとんどありません。線の欄の上に字が一つあります。文書庫の用例では『持ち出し』です」
なら、出した数だ。倉庫でも同じことが起きていた。よく出る品は、誰が決めたわけでもないのに出荷口のそばへ寄っていく。この目録でも、線の多い品ほど帳場の近くに置いてあった。
「全部の行で、線が一番多いのは」
アイリは控えを終わりまでめくり、昨日印を付けた行で指を止めた。
「氷鋏。置き場所は、帳場の裏です」
一番よく出る品の置き場所が、図面では厚い壁になっている。
「図面が描かれたときは壁だったんだと思います。後でここを使った人が、手の届く所に置き場を作った。毎日出すものを、毎日遠くまで取りに行く人はいません」
ベルントさんは図面の写しに目を落とした。
「王国の図面は正確だ。あの壁は……」
そこで言葉が止まった。指が図面の端を一度なぞった。
「描かれたあとのこと、だね」
ベルントさんは顔を上げて、少し笑った。
「見に行こう。明日、帳場の裏の壁を調べる。壊さずに分かる所までだよ」
アイリは俺の見立てを、見えたことの欄ではなく考えられることの欄に書いた。それから「氷出し口」と「底口」の二つを、まだ分からない言葉の欄へ移した。
*
帳場の裏の壁は、表から見ると平らな漆喰の壁だった。灯りを近づけても、ひびも継ぎ目も見えない。
ヨナスさんが壁の前に立ち、拳の背で端から順に叩いていった。硬い音が続く。オットーさんは腕を組んで後ろに立ち、何も言わなかった。
五つ目のあたりで、音が変わった。
ヨナスさんはもう一度同じ所を叩いた。それから少し横を叩き、また戻った。
「ここから、奥が空いてます」
声は小さかったが、手は止まらなかった。音の軽い所と重い所の境を、拳で一つずつ確かめていく。境は床から肩の高さまでまっすぐ続いていた。
オットーさんが前へ出て境の線を親指でこすった。漆喰の粉が落ちて、下から木目がのぞいた。
「石じゃない。板に漆喰を塗っただけだ。後の時代の仕事だな」
それだけ言って、ヨナスさんの肩を一度叩いた。ヨナスさんは下を向いた。耳が赤かった。
ベルントさんが板の継ぎ目を見上げた。
「外すのは一枚だけにしよう。これも、昔の人の仕事だからね」
オットーさんが鑿の先を継ぎ目に差し込み、板を一枚ゆっくり手前へ倒した。冷たい空気が足もとへ流れ出てきた。板の裏に白い霜が薄く付いている。
リナが灯りを掲げた。
奥は、人が二人立てば一杯になるくらいの物置だった。壁に打った木の釘に、柄の長い氷鋏が二丁掛かっている。その下に鋸が一挺。床には黒ずんだ藁の束が三つ。釘の一本一本に小さな木札が下がっている。
宝物は何もなかった。毎日使って、毎日ここへ戻していた道具だけだった。
物置の口は帳場の机から一歩で、釘は腕を伸ばせば届く高さだった。俺はしばらく入口から動けなかった。
アイリは物置の入口の二歩手前で止まり、数拍見てから帳面に道具を書いた。それから木札の字を一つずつ写した。
「木札の字は、目録と同じ崩した形です。読めない言葉が一つ混じっています」
アイリはそこで俺のほうを向いた。
「マスターの口元が、倉庫で数が合った日と同じ形をしています」
俺は口元を手で隠した。横でリナが吹き出した。
マルタさんが物置の奥に灯りを向けて、「冷えてるな。奥には入るな」と言った。
宿場へ戻ってから、帳場の記録票の違いの欄に書いた。図面の厚い壁の奥は板張りの物置で、中に氷鋏と鋸と藁の束と木札。これまでで一番長い一行になった。
ベルントさんも自分の帳面に物置のことを書いた。それから図面の写しを開いて、帳場の裏の太い線を指で押さえた。
「物置があることは、もう確かだ。ただ奥行きをまだ測っていないからね。写しに線を引くのは、測ってからにするよ」
*
次の日は休みだった。
朝飯のあと、マルタさんが宿の裏庭に来た。昨日の帰りに一人で中層へ下りる階段の上までのぞいてきたという。
「下の床は白く凍ってる。奥で何かがこする音がした。姿は見てない。凍った床では、足を高く上げるな。下ろす時に滑る。すり足で、体を前へ倒しすぎない」
マルタさんは土の上で二、三歩だけやってみせた。
