落ちこぼれ死神の憂鬱(ゆううつ)な転身㈠
千年の地獄を耐え抜いた魂が、神々に抗い『陽だまり』の日常を守る!
その場所には、光も風も、時の流れさえも存在しないかのように思えた。ただ、どこまでも続く無機質な回廊と、個性を剥奪された訓練生たちが、規則的な足音を響かせるだけの空間。そこが、冥府の秩序を維持する番人、死神を育成するための機関――通称「黒き学び舎」。かつては死神養成校と呼ばれていた場所である。
その最上階にある統括官室で、ヤミは苛立ちを隠そうともせずに、壁に映し出された地上の映像を消し去った。
「……物理的な干渉は、得策ではないか」
先日の「事故偽装作戦」の失敗は、彼にとって屈辱以外の何物でもなかった。たかが七歳の子供、しかも覚醒前だと思っていた奪衣婆の魂に、エリート死神三体が退けられたのだ。ヤミの脳裏に、千年前の自分が「黒き学び舎」で受けた屈辱的な訓練の日々が蘇る。身体的苦痛、精神的苦痛、そして仲間を蹴落とさなければ生き残れないという、実存的な苦悩。彼はそれら全てを耐え抜き、感情を殺し、ただ効率的に標的を排除する殺人機械としてのスキルを磨き上げてきた。彼にとって「失敗」とは、死に値する罪だ。
「前回の失敗は、我々の干渉が直接的すぎたことにある。奪衣婆の魂は、守るべき対象への物理的な危機に過剰反応するようだ」
ヤミは、虚空に新たな作戦図を描き出した。そこに映っているのは、カイとソラの両親、そして彼らが通う小学校の友人や教師たちの顔写真だ。
「魂を狩るのに、必ずしも刃が必要なわけではない。我らが学び舎で叩き込まれたことを思い出せ。最も効果的に魂を蝕むのは、なんだ?」
控えていた部下の一人が、恐る恐る答える。
「……孤立、でありますか」
「その通りだ」
ヤミの口元に、酷薄な笑みが浮かんだ。
「人間とは、社会的な生き物だ。他者との繋がりを絶たれれば、脆くも崩れ去る。あの双子の周囲の人間たちの心を操れ。両親には不信と苛立ちを、友人たちには嫉妬と悪意を植え付けろ。我々の姿を見せるな。ただ、じわじわと奴らの環境を地獄に変え、社会的に抹殺するのだ」
それは、物理的な攻撃よりも遥かに陰湿で、そして残忍な作戦だった。守るべきものがなくなり、誰からも理解されなくなった時、魂は内側から崩壊する。そうなれば、あの強靭なカイの魂も、抵抗する気力さえ失うだろう。ヤミは、自らが経験してきた孤独という猛毒を、今度は地上の子供たちに注ぎ込もうとしていた。
一方、冥府の最深部、閻魔庁。閻魔大王もまた、頭を抱えていた。浄玻璃の鏡には、ヤミたちが画策する陰湿な計画の全貌が映し出されている。
「……やり方が汚すぎる」
閻魔は、忌ま忌ましげに吐き捨てた。彼が危惧していたのは、ヤミ率いるエリート死神たちの暴走だった。彼らの行動は、もはや「冥府の秩序維持」という本来の大義名分を逸脱しつつある。ただ標的を嬲り、精神的に追い詰めることに愉悦を覚えるかのようなその様は、秩序の番人というよりは、悪趣味な狩人のそれだった。
「魂を狩るのに、心を殺す必要などない。奴らは、黒き学び舎で一体何を学んでいるのだ……いや、あれこそが学び舎の教えそのものか」
自らが統括するシステムの歪みを、大王は痛感していた。強さのみを求め、情や優しさを徹底的に排除した結果、生まれたのは、秩序を守るための「道具」ではなく、力の行使に酔いしれる「怪物」の群れだったのかもしれない。
このままでは、カイとソラは、本格的に覚醒する前に心を壊されてしまう。それは、冥府のシステムにとっても大きな損失であり、何より閻魔自身の良心が許さなかった。だが、大王自らが直接介入し、ヤミたちを罰すれば、独立権限を持つ死神組織との全面対決は避けられない。それは冥府全体を揺るがす大混乱を招きかねない。
「……もっと、静かに。そして奴らの意表を突くやり方で、あの子たちを守らねばならん」
大王は思案に暮れた。力で対抗すれば、ヤミたちはさらに過激になるだろう。必要なのは、戦力ではない。傷ついた子供たちの心に寄り添い、孤独を埋めることができる、絶対的な「味方」だ。だが、そんな人材が、この冷酷な冥府にいるだろうか? 効率と秩序を最優先する死神たちの中に、そんな「無駄」な機能を持つ者が……。
