禁忌の時遡行と、涙に濡れた二度目の朝㈠
千年の地獄を耐え抜いた魂が、神々に抗い『陽だまり』の日常を守る!
世界は、死んだ。
それは、比喩でも誇張でもなく、物理的な事実だった。カイの暴走した「虚無」と、スサノオの「天逆鉾」が衝突した瞬間に生じた、巨大な対消滅エネルギー。それは、大学のキャンパスを、街を、そしてこの惑星そのものを、音もなく黒い静寂の中へと飲み込んでいった。悲鳴も、祈りも、後悔も、愛する者の名前を呼ぶ声さえも、すべてが等しく闇に溶け、無へと帰した。そこにはもう、光も、時間も、観測者さえも存在しない。ただ、冷たく、乾いた「無」だけが漂っていた。
だが。その絶対的な虚無の淵で、ただ一箇所だけ、凛とした光を放ち続ける場所があった。次元の狭間に存在する、宇宙の理を司る中枢。天界――高天原。
その最奥にある神殿「天岩戸」で、最高神・天照皇大神は、崩壊しゆく下界の惨状を、神鏡「八咫鏡」を通して見つめていた。鏡の中には、砂嵐のようなノイズと、漆黒の闇だけが映っている。それは、バッドエンドを迎えた宇宙の墓標だった。
「……終わって、しまいましたか」
背後に控える、月の神・月読命が、痛ましげに顔を伏せる。
「カイの魂は砕け、スサノオの悪意が勝利した。もはや、この因果に未来はありません。……我々もまた、この崩壊の余波に飲まれ、消えゆく運命か」
神々の黄昏。宇宙の管理者が敗北を認めた瞬間だった。
しかし、天照は静かに立ち上がった。その顔には、悲嘆の色はなかった。あるのは、創造主としての冷徹なまでの決意と、子を想う母のような慈愛。そして、かつて「天使養成校」で学んだ、「導く者」としての矜持。
「いいえ、月読。終わりではありません」
彼女は、純白の衣の袖を払い、鏡の前に立った。
「ここからが、始まりです」
「姉上、まさか……」
月読が息を飲む。その美しい顔が、恐怖に歪んだ。
「『時遡行』を行われるおつもりですか!? それは、宇宙の理を根底から覆す禁忌! 過ぎ去った時間を巻き戻すなど、神といえども許されることではありません! そんなことをすれば、因果律の反動で、姉上の神核が砕け散ってしまいます!」
「許しなど要りません。……それに、自分の命など、惜しくはありません」
天照の声は、鈴の音のように清らかで、しかし鋼のように強かった。
「私は見ました。あの最期の瞬間、カイが何を想ったのかを。彼は、自分の命が惜しかったわけではない。愛する者たち――ひかりを、ソラを、クロを守れなかった絶望故に、心を壊したのです」
天照は、胸元に手を当てた。そこには、彼女の命そのものである太陽の輝きが脈打っている。
「愛ゆえに壊れた魂を、愛によって救わずして、何が神ですか。……閻魔との約束もあります。あの子たちに、もう一度、未来を。……その代償が、私の身一つならば、安いものです」
「姉上……!」
月読は、天照の前に跪いた。止めることはできないと悟ったのだ。この方は、一度決めたら梃子でも動かない。その頑固さも含めて、敬愛する姉神だった。ならば、妹として、臣下として、その背中を支えるのみ。
「……御意。私も、全霊力をもってお支えいたします。月の光が、太陽の道標となりましょう。……共に、逝きましょう」
「ありがとう、月読」
天照は微笑み、八咫鏡に両手をかざした。
「我が名は天照。万物を照らす、始まりの光」
神殿が、激しく震え始めた。高天原に満ちる無尽蔵の霊気が、天照の身体を通して鏡へと収束していく。彼女の全身から、金色の血のような光の粒子が噴き出し始める。
「因果の糸よ、解けよ。悲しみの記憶をほどき、絶望の結び目を解き、全てを無垢なる白紙へと還せ!」
キィィィィィィィン!!
