俺たちが知っている道
ガルドさんは俺の顔を見て、それからアイリの紙の図を見た。
「確かめるだけだ。倉庫まで。通路に出るのは、俺がいいと言ってからだ」
俺たち四人に警備が一人付いて、救護所を出た。村の中を東へ急いだ。戸を閉めた家が並んでいる。洗濯物が一枚、干したまま風に揺れていた。北の橋のほうから、犬の吠える声が切れ切れに聞こえた。
製粉倉庫の戸は閉まっていた。警備の人が鍵を開けて、俺たちは中へ入った。粉の匂いがした。何日か前までここで棚の置き場を決めていた。
リナがまっすぐ裏の戸へ行き、細く開けて外を見た。
「通路に犬はいない。見える所には、だけど」
リナは戸の隙間に顔を寄せたまま、通路の先を目でたどった。それから戸の外へ片足だけ出して、地面を踏んだ。
「柵は倒れてない。地面は濡れてるけど、足は取られない。小屋の手前の茂みは見えない。あそこに何かいても、ここからじゃ分からない」
アイリはリナの肩越しに同じ方向を見ていた。
「前に通った時と違うのは二つです。溝の向こうの柵の板が一枚外れています。それと、溝の水が前より少し高いです。どうしてかは分かりません」
「足跡は」とリナが聞いた。
「通路の泥に、新しい犬の足跡は見えません。ここから見える所までは、です」
俺は壁際の取っ手の前に立った。止水板を下ろす取っ手だ。ハンスさんが回すのを、俺は何度も見ている。握って、少しだけ動かしてみた。重いが、引っかかりはない。戻した。
奥の棚の上の段には、縄の束が残っていた。俺が置いた場所のままだった。
「取っ手は動きます。縄もあります」と俺は警備の人に言った。
自分の声が少し上ずっているのが分かった。取っ手から離した手を、一度握って開いた。
その時、通路の先で窓が開いた。小屋の西の、上の階の窓だ。ニコが顔を出して、こっちを見ていた。何か叫んでいるが、水の音で言葉までは届かない。ニコは両手を大きく振ってから、一度だけ下を指した。
「下を指しました」とアイリが言った。「何のことかは、まだ分かりません」
俺は手を振り返した。ニコにそれが見えたかどうかは分からない。窓はすぐに閉まった。
裏の戸を閉めて閂を掛け、俺たちは救護所へ戻った。
戻る道で、リナが歩きながら言った。
「あの通路は狭いから、犬は前か後ろから来ることが多いと思う。柵があれば、横から入るのに手間取る。でも柵の板が外れた所は、すぐ入ってこられる」
「そこを通る時は」
「あたしがそっちに盾を向ける。兄さんは担架から手を離さないで」
*
救護所では、ガルドさんの前に担当の人が来ていた。
「足首を痛めたなら、歩かせない。板を二枚当てて布で巻く。痛がり方と顔色と、話せるかどうかを見て、運ぶのはそれからだよ」
見てきたことを、俺たちは一人ずつ言った。リナは犬と足場のこと。アイリは前と違う二つと、足跡のこと。俺は取っ手と縄のこと。ニコが下を指したことは、アイリが「意味はまだ分からない」と付けて言った。
ガルドさんは村の地図の上で、三か所を順に指した。
「正面の橋は上の隊に知らせてある。戻るまで渡れない。いつ戻るかは分からん。小屋の上で待たせるのが一番安全に近い。ただ、怪我人の具合と、下の戸がどこまで持つかが分からん。裏の通路は物も道具もそろっている。水が下がって、足場と裏口を確かめられれば通れる。前に通れたというだけじゃ足りん」
指が裏の通路の上で止まった。
「倉庫までは警備を二人付ける。倉庫の表と裏で見張らせる。担架を受け取るのも警備だ。水を止めたら、まず溝まで見に出ろ。リナを付けて、倉庫の戸口から見える所までだ。足場がだめなら、そこで戻れ。溝を越えて小屋へ向かうのは、それからだ」
俺は地図の上の、北の橋の印を見ていた。橋に迎えを、と言ったのは俺だった。
「順番を決めたのは俺だ」とガルドさんが言った。俺の顔は見ず、指は地図に置いたままだった。「迎えがいたから、三人は知らせを聞いて出られた。東が早かったのは、東に一人しか置かなかった俺の読みだ。だから今は、次のことを考えろ」
俺は顔を上げた。ニコには、また来ると言ってある。
ガルドさんは俺たち四人を見回した。
「通路を知っていて、担架の講習を受けたのはお前たちだ。一から説明し直している間はない。だから頼む。上の隊が先に来たら、そっちに任せて戻れ」
「はい」
「進むか止まるかはセレスが決める。セレスが止まれと言ったら止まれ」
