昔の人もここで働いていた
朝の鐘のあと、領主府の東の棟の細長い部屋に呼ばれた。机も部屋に合わせて細長い。その端に白髪まじりの男の人が座っていて、膝の上に油紙の包みを抱えていた。机に置けば楽なのに、下ろそうとしない。
「領主府で古い記録を預かっている、ベルントです」
穏やかな声だった。包みを少しだけ持ち上げてみせる。
「ハーゼルの近くにあった、王国の頃の施設の図面です。文書庫の奥から出てきました。王国の測量士の仕事ですよ」
最後の一言だけ、声が少し誇らしげだった。
ベルントさんはまず調べる目的を話した。あの陥没が街道を危うくしないか。冷たい風を止めてしまってよいのか。冬が来る前にそれを決めたい。灰をまく冬の道の話をしていたグレタさんの顔が浮かんだ。
隣の女の人が続けた。髪を短く刈っていて、腰の剣の柄がよく磨かれている。
「護衛の責任者、マルタ。Cだ」
それだけ言って、俺たちを順に見た。
「Eの三人は私とセレスの監督の下で動く。勝手に先へ行かない。止まれと言われたら止まる。以上」
戸が開いてオットーさんが入ってきた。後ろに背の高い若者が一人、道具袋を両手で抱えている。
「穴の縄の連中か」とオットーさんが言った。「こいつはヨナス。弟子だ」
「ヨ、ヨナスです。よろしくお願いします」
ヨナスさんは頭を下げた拍子に、道具袋を机の角にぶつけた。中で金物が鳴った。オットーさんは黙って袋の口を押さえた。そこから柄の擦り減った小さな金槌がのぞいていた。指の当たる所だけ色が濃い。
こちらも順に名乗った。
「アイリです。字の写しと照合ができます。古い字体はまだ読めませんが、習えば覚えます」
頼まれる前に、自分の持ち場を自分で言った。
「調べる方針は私が決めます」とベルントさんが言った。「進むか止めるかはマルタさん。術式はセレスさんにお願いします」
オットーさんが短く付け足した。「石はわしらが見る。入口を開けて支えを入れるまでだ」
「佐伯悠真です」
ベルントさんが首をかしげた。
「サエキ、ユウマ。どちらが家の名かな」
「佐伯のほうです」
「では、サエキ君」
ベルントさんは帳面に何か書き付けて、満足そうにうなずいた。
それから条件の話になった。補助の冒険者の日当は一人一日銅貨五十枚。手数料を引いた手取りで、払うのは調査の作業をした日だけ。宿と食事は出発の日から調べ終わるまで領主府が持つ。
アイリが紙に書いた。五十、作業の日だけ、宿と食事。
俺はリナを見て、アイリを見た。リナが小さくうなずき、アイリは「はい」と言った。セレスさんはもうこちらを見ていた。二日前は、顔合わせに行くとだけ決めた。今度は条件を聞いたうえで決める。
「受けます。四人で」
ベルントさんが名簿の四人の名前の横に印を付けた。マルタさんは墨が乾くのも待たずに言った。
「新人。出発は六日後の朝だ。靴を見ておけ」
「新人って、あたしもか」とリナが言った。
「Eは新人だ」
リナの口が少しとがった。
*
次の三日は文書庫に通った。
窓の小さな部屋に、古い紙の匂いがこもっていた。図面は平面図と断面図が何枚も、手引きは古い取扱書が一冊。どれも写しを作ってから持ち出す決まりだった。
年配の書記がアイリの隣に座って、古い字体を一つずつ教えた。アイリは一つ覚えるたびに、同じ字が出てくる行を図面の中から探して紙に並べた。
「この字は三つの所で使われています。どれも部屋の名前の前です」
「じゃあ、それは部屋という意味だろうね」と書記が言った。
二日目の昼、アイリが図面の表題を指でたどった。
「施設の名前が読めました。『霜の胃袋』です」
書記がむせた。
「蔵だ。霜の蔵。その字は、ものをしまっておく所という意味で使う」
「胃袋も、ものをしまっておく所です」
「人の腹にしまうものと一緒にしないでくれ」
アイリは自分の紙の「胃袋」に線を引き、上に「蔵」と書いた。少し考えてから、横に小さく「胃袋ではない」と書き足した。