鼓膜を引き裂くような高周波の音と共に、八咫鏡から奔流のような光が放たれた。それは、物理的な光ではない。「時間」という概念そのものを逆流させる、神の最終権能。光は次元の壁を突き抜け、崩壊した地上世界へと降り注ぐ。
黒く塗りつぶされた世界に、光の楔が打ち込まれる。それは、壮絶な巻き戻しの光景だった。飛び散った瓦礫が、逆再生のビデオのように空へと戻り、組み合わさり、元の形を取り戻していく。燃え尽きた灰が、炎へと戻り、さらに燃える前の木材へと戻る。流れた血が、傷口へと吸い込まれ、裂けた皮膚が塞がり、傷そのものが消え去る。
死んだ者たちが、息を吹き返す。絶望の叫びが、喉の奥へと戻り、沈黙へと変わる。飲み込まれた街が、人々が、日常が、再構築されていく。
世界が、巻き戻っていく。スサノオが勝鬨を上げた瞬間へ。カイが絶望し、心を壊した瞬間へ。ひかりが闇に飲まれ、その命を散らした瞬間へ。そして、さらにその先へ。
「ぐっ……うぅっ……! あぁぁぁぁっ!」
天照の口から、苦悶の絶叫が漏れる。時を戻す負荷は、全て術者である彼女の魂に跳ね返ってくる。数千、数万の魂の「死の記憶」と「苦痛」。それが、逆流する時間の刃となって、彼女の体を内側から切り刻む。美しい肌に亀裂が走り、白い衣が鮮血で赤く染まる。神核にヒビが入る音が、ピキリ、ピキリと響く。
「姉上! もう十分です! これ以上は、御身が持ちません! 存在が消滅してしまいます!」
月読が悲痛な叫びを上げ、自らの霊力を注ぎ込んで支えるが、それでも崩壊は止まらない。
「まだ……です……!」
天照は、血の涙を流しながら笑った。
「あの子たちが……笑って、ご飯を食べられる……そんな朝まで……戻さなければ……意味が、ないのです……! こんな地獄の入り口ではなく、もっと前……彼らがまだ、希望を持っていた、あの『始まりの日』まで……!」
彼女は、最後の力を振り絞った。自らの存在を薪としてくべ、命の火を燃え上がらせる。
「戻れぇぇぇぇぇッ!!」
視界がホワイトアウトした。宇宙の因果律が悲鳴を上げ、強引にねじ曲げられる。その瞬間、世界は「確定したバッドエンド」という未来を破棄し、新たな分岐点へとジャンプした。
チチチ、チチチ……。小鳥のさえずりが聞こえる。どこか遠くで、車の走る音。誰かが布団を叩く音。柔らかい朝の日差しが、カーテンの隙間から差し込み、部屋の中の埃をキラキラと照らしている。
「……ッ、はぁっ!? うわぁぁぁぁっ!?」
カイは、弾かれたように上半身を起こした。心臓が、破裂しそうなほど早鐘を打っている。全身がびっしょりと冷や汗で濡れ、シーツが肌に張り付く。過呼吸気味に、ヒューヒューと喉が鳴る。彼は、自分の体を抱きしめ、激しく震えていた。
「ここは……どこだ……? 僕は……死んだのか……?」
荒い呼吸を繰り返しながら、彼は周囲を見渡した。見慣れた自分の部屋。机の上には、読みかけの参考書と、大学の講義ノート。壁にはカレンダー。静かだ。あまりにも、静かすぎる。あの、耳をつんざく爆発音も、人々の悲鳴も、スサノオの哄笑もない。
「……夢?」
カイは、自分の手を見つめた。震えている。あの感触が、残っている。指先をかすめて消えた、ひかりの手の感触。自分の力が暴走し、ソラを、クロを、世界を飲み込んでいった時の、肉が裂け魂が砕けるような、あの身の毛もよだつような絶望感。あれが、夢? いや、違う。夢にしては、あまりにも鮮明すぎる。魂の奥底に、焼きごてを当てられたような痛みが刻み込まれている。自分の内側にある「虚無」の力が、一度限界まで膨張し、そして枯渇したような、奇妙な喪失感があった。
カイは、ベッドから転がり落ちるようにして立ち上がり、リビングへと走った。足がもつれる。壁に肩をぶつける。それでも止まらない。確認しなければ。もし、あれが現実の続きなら。リビングには誰もいないはずだ。あるいは、黒焦げになった死体があるだけか。
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