「止まります」とリナが言った。「それと、柵越しに二頭までなら、あたしが盾で間合いを取れる。でも二方向から来そうになったり、三頭に囲まれそうになったりしたら、その前に止まれって言う。見えてる数が全部だとは思わないで」
「それでいい」
アイリも言った。
「私は歩きながら、全部は見られません。溝を渡る時は足もとだけを見ます。その間、犬はリナさんに任せます」
「任された」とリナが言った。
誰が何を持つかは、その場で決めた。行きは空の担架を俺が運ぶ。帰りは俺とハンスさんで担ぎ、ニコとアイリが横で支える。リナは先に立って犬を見る。セレスさんは後ろから全体を見て、必要なら風を一度だけ使う。
「俺の滑り止めは、今日はまだ一度も使っていません」と俺は言った。「使うとしたら、担架の帯の留め具です。多くて二回。一回は残しておきます。効かなかった時は、ニコのやり方で縄を巻きます」
ガルドさんは短くうなずいた。
担当の人が担架を一台と、板二枚と布を俺に押しつけた。
「巻き方は講習でやったね。きつすぎたら指の色が変わるから、それも見な。帯は胸と膝の二か所。留め具をちゃんと噛ませるんだよ」
救護所を出る時、毛布にくるまった小さな男の子が俺の袖をつかんだ。エダさんが表に、犬が怖いと書き足させた家の子だった。
「ニコ兄ちゃん、来る?」
来る、とは言えなかった。誰にも約束できることではない。
「迎えに行ってくる」
男の子は袖を離した。俺は担架を抱え直した。
剣は背中へ回した。担架を持っている間は、抜く手は空かない。抜くなら、担架を下ろしてからだ。講習で教わった順番を、頭の中でもう一度なぞった。
*
警備の二人は倉庫の表と裏に分かれて立った。裏の戸の内側で、俺と警備の一人が取っ手を回した。
重い。二人で体重をかけると、通路の先の方で板が下りる音がした。水車はもう止まっているから、止まる音はしない。
「水が下がるまで、ここで待ちます」とセレスさんが言った。「下がったら、リナさんとアイリさんに溝を見てきてもらいます。行くかどうかは、その話を聞いてから決めます」
裏の戸口に立った警備の人は首から笛を下げていた。開けた戸の隙間から、通路の半分ほどの所に溝が見える。その先に小屋の西の壁がある。溝を流れる水の音が少しずつ低くなっていった。
待つ間に、俺は担架の帯の留め具を一つずつ引いて確かめた。親指ほどの鉄の輪で、水車小屋の滑車の留め具と同じ形だった。朝の湿り気で、どれも少し冷たく濡れていた。縄の束をほどいて、ニコのやり方を思い出しながら、端を二回巻けるだけの長さに切った。手を動かしていると少しだけ落ち着いた。
指先を見た。こめかみは重くない。昨夜は四人とも早く寝た。
アイリは棚の脇から細い棒を一本取って、布切れを結んでいた。
「前に水を止めた日、溝の水はくるぶしの少し上まで下がりました。その高さです。溝でこれを立てて、布の下まで下がっていれば、足場を確かめられます」
それからアイリは戸口の脇に立ち、溝のほうを見ていた。ときどきこちらの手元にも目を戻した。水を見るのは自分の持ち場だと、もう決めているらしかった。
リナは戸の反対側の隙間から、通路の先と茂みを見ていた。
「茂みの手前に一頭。さっきはいなかった。小屋の北の角に一頭。ほかは見えない。見えないだけ」
少し間を置いて、リナは付け足した。
「頭を低くしてる。こっちを見てるわけじゃない。鼻を地面に付けて、何か探してる」
リナの声は低くて平らだった。訓練場で俺の構えを見ていた時と同じ声だった。
水の音が低くなっていた。今なら届くかもしれない。俺は戸口から、小屋の上の窓に向かって声を張った。
「ニコ! 聞こえるか!」
少しして、窓からニコが顔を出した。
「聞こえる!」
「裏口から迎えに行く。閂、外せるか!」
「外せる! でも下に粉袋があって、戸が半分しか開かない!」
さっき下を指したのはそれだったらしい。半分では、担架は通らないかもしれない。
「着くまで戸は閉めておけ! 粉袋をどけて、開く幅を作っておいてくれ! 着いたら俺たちが見る!」
「分かった!」
「エダさんは!」
「座ってる! 話してる! 足が痛いって!」
「戸は着くまで閉める。粉袋をどける。エダさんは座っていて、話せて、足が痛い」とアイリが小さく繰り返した。俺がもう一度窓に向かってそれを言うとニコが大きくうなずいた。声は届いている。
「親方は!」
「戸のとこにいる! 粉袋どけてる!」