井戸の縁に腰掛けていたオットーさんが、顔を上げた。
「若いころ、よその氷室で白い這い物を見た。灯りを近づけると、すっと壁ぎわへ逃げた。わしが見たのはそれだけだ」
アイリは帳面に書き、横に「オットーさんが見た話。よその氷室で」と添えた。
灯りを嫌うなら明日は灯りを多めに持って入ればいい。一人に一つ、砂袋は前に二つ。頭の中で数え始めたところで手を止めた。今日は休みだ。油をどう分けるかは、明日の朝にマルタさんが決める。
代わりに手袋を出した。親指の付け根は前にリナが縫ってくれた所だ。縫い目は細かくて、まだまっすぐだった。今度は人差し指の脇にほつれが一つできている。
「それ、あたしが」
「いい。自分でやってみる」
リナは出しかけた手を引っ込めて、針と糸だけ貸してくれた。
「針は、こう持つ。刺す時は自分のほうへ向けない」
あとは黙って見ていた。俺の縫い目は一つ目が大きく、二つ目が小さく、三つ目は斜めになった。途中で糸が絡まって、ほどくのに縫うより時間がかかった。リナは何度か口を開きかけて、閉じた。
アイリは手袋のすぐそばにしゃがんでいた。リナのまっすぐな縫い目と俺の曲がった縫い目を同じ長さだけ見て、どちらも同じ熱心さで帳面に書いている。
「なんで俺のほうまで書くんだ」
「曲がり方が一つずつ違います。リナさんのは、全部同じです」
褒められたのかどうか分からなかった。
縫い終わった手袋をはめて拳を握った。見た目は悪いが、指は引っかからなかった。
*
中層への階段は、下りるほど息が白くなった。
最初の部屋の前の廊下で、マルタさんが並びを確かめた。前にマルタさんとリナ、二人とも灯りを持つ。リナは左腕に小盾。その後ろに俺。油の袋を抱えている。後ろにアイリとセレスさん。ベルントさんは廊下の入口に残った。帰り道は、今来たこの廊下一本だけだった。
床は白く凍っていた。言われたとおり、足を上げずに滑らせて歩いた。靴の底で霜がかすかに鳴った。
部屋の戸口で、前の二人が灯りを差し入れた。
戸口のすぐ右の隅の床が、白く波打っていた。
霜だと思った。違った。白く平たいものが何十も重なっていて、灯りが届いたとたんに一斉に動いた。こすれ合う音が、乾いた紙をまとめて揉むように部屋中に広がった。
白い群れは灯りから逃げた。部屋の奥へ行くには、照らされた床を渡らなければならない。群れが流れこんだのは、戸口の右の壁ぎわに落ちた細い影だった。二人の体が灯りをさえぎってできた影で、戸口をくぐって廊下へ続いている。俺たちの足もとへ。帰り道のほうへ。
「マスター、右の壁ぎわ。一匹、こちらへ来ます」
右を見た。前腕ほどの白いものが、壁ぎわを這って俺の靴のほうへ来ていた。
抱えていた油の袋を後ろへ差し出した。アイリの手がそれを受け取った。剣を抜いた。
追い払うだけでいい。そう思ったのに、腕は大きく振りかぶっていた。刃は白いものの上の空気を切り、床の霜を少しかすめただけだった。振った勢いで右足が前へ滑り出しかけた。
追うな。
足を止めた。白いものは刃の下をくぐって、もう見えなくなっていた。
前でリナの盾が鳴った。近づいた一匹を受けたのだ。白いものは盾の縁に食いついて離れない。リナの左腕が下へ引かれた。
「止まれ」
「止まれ」と俺たちは返した。
腰の綱が二回引かれた。
「戻る」とマルタさんが言った。
「戻る」
剣を振り直しはしなかった。刃を前に向けたまま三歩下がった。訓練場の端で何十回も繰り返した形だった。荷を背負って後ろ向きに歩いた、あの足だ。膝が勝手に曲がって、足の裏が氷の上を探った。
前でリナが盾を振った。食いついていた一匹が床に落ちて、壁ぎわへ逃げた。リナの灯りが下がってくるにつれて廊下の白いものが左右の隅へ寄っていく。その間を俺たちは後ろ向きのまま抜けた。
廊下の入口でベルントさんが灯りを掲げて待っていた。階段の踊り場まで上がると、誰も何も言わなくなった。
剣が鞘にうまく入らなかった。柄を握っていた右手が開かない。指の付け根が痛かった。ようやく開いた手が、遅れて震え始めた。止めようとしても止まらなかった。