その時、ふと、ある男の顔が脳裏をよぎった。エリート街道から外れ、誰も見向きもしない場所で、埃を被って生きている、一人の変わり者。
「そうだ。あそこになら、適任者がいたはずだ。奴らエリートとは真逆の……『落ちこぼれ』がな」
閻魔大王の口元に、悪戯っ子のようなニヤリとした笑みが浮かんだ。
冥府の最下層、「遺失物管理倉庫」。そこは、死者たちが生前に遺した「未練」や「執着」が、物体となって流れ着く吹き溜まりだった。広大な倉庫には、王の冠から赤子の玩具、書きかけの手紙まで、ありとあらゆるガラクタが山積みになり、埃を被っている。その薄暗い倉庫の片隅で、一人の死神が黙々と棚の整理をしていた。名を、シジマという。
黒い死神の衣こそまとっているが、その体躯は他の死神たちに比べて一回り細く、背中も心なしか丸まっている。彼もまた、千年の過酷な訓練を経て「黒き学び舎」を卒業した正規の死神だった。だが、彼の評価は「Dランク」。最底辺だ。理由は単純。彼には、死神として最も不要な欠陥があったからだ。それは、「優しさ」。あるいは、「情」と呼ばれるバグ。
仲間を見殺しにする訓練で、彼はどうしても最後の一線を越えることができず、自らがペナルティを受けた。罪人の記憶を追体験させられれば、その罪を憎む以上に、その罪を生んだ悲しみに同調して涙してしまった。結果、彼は「実力はあるが、情に流されやすく、魂の回収業務には不適格」という烙印を押され、この閑職に追いやられたのだ。
だが、シジマ自身は、この場所を嫌ってはいなかった。彼は、棚から落ちそうになっていた古い懐中時計をそっと手に取った。その瞬間、時計に込められた持ち主の記憶が、温かい光となって彼の中に流れ込んでくる。
(……ああ、これは娘の結婚祝いに贈るはずだった時計か。渡せぬまま死んでしまったのか……無念だったろうな)
シジマは、時計を丁寧に磨き、元の場所に戻した。ここにあるのは、学び舎が否定し続けた「愛」や「想い」の欠片だ。シジマは、誰にも知られず、それらの想いに寄り添うことに、自分だけの静かな意義を見出していた。
「――シジマ! 死神番号九百八、シジマはおるか!」
突然、倉庫の入り口から野太い声が響き渡り、シジマは驚いて脚立から落ちそうになった。現れたのは、閻魔大王直属の赤鬼だった。
「げっ……」
シジマは露骨に嫌な顔をした。本庁の役人がここに来るなど、ろくな用事ではない。リストラ通告か、さらに劣悪な部署への左遷か。
「大王様が、貴様を御召しである! 直ちに閻魔庁へ参上せよ!」
「はぁ? 俺を?」
シジマは耳を疑った。冥府の王が、なぜゴミ係の自分なんぞを。だが、拒否権などない。彼は渋々、重い腰を上げた。
閻魔庁、玉座の間。千年ぶりに足を踏み入れたその場所の威圧感に、シジマは借りてきた猫のように縮こまっていた。玉座に座る閻魔大王は、値踏みするような鋭い目で、シジマを上から下まで眺めている。
「……久しいな、シジマよ。息災であったか」
「は、はい……。大王様におかれましても、御健勝のことと……」
「堅苦しい挨拶はよい。本題に入る」
大王は、単刀直入に切り出した。
「そなたに、地上へ行ってもらう。ある二人の子供の護衛だ」
シジマは、ぽかんと口を開けた。地上? 護衛?
「お、恐れながら、大王様。それは、ヤミ様が率いるエリート部隊の管轄では……?」
「そのエリート共が、度を超して遊んでおるのだ。だから、そなたに行くよう命じている」
「し、しかし! 私のような落ちこぼれに、あのヤミ様と渡り合えと仰るのですか!? 到底、無理な話でございます! 瞬殺されます!」
シジマは必死に抗議した。それに、地上は嫌だった。死の気配で満たされた冥府とは真逆の、生々しい生命力が渦巻くあの場所は、死神にとって息苦しく、不快極まりないのだ。
「だからこそ、そなたなのだ」
大王の瞳が、鋭い光を放った。
「奴らは強すぎる。強すぎるが故に、力で全てをねじ伏せることしか知らん。魂の機微も、守るべきものの脆さも理解できん。だが、シジマよ。そなたには、奴らが捨て去ったものが、まだ残っておるだろう」
大王は、玉座から身を乗り出した。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