俺は古い字が読めない分、図面の線を見ていた。上の階、真ん中の階、下の階。部屋の並びは倉庫の棚の並べ方に似ていて、見ていて飽きない。下の階の大きな部屋から上の階の小さな部屋まで細い線が一本だけ、ほかの線をよけるように通っていた。
「ベルントさん、この細いのは何ですか」
「ああ、それは伝声管だよ。下の部屋と上の帳場で声をやり取りするための管だ」
ベルントさんは目を細めた。
「王国の測量士は、管一本まで描いたんだ」
セレスさんは手引きの写しの、術式の図の頁から動かなかった。
「この座の配り方、きれいです。冷えを真ん中で作って、管で部屋ごとの座へ配るんです。この線の重ね方なんて、今の術式の本には載っていません」
「セレスさん」とアイリが言った。「それは手引きの言葉ですか」
「……半分は私の言葉です」
セレスさんは少し赤くなって、手引きの行を指でたどり直した。
三日目には、アイリは書記に聞かずに図面の部屋の名前をほとんど読めるようになっていた。読めない字には小さな丸を付けて、紙の端にまとめて並べた。丸は日ごとに減っていった。
三日目の夕方に写しがそろった。
*
出発までの二日は、物資と段取りの打ち合わせだった。
俺は前の晩に作った紙を一枚、机に出した。部屋ごとに一枚使う記録票だ。欄は四つ。図面、現物、違い、まだ見ていない。
「図面に描いてあることと、行って見たことを並べて書きます。違ったら違いの欄に。見ていない所は、見ていない所の欄に」
ベルントさんは紙を手に取って、しばらく眺めていた。
「図面は正確だよ、サエキ君。違いの欄は空になると思う」
「空なら空で、確かめたという記録になります」
ベルントさんは少し黙った。それから紙を机に戻して、マルタさんのほうへ押しやった。
「これを使おう。部屋の数だけ写しを作ってくれるかな」
気づくと、肩に入っていた力が抜けていた。
マルタさんは紙を一度だけ見て、何も言わずに自分の束に挟んだ。
あとは物資の表を作った。灯り、油、綱、砂袋、白墨。「油は」とマルタさんが聞いた。一日に使う量を決めて帰りの分を先に分けてあると答えると、それ以上は聞かれなかった。倉庫で棚卸しの前日にやっていたのと同じ段取りだ。アイリが数を読み上げ、俺が書いた。
打ち合わせが終わって部屋を出るとき、ベルントさんの机の上に記録票が一枚だけ残っていた。図面の写しの包みのすぐ横に置いてあった。
*
出発の朝、宿場へ運ぶ調査隊の荷を荷車二台に積んだ。運ぶ間の護衛も俺たちの仕事だ。
リナが前を歩き、俺は荷の積み方と数を見た。重い砂袋は下に、灯りの油は揺れない真ん中に。アイリは荷札と目録を照らし合わせ、出がけに縄の結び目の横へ白墨で印を付けた。
昼過ぎの上り坂を越えた休みで、二台目の荷車の印が一つ、結び目から指一本ぶんずれていた。俺がその縄を締め直すあいだ、リナは坂の上に立って道の先を見ていた。
ハーゼル宿に着いたのは夕方だった。グレタさんが戸口で俺たちを数えた。
「十人だね。二階の奥から順に詰めておくれ」
それから俺の顔を見た。
「茸の煮込み、作っとくって言っただろ」
夕飯の鍋には本当に茸が入っていた。ベルントさんは一口食べて目を丸くし、図面の包みを膝に載せたまま二杯目を頼んだ。
次の日は図面を手に、外から施設を調べた。
陥没の穴は前に張った縄の内側で、口を少し広げていた。そこから斜面を回りこんだ藪の奥に、崩れかけた石の門が埋もれていた。蔦を払うと、石を積んでふさいだ戸口が出てきた。
オットーさんが目地に指を当てた。
「門は王国の積み方だ。ふさいだ石は後の時代だな」
ヨナスさんが親方の横で、言われた石に白墨で印を付けていった。
リナは一人で斜面を下りていた。図面では、このあたりに排水口がある。しばらくして、斜面の途中で手を上げた。
「ここ、土が湿ってる。苔が冷たい」
行ってみると、斜面の一か所だけ草の色が濃かった。苔に触ると、指先がひやりとした。
「排水口の水だな」とオットーさんが言った。
図面の排水口は、ちょうどその下にある。誰も言い返さなかった。俺もそれで納得した。
*
次の日の朝、マルタさんが綱の束を担いでやってきた。
