五つ数える間
閂が抜ける音がして、戸が内側へ開いた。
ニコの顔があった。粉で白い頬に、涙の筋が二本ついていた。
「……来た」
声が裏返っていた。ニコは何か言おうとして、言わずに俺の袖をつかんだ。その手が震えているのが分かった。
また来る、と言ったのは俺だ。来たのなら、連れて帰らなければならない。袖をつかむ指の力で、それがはっきりした。
「遅くなった。エダさんは」
ニコは振り返った。戸の奥、粉袋の山の脇にエダさんが座っていた。右の足を前に投げ出して、壁に背を付けている。その横でハンスさんが粉袋を一つ抱えたまま立っていた。
「上から背負って下ろしてきた」とニコが言った。「親方が。戸の近くにいたほうがいいって」
「よく来たね」とエダさんが言った。声はしっかりしていた。「この子、上の窓から何べん外を見たか分からないよ。見るたびに、まだ、まだ、って」
「言ってねえよ」とニコが言った。
エダさんの顔色は白いが、唇の色は悪くない。
アイリがしゃがんで、エダさんの足もとを見た。
「右の足首です。足首の上が腫れています。靴は脱がせていません。靴の中で、指は動かせますか」
「動かせるよ。痛いけど」
エダさんの顔がゆがんだが、声は高くならなかった。
「話せます。息は速くありません」
痛がり方と、顔色と、話せるかどうか。救護所で言われたことを、アイリは一つずつ確かめていた。俺は担架を床に下ろし、板二枚と布を出した。
布を巻くのはアイリに任せ、ニコには板ごと足を押さえてもらった。靴の上からでは指の色は見えない。アイリは巻くたびにきつくないか、しびれていないかをエダさんに聞いた。
その間に、俺は戸口を見た。
戸は開いている。だが、内側に残った粉袋が一つ、戸の端に引っかかっていた。そのせいで戸は壁まで開ききらない。空の担架を戸口に当ててみると、担架そのものは戸の間に収まった。けれど持ち手を握った手が、戸の縁に当たる。
「ハンスさん。この袋も、どけます」
「全部どけたつもりだったんだがな」
ハンスさんは顔をしかめて、袋の片側をつかんだ。俺が反対側を持って二人で奥へ運ぶ。戸が壁まで開いた。もう一度担架を当てる。今度は持ち手の両側に、拳一つ分ずつ空きがあった。
前に、ここを箱を縦にして通した。箱は立てられる。人を載せた担架は立てられない。
エダさんを担架に移した。ハンスさんと俺で肩と膝を支え、アイリが足を板ごと持つ。帯を胸と膝の二か所に回して、留め具を噛ませる。親指ほどの鉄の輪が、朝の湿り気を吸った革の帯を挟んだ。
ハンスさんが持ち手をつかんで、そのまま戸へ向けて引こうとした。
「待ってください」
自分の声が思ったより大きかった。ハンスさんの手が止まった。
「ここで向きを変えます。持ち手の高さはそのまま、足で回ります。戸は足のほうから。戸口は前と後ろ一人ずつで、ニコは横から縁を支えて」
「……分かった」
ハンスさんは俺の顔を見て、それから持ち手を持ち直した。
床の上で、担架を傾けずに足で回る。粉袋をどけた分だけ、回れる場所があった。エダさんの足から戸をくぐる。ニコが横で縁を支え、俺は前の持ち手を両手で一人で取った。後ろはハンスさん。外へ出たところで、アイリが俺の横に入り、ニコが反対側に回った。
戸の外で、セレスさんが通路の先と溝のほうを見比べていた。リナは戸の脇で盾を構えたまま、首だけを少し動かした。
「茂みのは奥。北の角のは、ここからだと見えない」
「エダさんは担架に乗りました。戸も通れました」とアイリが言った。
セレスさんはエダさんの顔を見て、それから俺たちの持ち手の握り方を見た。
「戻ります。溝の段差で一度止まって、そこでまた決めます」
*
リナが戸の脇から前に出た。盾は北の柵のほうへ向いている。セレスさんが一番後ろについた。
担架は重かった。講習で載せたリナより重いわけではないのかもしれない。それでも腕に来る重さが違った。前を行く俺の足もとは、行きに通った泥だった。
柵の板が外れた所の手前で、リナが手を上げた。
「止まれ」
全員が止まった。
「下ろす」
俺が言うと、四人の膝が一緒に曲がった。担架の脚が泥に着く。エダさんが小さく息を吐いた。
柵の向こうの草が割れて、灰色の背中が出てきた。一頭。もう一頭が少し後ろ、同じ北側の草の中にいる。