窓が閉まった。今ごろハンスさんが粉袋を一つずつ戸の前からどけているのだろう。袋を担いだまま顎で俺に指図していた人が、今は一人で袋を引きずっている。
日が倉庫の屋根の端にかかっていた。戸口から見える溝の水は、まだ速く流れていた。待つ間がこんなに長いとは思わなかった。倉庫で荷の着くのを待つのとは違う。俺は留め具の輪を一つ、指で回した。全部済んだら、とニコは言っていた。下の段の留め具が、まだ一個残っている。
セレスさんは指先に粉を少しつまんで、宙に落とした。粉は東へ流れていった。
「風は西からです。使うなら、犬を向こうへ押せます。一度だけですが」
アイリが溝から目を移して、俺の手元を見た。
「マスター。さっきから、同じ留め具を三回引いています」
「……数えてたのか」
「はい。その輪は大丈夫です」
俺は輪から手を離した。
セレスさんが溝と倉庫の戸口を見比べた。
「もし途中で進めなくなったら、戸と道が使えるほうへ入ります。倉庫か、小屋の上の階か。小屋へ入れなければ倉庫へ戻ります。どちらにも行けない時は、私が止まれと言います。柵か壁に背を付けて固まって、警備の人に声と笛でガルドさんへつないでもらい、援護を待ちます。両側から来そうな気配がしたら、その前に進むのをやめます」
全員がうなずいた。それ以上は誰も言わなかった。
*
溝の流れが目に見えて細くなった。
「下がったと思います」とアイリが言った。「ここからでは、高さまでは分かりません」
「見てきてください」とセレスさんが言った。「リナさん、お願いします。犬が動いたら、すぐ戻ってください」
リナが先に戸を出て、盾を茂みのほうへ向けた。アイリが棒を持って後ろに続いた。俺は戸口で空の担架を抱えたまま、二人の背中を見ていた。
溝の岸で、アイリが棒を水に立てた。布切れは水の上に出ていた。アイリは片足を溝に入れて泥の底を探った。リナはアイリのほうを見ずに、茂みと北の角へ盾を向けていた。
二人はすぐに戻ってきた。
「水は布の下です」とアイリが言った。「段差は前と同じ所にあります。泥は滑りますが、踏めました。担架を持って渡れるかは、渡りながら一歩ずつ確かめるしかありません」
「茂みの一頭は少し奥へ下がった。北の角のは動いてない」とリナが言った。
セレスさんが溝と通路の先を見て、それから俺たちを見た。
「行きます。行きは空の担架で、段差と持ち手の幅を確かめます。帰りにエダさんを載せて渡れないと思ったら、エダさんは動かさずに小屋の上で援護を待ちます」
アイリが縄の束を肩にかけた。泥で汚れた靴の上に、濡れた細い足首が見えた。
転べば、エダさんと同じことになる。アイリの身体も、俺と同じように痛む。
「アイリ、お前は倉庫で——」
言いかけて、自分でも何を言っているのか分かった。
「行きます」
アイリは振り返らずに言った。
「マスターに言われたからではありません。私も行くと決めました。溝の深さと裏口の幅を覚えているのは私です。エダさんの顔も、ニコさんの声も知っています」
俺は口を閉じた。アイリは前を見ていた。
「……分かった。足もとを頼む」
「はい」
リナが盾の革紐を締め直して、少しだけ笑った。
「決まり。行くよ」
セレスさんが戸口の警備の人に手を上げた。警備の人も手を上げ返した。心臓の音が、自分の耳にまで聞こえていた。
リナが先に戸を出た。アイリがその後ろに続いた。自分の足で、迷いのない歩き方だった。俺は担架を肩の高さに上げてアイリの背中を追い、セレスさんが最後に続いた。
溝に入ると、水はくるぶしの少し上だった。泥の底の段差を片足ずつ探って渡る。冷たい。アイリは前を行くリナの足の置き場所だけを見て、同じ所に足を置いていた。
「冷たいです」とアイリが小さく言った。それきり、足もとから目を上げなかった。
段差の所で俺は空の担架を持ち手の高さのまま段の上へ渡してみた。前の端が段の上、後ろの端が段の下になる。前と後ろの持ち手の高さが、ここで一番ずれる。帰りはここで一度止まって声を掛ける、と覚えた。
柵の板が外れた所で、リナが盾をそちらへ向けた。茂みは揺れなかった。誰も何も言わずに、そこを過ぎた。
通路の先に、小屋の西の裏口が見えた。前に箱を縦にして通した、あの狭い戸だ。
リナが戸の脇で止まり、茂みのほうへ盾を向けた。アイリが戸の前に立った。
俺は拳で戸を叩いた。
「ニコ。悠真だ」
中で、閂が動く音がした。
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