「地下では笛を使わない。音が壁に跳ね返って、どっちから鳴ったか分からなくなる。声で言って、言われたほうは同じ言葉を返す。声が届かない時は綱を引く。一回は止まれ、二回は戻る、三回は来い」
腰に綱を結び、宿場の裏庭で練習した。前のリナが一回引く。俺は止まって「止まれ」と返す。二回引かれたら「戻る」と返して下がる。
三回目の練習で、俺の腰の結び目がほどけた。綱だけがリナのほうへ引かれていく。
マルタさんは笑わなかった。黙って俺の前に立ち、結び目を一度だけ作ってみせた。
「輪をここに通す。引けば締まる。もう一回」
結び直した。今度はほどけなかった。
それから昼まで、止まれと戻るを交互に繰り返した。途中で一度、引かれる前に足が止まって、リナに「早い」と言われた。そこからは引く順番を変えてもらい、引かれてから止まれるようになった。
午後は陥没の穴と図面を見比べた。施設の入口からの距離、斜面の向き。何度合わせても、図面のその場所には何も描いていない。
「図面にない穴、ですね」とアイリが言った。
ベルントさんは図面の写しを両手で持ったまま、しばらく穴を見ていた。
その次の日、宿場の通りには朝から柱が立ち、子どもたちが色のついた布を結んでいた。明日は収穫の祭りだという。その横を抜けて、俺たちは施設の門へ向かった。
オットーさんとヨナスさんがふさいだ石を上から一つずつ外した。戸口が開くと、内側に古い木の戸が残っていた。オットーさんが戸の枠と天井の石を見て回り、材木を二本立てて楔を打った。
「ここまでは持つ」
あの穴が崩れてできた口なら、昔の人はどこから入っていたのか。見回りの帰りにそう考えたのを思い出した。答えはこの戸だった。
ベルントさんが許しを出し、男手が二人がかりで戸を引いた。中から冷たい空気が流れ出て、足首を撫でた。
マルタさんが先に入って、補強した敷居の内側だけを見て回った。
「敷居の内側まで。奥へは行かない」
灯りを持って、敷居をまたいだ。
広かった。灯りの輪の向こうまで、石の床が続いていた。天井は高く、柱が等しい間を空けて並んでいる。床には浅い溝のような筋が何本も入口から奥へ延びていた。重いものを引きずった跡に見えた。
壁の、俺の腰より少し高い所が横一本に白く擦れていた。荷車の荷台の縁なら、ちょうどそのくらいの高さだ。
アイリが敷居の内側で止まった。灯りを柱に向けて、数拍黙ってから言った。
「床の筋は奥へ続いています。どこまで続くのかは、ここからは見えません」
それから灯りを少しずらした。
「柱に刻みがあります。縦の線が四本で、五本目が斜めに横切っています。それが何組も並んでいます」
近くの柱に灯りを寄せた。小さな刻みが、俺の目の高さに並んでいた。
倉庫では俺も同じように数えていた。荷を一つ下ろすたびに一本。五本目で束ねる。伝票の裏や段ボールの端に、五本ずつ線を引いた。
誰かがここで荷を数えていた。たぶん、この柱の前に立って。
ベルントさんが後ろから灯りをのぞきこんだ。図面の写しを広げて、柱を指でたどる。
「三本目まで、図面のとおりだ」
声が少し弾んでいた。
俺は記録票の一枚目を出した。図面の欄に「柱七本」。現物の欄に「三本目まで見た。一本目に刻み」。まだ見ていない欄に「四本目から奥」。刻みは図面にない。違いの欄に入れるかどうか迷って、現物の欄に書き足した。
セレスさんは敷居の外で測定棒を構えて、穴の時と同じ古い型の反応だと小声で言った。リナは敷居の脇で灯りの輪の外を見ていた。動くものはない、とだけ言った。
荷車が入ってきて、誰かが縁をぶつけて、誰かが重い荷を引きずって、誰かがそれを数えた。何年も、毎日。灯りの届かない奥にも、そういう場所が続いているのだろう。
息が白かった。灯りの輪の外は真っ暗で、冷たい風がそこからゆっくり流れてくる。
俺は敷居の内側に立ったまま、その暗がりのほうを見ていた。
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