「二頭。どっちも北。柵の向こう」とリナが言った。「南と後ろは」
「見える所には、いません」と後ろからセレスさんが答えた。
俺は担架から手を離して立った。背中の鞘を腰の脇へ回す。左手で鞘の口を押さえ、右手で柄を引く。刃が一度で出た。
あの時、灰牙犬の前で半分しか抜けなかった剣だった。
足が震えていた。それでも三歩下がる練習の時と同じに、膝は曲がっていた。前に出る仕事はリナのものだ。俺の仕事は、ここから下がらないことだった。
俺は担架とエダさんの前に立って、剣先を柵の切れ目へ向けた。斬るためではない。ここから先へ来させないためだ。リナが俺の半歩前で、盾を切れ目に向けている。
犬は低い姿勢のまま、柵の切れ目の向こうを行ったり来たりしていた。灰色の毛が濡れて背中に張りついている。目が担架のほうを向くたびに、俺は剣先をほんの少しそっちへずらした。
アイリは犬を見ていなかった。担架の脚の下の泥と、この先の足もとを見ていた。犬はリナに任せると、救護所で言ったとおりだった。
一頭目が切れ目に鼻先を入れた。リナが盾で押し返す。犬の前足の爪が盾の縁を滑って、リナの前腕をかすめた。
「平気。浅い」
リナは盾を下げなかった。
二頭目が柵沿いに、俺たちの前のほうへ回ろうとしていた。進む先に出られたら、溝まで行けない。
「セレスさん」
「使います」
セレスさんが北の柵へ手を向けた。西から吹いていた風が柵の手前で斜めに折れた。地面の泥まじりの砂と、俺たちの服から落ちた粉を巻き上げて、柵の切れ目の向こうへ叩きつける。二頭がそろって顔を背け、草の中へ跳び退いた。
「今のうち。追わない」とリナが言った。
セレスさんは手を下ろして、短く息をついた。額に汗が出ていた。
「もう一度は使えますが、使わずに済ませたいです。急いでください。ただ、走らずに」
俺は剣を鞘に戻した。切っ先が鞘の口を探る。一度目で入らず、二度目で入った。鞘を背中へ回して、前の持ち手を握る。
「上げる」
担架が上がった。
「溝へは、南の柵に沿って寄ります」と俺は言った。「渡る所は同じです。近づく向きだけ変えます。北の柵から離れたい」
アイリが足もとを見たまま答えた。
「南の柵沿いは、行きにリナさんが踏んだ所です。足跡が残っています。泥は同じくらいです」
「それでいい」とセレスさんが言った。
南の柵の杭を一本ずつ横に見ながら進んだ。風はもう普通の西風に戻っていた。
*
溝の手前で、担架を一度止めた。行きに空の担架で確かめた段差の所だ。
アイリが溝の縁にしゃがんで、水と泥を見た。
「水は布の下のままです。段差も行きと同じ所です」
「後ろも見えない」とリナが言った。北の柵へ盾を向けたまま、溝のこちら側に立っている。
セレスさんがエダさんの顔と、俺とハンスさんの腕を見た。
「渡ります」
「前が下ります」と俺は言った。「前は持ち手を胸まで上げる。後ろは膝を曲げて下げてください」
溝へ足を下ろした。冷たい水がくるぶしの上まで来る。足が低くなった分、持ち手を胸の高さまで持ち上げた。後ろでハンスさんが膝を曲げる。担架はほとんど傾かなかった。それでも、エダさんの身体がわずかに足のほうへ寄った。
「悠真」と横からニコが言った。「膝の留め具。滑ってる」
見ると、膝の帯の鉄の輪が、濡れた革の上で少しずつずれていた。足のほうへ掛かった重さを、帯が受けている。輪がもっとずれれば、帯がゆるむ。
下ろせる場所はない。担架を下ろせばエダさんが水に浸かる。戻るにも同じ段を逆にたどらなければならない。ニコは縄の束を握っていたが、片手は担架の縁を支えている。巻くには両手が要る。
俺はこめかみに意識を向けた。重くない。今日はまだ一度も使っていない。
「アイリ、ニコ。前の持ち手を片方ずつ持ってくれ」
二人がそれぞれ前の持ち手をつかんだ。重さが二人の腕へ移るのを待ってから俺は手を離して横へ一歩出た。膝の帯の輪は、手を伸ばせば届く所にある。
「効かなかったら、このまま止まって支える。ニコが巻くまで」
「分かってる」
輪に指先を当てた。トーマの机で何十回も唱えた言葉を、口の中で唱えた。指先が一瞬、乾いた。手を離す。
「一つ」とアイリが数えた。