アイリが黙って、油の袋を俺の足もとに置いた。
*
宿場に戻ると、アイリが帳面に部屋の図を描いた。灯りのあった所に丸。群れが動いた向きに矢印。
矢印は全部、戸口へ向いていた。
群れは一番近い暗がりへ逃げる。戸口の隅から一番近い暗がりは、灯りを掲げた二人の足もとの影だった。その影が廊下へ、帰り道へ続いていた。
「灯りの置き方が、群れの逃げる先を作ってたんだ。先に廊下と戸口の脇に灯りを置いて影を消しておけば、群れは部屋の奥の暗い隅へ寄るかもしれない」
アイリはそれを矢印の図の下に書いた。
「一度見たことからの推定です。次に入る時に確かめます」
マルタさんは油の残りを数えた。
「廊下に三つ並べる。その分、奥にいられる時間は短くなる。それでいい」
夕方、宿場の裏庭でリナに呼ばれた。小盾の縁に小さな歯の跡が並んでいた。
「荷を下ろしな。抜いて、今日の振りをやって」
大きく振りかぶった。リナが下から俺の肘を押さえた。
「大きすぎる。あれじゃ当たっても戻れない。肘はここまで。短く振って、すぐ構えに戻る」
短く振って戻る。三回、四回。五回目で肘がまた上がりかけて、リナが黙って押さえた。
「明日もあの廊下に入るんだ。あたしの横で、それができればいい」
次の日は廊下の入口から順に灯りを置いた。入口に一つ、廊下の中ほどに一つ、戸口の脇に一つ。帰り道が明るくなってから、マルタさんとリナが部屋に灯りを差し入れた。
白い群れは動いた。戸口の脇に影はなかった。群れは明るい床を避けて壁ぎわを伝い、部屋の奥の暗い隅へ寄り集まっていく。こすれる音が遠ざかって、床の真ん中に凍った石の道が一本あいた。
リナが盾を構えたまま、短く息を吐いた。
部屋の真ん中まで歩いてから気づいた。俺は剣の柄に手を掛けていなかった。
*
次の日は西の部屋の座を見に入った。
座は奥の壁ぎわに腰の高さで据えてあった。平たい石の台に、細い線が何本も彫りこまれている。線の上には霜が厚く付いて、近づくだけで頬が痛くなった。
セレスさんが座の前で測定棒を構えた。指先が赤くなっている。それでも棒の先はほとんど揺れなかった。
「よく読めます。訓練場で試した朝と同じです。冷えている時のほうが、重ね書きの術は揺れません」
セレスさんは一つ読むたびに手を外套の内側へ入れて温め、それから次を読んだ。目は先の線へ向いていたが、手は順番を崩さなかった。
アイリは座の二歩手前で止まった。歩きながらは見ない。止まって数拍見てから、線の配置を紙に写していく。
「セレスさん。この線だけ、ほかと違います」
アイリが示した所に、浅い線が一本あった。ほかの線から枝のように分かれて壁ぎわへ向かっている。途中で一度刻みが止まり、少しずれてまた続いていた。
セレスさんが顔を近づけて、しばらく黙っていた。
「王国の彫り手の線ではありません。線が浅くて、途中で一度止まっています」
「何のための線ですか」と俺は聞いた。
「この線だけでは、分かりません」
アイリは線の向きを紙に写し、端に一行書き添えた。
「どこへつながるかは、この部屋からは見えません」
俺は西の部屋の記録票の違いの欄に書いた。座に浅い線が一本、彫り足してある。目的は分からない。
そのあと東の二室へ回った。戸口をくぐると空気が変わった。冷たいが、凍ってはいない。床は湿って黒く、壁には霜の代わりに水の筋が光っていた。
座の前まで進むと、セレスさんが測定棒を構えて首を振った。
「止まっています。どちらの部屋も」
座のさらに奥にも暗がりが続いていたが、マルタさんは「今日は座まで」と言った。
宿場に戻って、記録票の束を数え直した。上層の分は全部埋まった。中層は西の部屋と東の二室の座まで。違いの欄の大きな書き込みは、帳場の裏の物置と座の浅い線の二つになった。
氷鋏がどれだけ使われていたかは、目録の線で読めた。座の線が何のために彫られたのかは、まだ読めない。俺は西の部屋の一枚を、束の一番上に戻した。
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