落ちこぼれ死神の犬日和と、陽だまりの記憶㈡
千年の地獄を耐え抜いた魂が、神々に抗い『陽だまり』の日常を守る!
「シジマよ。そなたの『優しさ』が必要なのだ」
耳を疑った。優しさ? それが俺の最大の欠点であり、落ちこぼれの理由ではなかったのか? 大王は、玉座から身を乗り出し、俺の目をまっすぐに見つめた。
「地上の双子、カイとソラを守れ。だが、力で敵を排除するのではない。奴ら(エリート死神)の陰湿な攻撃から、子供たちの『心』を守ってやってほしいのだ。強さだけを求めた奴らには理解できぬ、人の心の機微を解するそなたになら、それができるはずだ」
そして、俺は地上へ送られた。この、黒い豆柴の姿に変えられて。最初は屈辱だった。プライドの高い死神が、人間のペットに成り下がるなど。四足歩行の不自由さ、嗅覚の鋭敏さに振り回される日々。だが、カイたちと共に過ごすうちに、俺は気づかされたのだ。大王が、なぜ俺を選んだのか。そして、俺が捨てきれなかった「弱さ」が、本当はどれほど尊いものだったのかを。
「クロ、ほら、おやつよ」
ソラが、ポケットから取り出した犬用ビスケットを、俺の鼻先に突きつける。甘い匂いが鼻腔をくすぐる。俺は、仕方ないなという態度を装いながらも、尻尾が勝手に左右に揺れてしまうのを止められない。本能というやつは恐ろしい。パクッ。ビスケットを口に運び、カリカリと音を立てて咀嚼する。香ばしい小麦の味と、ほんのりとした甘さ。唾液が溢れ、喉を通る時の満足感。冥府では、食事などという概念はなかった。ただ、活動に必要な霊気を摂取するだけ。味気ない、エネルギー補給。だが、ここでは違う。「美味しい」と感じること。「満たされる」と感じること。それが、生きるということなのだ。
カイたちとの関係は、一言では言い表せない。
姉のソラは、まるでやかましい妹のようだ。いつも俺の毛をぐしゃぐしゃに撫で回し、「クロは私が守る!」などと宣う。散歩のときは俺より先に走り出し、泥だらけになって遊ぶ。守られるのはお前の方だろうが、と心の中で悪態をつきながらも、その真っ直ぐな好意が、凍てついていた俺の心を少しずつ溶かしていくのを感じていた。彼女の「奪衣婆」としての力が覚醒していく過程で、その不安定な精神を支えるのが、俺の役目の一つでもあった。
ひかりは、俺の良き理解者だった。彼女には霊能力はない。だが、俺がただの犬ではないことの本質を、理屈ではなく感覚で理解しているようだった。俺が何を考えているのか、何を求めているのかを、言葉を交わさずとも察してくれる。時折、カイとの恋愛相談を俺に持ちかけてくるのは、正直、少しだけ面倒だが。
「ねえクロ、カイくんってば、また鈍感でさ……」
そんな愚痴を聞きながら、俺は「ワン(男なんてそんなもんだ)」と相槌を打つ。まあ、それも役得というやつだろう。
そして、カイ。彼は、俺にとって守るべき主であり、同時に、共に戦う戦友でもあった。彼の魂の深淵に触れるたびに、俺は千年の地獄というものの、想像を絶する重さを思い知らされる。あれほどの苦痛を経験しながら、なぜ彼はこれほどまでに優しくいられるのか。自分を犠牲にしてでも他人を守ろうとする、その危ういまでの献身。ひかりを愛し、ソラを気遣い、そして俺のような元死神にさえ、仲間としての全幅の信頼を寄せてくれる。彼を見ていると、俺が学び舎で守ろうとして否定された「仲間を想う心」が、決して間違いではなかったのだと、魂が肯定されるような気がするのだ。
昨夜。十八歳の誕生日の夜。カイが「言霊」の力を覚醒させた瞬間を、俺はすぐ傍で見ていた。世界の理を書き換える、神の如き力。一歩間違えば、世界を滅ぼす魔王にもなり得る力だ。だが、彼はその力を、破壊のためではなく、修復のために使った。傷ついた街を元に戻し、人々を守るために。ヤミに対してさえ、殺すのではなく「資格の剥奪」という形で決着をつけた。
その姿を見て、俺は確信した。この男は、地獄の王にも、破壊神にもならない。彼は、ただ、愛する者たちがいるこの世界を守りたいだけなのだ。そして、そのために俺の力が必要だというのなら、この不本意な犬の姿だろうが、巨大な狼だろうが、喜んで差し出そう、と。
最近、俺はよく夢を見る。それは、過去の回想ではなく、「もしも」の世界の光景だ。
もし、俺が学び舎で「弱さ」を克服し、冷徹なエリート死神になっていたら。ヤミのように、スサノオの駒となり、何の疑問も抱かずに、カイたちを狩る側に回っていたのだろうか。秩序という大義名分のもと、彼らの温かい日常を、その手で壊していたのだろうか。カイの首を刈り取り、ソラの絶望を糧にし、ひかりの涙を踏みにじる。そんな自分の姿を想像するだけで、魂が凍てつくような悪寒が走る。
そう考えると、俺は、閻魔大王様に感謝しなければならない。あの時、俺を落ちこぼれとして倉庫に追いやった人事も、理不尽極まりないこの豆柴への変身命令も、全ては、俺を救うための采配だったのかもしれない。大王様は、俺が死神として生きるには、優しすぎることを完全に見抜いていた。そして、死神としてではない、別の形で俺の力を生かす道を与えてくれた。それが、カイたちの護衛という、この任務だったのだ。
今なら、はっきりと分かる。俺は、死神になど、なりたくなかったのだ。俺は、もう冥府には戻りたくない。あの、感情のない、灰色の世界には。強さだけが全てを決め、弱者は切り捨てられる、あの冷たい摂理の中には。
俺は、ここにいたい。カイがいて、ソラがいて、ひかりがいる、この陽だまりの中に。時々、面倒な事件に巻き込まれるのは御免だが、それでも、ソラのやかましい声を聞き、ひかりの優しい手に撫でられ、カイの静かな信頼を感じながら、生きていきたい。たとえ、その姿が滑稽な豆柴のままだとしても。たとえ、言葉を話せず、ただ吠えることしかできないとしても。
「クロ、何考えてるの?」
いつの間にか、俺の隣にカイが座っていた。彼の手には、読みかけの文庫本がある。風がページをめくる音。カイの漆黒の瞳は、俺の魂の奥底まで見透かしているかのようだ。
「……別に。晩飯のドッグフードのことでも考えていたさ。今日は高い缶詰がいいな」
もちろん、それは声にはならない。俺はただ、カイの膝に顎を乗せ、「くぅん」と甘えたような声を出すことしかできない。カイは、何も言わずに、ただ静かに俺の背中を撫でてくれた。その手は、温かかった。千年の孤独を埋めてくれる、確かな熱。
落ちこぼれの死神、シジマとしての俺は、もうどこにもいない。俺はクロ。カイとソラとひかりの家族だ。そして、この温かい陽だまりを守るためなら、俺は喜んで、ただの一匹の忠実な番犬であり続けよう。たとえ、その先にどんな過酷な運命が待ち受けていようとも。
それが、俺が千年かけてようやく見つけ出した、俺だけの「生きる意味」なのだから。
空を見上げると、白い雲がゆっくりと流れていく。俺は、空に向かって、小さく「ワン!」と吠えた。それは、愛すべき家族たちに向けた、俺なりの決意表明だった。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