輪が止まった。帯がエダさんの膝を押さえたまま、動かない。
「二つ」
ハンスさんが溝へ下りた。後ろも低くなる。
「三つ」
俺は前へ戻って、二人から持ち手を受け取った。
「四つ」
前と後ろの足が、同じ泥の底に並んだ。持ち手の高さがそろう。アイリが担架の横へ回って、揺れを手で止めた。ニコの両手が空いた。
「五つ」
輪はまだ動かなかった。
それから少しして輪がかすかに帯の上を滑った。ニコがもう縄を回していた。輪に二回巻きつけて、端を帯の下へ押し込む。手を離しても、輪はもうずれなかった。
「巻けた」
ニコの声が少し震えていた。
向こう岸へ上がる段では、前が上がる。今度は俺が膝を曲げて持ち手を下げ、ハンスさんが胸まで持ち上げた。泥に足を取られて一度踏み直した。アイリが横から支えた。
岸に上がると、エダさんは目を開けて俺の顔を見ていた。
「ちゃんと持っててくれたね」
それを聞いた時、腕の奥で何かがほどけた。五つ数える間だけの魔法だった。その五つを、皆で使い切った。
溝を上がったところで、リナが列の後ろへ回り、通路の奥へ盾を向けた。
そこから倉庫までが長かった。持ち手が汗で手のひらの中を滑る。
「前と後ろ、替わるか」と後ろからハンスさんが言った。
「戸口までは持ちます」
言いかけて、言い直した。
「……あと二十歩なら持ちます。それより遠かったら、替わってください」
「おう」
倉庫の裏の戸口が開いて、警備の人が笛を下げたまま出てきた。もう一人も続いた。二人は担架の持ち手を、一人ずつ受け取ってくれた。手を離した瞬間、指が持ち手の形のまま固まっていた。腕が震え始めたのは、それからだった。
最後にリナが戸口をくぐり、振り返って通路の奥をしばらく見てから、戸を閉めた。
*
倉庫の表から出ると、柵の内側に救護所の担当の人が来ていた。ガルドさんもいた。
アイリが一人ずつ、顔を見ていった。
「ハンスさん。エダさん。ニコさん」
三人が、それぞれにうなずいた。
「リナさん。セレスさん。マスター」
それからアイリは、自分の胸に手を当てた。
「私。七人です」
誰も、何も言わなかった。ガルドさんが短くうなずいて、それから俺たち四人を一人ずつ見た。
「よく戻った。上の隊には、三人は戻ったと知らせる」
それだけ言って、ガルドさんは伝令を呼びに行った。
担当の人がエダさんの足の布を見て、靴の上から足先を軽く押さえた。
「巻き方は悪くない。しびれはないね」
「ないよ」
それから、エダさんの顔を見た。
「あんたが村じゅうの家に一言ずつ書き足させた表ね。自分の欄だけ何も書いてなかったよ。足首を痛めても口は達者、って足しとこうか」
「それは前からだよ」とエダさんが言った。
ハンスさんは倉庫の壁に背を付けて、そのまま地面に座り込んだ。ニコは自分の手の甲を見て、そこが擦りむけているのに初めて気づいたらしかった。
「いつやったんだろ」
担当の人がニコの手にも布を巻いた。リナは前腕の擦り傷を見せるように言われて、しぶしぶ袖をまくっていた。
警備の人たちが担架を持ち上げた。担架のエダさんに、ハンスさんとニコが付き添って救護所のほうへ歩いていく。ニコが一度だけ振り返って、手を振った。
俺はそれを見送った。
腕を下ろすと、ずっと持っていた重さが抜けていった。前腕の震えはまだ止まらない。指を開いて閉じようとしても、うまく閉じない。息も整わない。
セレスさんは倉庫の壁に手をついて、目を閉じたままゆっくり息をしていた。リナは袖をまくったまま、北の柵のほうをまだ見ていた。
隣でアイリが、泥で汚れた自分の靴を見下ろしていた。
「マスター。足が冷たいです」
「俺もだ」
日は倉庫の屋根の上に高く出ていた。上の隊がいつ戻るのか、俺たちにはまだ知らせがなかった。それでも、表の最後の三行に印を付けられる。
リナが袖を下ろしながら、こっちへ来た。
「兄さん。さっき、一回で抜けてたね」
「……見てたのか」
「前の時は、半分だったから」
リナはそれだけ言って、担当の人のほうへ戻っていった。
返事をしようとして、遅れた。口の端が勝手にゆるんでいた。
俺は柵に手をついて、少しの間そこに立っていた。
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