甘き日常と深淵の取引㈡
千年の地獄を耐え抜いた魂が、神々に抗い『陽だまり』の日常を守る!
「第7倉庫へ、来いって」
「罠よ! 絶対に行っちゃダメ!」
ソラが叫ぶ。
「分かってる。でも……行かなきゃ、ひかりが殺される」
カイは立ち上がった。その瞳からは、迷いが消えていた。千年の地獄でさえ失われなかった何かが、今、彼の内側で崩れ落ちようとしていた。それは「理性」という名の安全装置。
「……行く」
「だったら、私も行く! クロも!」
「ダメだ!」
カイは、珍しく声を荒らげた。
「これは僕を狙った罠だ。君たちを巻き込むわけにはいかない」
「何言ってるの! 私たちは仲間でしょ! ひかりは私の親友なのよ!」
ソラの目から涙が溢れる。
カイは、ハッとしてソラを見た。そうだ。ひかりは、僕だけのものじゃない。ソラにとっても、クロにとっても、かけがえのない家族だ。一人で抱え込もうとすることこそ、ヤミの思う壺だ。
「……ごめん、ソラ」
カイは、震える手でソラの肩を抱いた。
「一緒に行こう。でも、正面からは行かない。僕が正面から入って注意を引きつける。その間に、ソラとクロは裏から回って、ひかりを確保してくれ」
「……うん。わかった」
ソラが涙を拭い、力強く頷く。クロも、「ワン! (任せろ)」と吠えた。
湾岸地区、第7倉庫。潮の匂いと、錆びた鉄の匂いが混じり合うその場所に、カイは一人で立っていた。巨大なシャッターの前に立つと、監視カメラがこちらを向いているのが分かった。ギギギギ……。重い音を立てて、シャッターが上がり始める。
倉庫の中は、広大だった。天井から吊された裸電球が、薄暗い空間を照らしている。その中央。椅子に縛り付けられ、猿轡をされたひかりの姿があった。彼女の周りを取り囲むように、数人の男たちが立っている。その中心にいるのは、仕立ての良いスーツを着た男、神崎だ。そして、彼らの背後の闇には、おぞましい気配が蠢いている。死神たちだ。彼らは姿を見せず、霊的な圧力だけで空間を支配している。
「よく来たな、カイ・タカハシ」
神崎が、優雅に一礼した。その目は笑っていない。
「君も、優秀な商品になりそうだ。その魂、高く売れるだろうな」
「ひかりを、放せ」
カイの声は低く、地獄の底から響くようだった。
「焦るなよ。取り引きをしようじゃないか」
神崎は、ひかりの髪を無造作に掴んだ。ひかりが苦痛に顔を歪める。
「君が大人しく我々の『商品』になるという契約書にサインすれば、このお嬢さんは解放してやる。簡単なことだ」
その時。ひかりの背後にいた影の一つが、にゅりと伸びた。それは、「辱め」を司る地獄の番人、ハジの眷属だった。ハジの力が発動する。ひかりの脳裏に、彼女が最も恐れていた光景――カイに見捨てられ、異国の地で弄ばれ、ボロ雑巾のように捨てられる自分の未来が、鮮明な幻覚となって映し出される。
「んぐっ……!! いや……いやぁぁぁっ!」
猿轡越しに、ひかりの絶叫が漏れる。彼女の瞳から、理性の光が消えかけていく。
「やめろぉぉぉぉぉっ!!」
カイの怒りが、臨界点を超えた。
ブォン!!
カイの体から、黒い波動が爆発的に広がった。それは物理的な衝撃波ではない。全てを無に帰す「空虚」のオーラ。ハジの幻術が、カイの波動に触れた瞬間、霧散した。幻覚を見せていた霊的な回路そのものが、「無かったこと」にされたのだ。構成員たちが、訳もわからずよろめく。
「な、なんだ……今の気配は!?」
神崎が狼狽する。
「……ほう。これが、噂の『虚無』か」
倉庫の天井近くの梁の上から、ヤミの声が降ってきた。黒い翼を広げたヤミが、ゆっくりと舞い降りてくる。
「面白い。だが、その力、感情に任せて振り回すだけでは、宝の持ち腐れだ」
ヤミは、指をパチンと鳴らした。神崎がハッとして、懐からナイフを取り出し、ひかりの喉元に突きつけた。
「動くな! 動けば、この女の喉を掻き切るぞ!」
カイの動きが、凍りついた。空虚の力は、対象の「意味」を消し去ることができる。だが、物理的なナイフが喉を切り裂くその一瞬の速さを、止めることはできない。ひかりを失うかもしれない。その恐怖が、カイの心を縛り付ける。
(どうすれば……!)
その時だった。
「……カイくん!」
猿轡がずれ、ひかりの声が響いた。彼女は、涙で濡れた顔を上げ、カイを真っ直ぐに見つめていた。そこには、恐怖の色はなかった。あるのは、カイへの絶対的な信頼。
「私を、信じて……! カイくんなら、できる!」
その瞳が、カイの魂に光を灯した。そうだ。僕は、何を恐れている? ひかりを失うこと? 違う。自分の力が及ばず、彼女を守れないかもしれないという、僕自身の「無力さ」を恐れているんだ。でも、彼女は信じてくれている。僕の力を。僕という存在を。なら、応えなきゃいけない。
カイは、深く息を吸い込んだ。暴走しかけていた「空虚」の力を、意志の力で鎮め、凝縮させる。嵐のような破壊の力ではなく、全てを包み込む、静寂な湖面のような「無」へ。
カイは、ゆっくりと目を開けた。その瞳は、神崎でも、ヤミでもなく、ただひかりだけを見つめていた。
「……大丈夫だよ、ひかり。もう、怖くない」
その言葉と共に、カイから放たれた波動が、倉庫全体を満たした。それは、空間を支配する「静寂」だった。
神崎が感じていた、他者を支配する優越感。構成員たちが感じていた、金への欲望。それらの感情が、音もなく吸い取られ、色あせていく。彼らは、なぜ自分がナイフを握っているのか、なぜこの少女を捕らえているのか、その「動機」を見失い、呆然と立ち尽くした。ナイフを持つ手が、力なく下がる。
「な……馬鹿な。精神干渉ではない……因果そのものを断ち切ったというのか……!?」
ヤミが驚愕に目を見開く。
その隙に。ガシャーン! 裏口の窓が割れ、ソラとクロが飛び込んできた。
「ひかり!」
ソラの念動力が、神崎を吹き飛ばす。クロが疾風のように駆け抜け、ひかりを拘束していたロープを食いちぎった。
自由になったひかりを、カイが抱きとめる。
「……遅くなって、ごめん」
「ううん……来てくれて、ありがとう」
二人は強く抱きしめ合った。
遠くから、パトカーのサイレンが近づいてくる。ソラが警察に通報していたのだ。
「……チッ。今日はここまでか」
ヤミは、忌ま忌ましげに舌打ちをすると、部下の死神たちと共に闇の中へ姿を消した。神崎と構成員たちは、魂が抜けたような状態で、駆けつけた警官隊に確保された。
事件は解決し、人身売買組織は壊滅した。だが、カイたちの戦いは、より深く、より厳しい局面へと進んでいた。彼らの日常は、もう二度と、元には戻らない。それでも、隣に愛する人がいる限り、彼らは戦い続けるだろう。カイの瞳の奥で、静かなる空虚の力が、完全なる覚醒の時を待っていた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




