甘き日常と深淵の取引㈠
千年の地獄を耐え抜いた魂が、神々に抗い『陽だまり』の日常を守る!
高校三年生の春。世界は、「受験」という二文字を中心に回っていた。
放課後の学習塾「進受ゼミナール」。蛍光灯の白い光が満ちる自習室で、シャープペンシルが紙を走る音だけが、さざ波のように響いている。カイとソラ、そしてひかりの三人もまた、その静寂の一部となっていた。志望校はそれぞれ違ったが、学校が終わるとここに集まり、閉館時間ぎりぎりまで机に向かうのが日課となっていた。
「……あの、カイくん。ここの微分のところ、ちょっと教えてくれないかな……」
隣の席から、ひかりが小声で囁く。カイが顔を上げると、少し上気した頬のひかりが、申し訳なさそうにノートを差し出していた。
「ああ、いいよ。……ここは、この公式を使って変形させると……」
カイが身を乗り出して解説を始めると、ひかりの髪から、ふわりとシャンプーの甘い香りが漂ってきた。その瞬間、カイの心臓がトクンと跳ねる。千年の地獄の記憶、あの焼け付くような痛みさえも霞むほどの、むず痒く、そして温かい感覚。解説をしながら、カイは視線の端でひかりの横顔を盗み見る。彼女もまた、数式を見ているようでいて、その視線はどこか熱っぽくカイの手元や口元を追っているようだった。
お互いの気持ちには、とっくに気づいている。幼なじみという関係性が、心地よくもあり、同時に分厚い壁ともなっていた。「好きだ」というたった三文字が、喉元まで出かかっては消える。そのもどかしさこそが、死神との戦いに明け暮れる彼らにとっての、かけがえのない「平和」の象徴でもあった。
そんな二人を、少し離れた席から生温かい目で見守る者がいた。ソラと、その足元で丸くなっているクロだ。
「まったく、じれったいわねえ。見てるこっちが恥ずかしくなるわ」
ソラが呆れたように溜め息をつく。
(……まあ、悪くはない光景だがな)
クロ(シジマ)もまた、心の中で同意しつつ、欠伸を噛み殺した。去年の学校占拠事件以来、ヤミたちからの干渉は途絶えている。このまま平穏に卒業を迎えられれば、それに越したことはない。だが、死神としての彼の勘が告げている。この静けさは、腐敗が進む時の、あの湿った静寂に似ていると。
不協和音は、夏休みを前にした頃から響き始めた。塾の中で、奇妙な噂が広まりだしたのだ。
「ねえ、聞いた? Cクラスの佐藤くん、急に成績が上がって、Aクラスに移ったんだって」
「なんでも、新しいカウンセラーの先生と面談してから、別人のようになったらしいよ」
「『神崎』先生だっけ? 彼に見てもらうと、帝都学院大学への推薦が確実になるって噂……」
帝都学院大学。誰もが憧れる、国内屈指の難関私立大学だ。成績が伸び悩んでいた生徒たちが、数回の「特別進路指導」を受けただけで、次々とその推薦枠を勝ち取っているという。最初は、単なる優秀な講師の噂かと思われた。だが、ソラの「千里眼」は、そのカウンセリングルームから漏れ出る、異質な気配を見逃さなかった。
「……あの部屋、おかしい。中が見えない。真っ黒な靄がかかってて……それに、部屋から出てくる生徒たちの『色』が、変なの」
ソラが眉をひそめる。元気だった生徒たちが、面談後は一様に顔色が悪く、しかし目は異様にギラギラと輝き、何かに取り憑かれたように勉強に没頭し始めるのだ。まるで、魂の一部を削り取られ、代わりに別の何かを埋め込まれたかのように。
時を同じくして、世間では不可解なニュースが流れていた。優秀な若者たちが、留学や海外研修を名目に渡航した後、現地で消息を絶つという事件が相次いでいるという。
『警察は、海外に拠点を置く大規模な人身売買組織の関与を視野に……』
テレビのニュースキャスターが深刻な顔で伝えている。
二つの、一見無関係に見える出来事。だが、ひかりの鋭い直感は、その背後に隠された「糸」を感じ取っていた。「調べてみる」彼女は眼鏡の位置を直し、愛用のノートパソコンを開いた。
数日後。塾の帰り道、人気の少ない公園で、ひかりは調査結果を報告した。彼女のタブレットには、複雑な相関図が表示されている。
「……やっぱり、繋がってたわ」
ひかりの声は、怒りに震えていた。
「成績が急上昇した生徒たち、全員の家庭に共通点があるの。父親の会社の経営不振、親族の不祥事、多額の借金……。何かしら、公にできない『弱み』を抱えている」
「弱みを握って、脅迫してるってこと?」
ソラが息を飲む。
「それだけじゃない。もっと悪質よ」
ひかりは画面をスクロールさせた。
「カウンセラーの神崎は、帝都学院大学の理事と裏で繋がってる。彼は親たちに持ちかけるの。『お子さんを確実に合格させます。借金も肩代わりしましょう。その代わり……』って」
「その代わり?」
カイが促す。
「大学入学前に、提携している海外のNGO団体へ『特別研修』に行かせること。その同意書にサインさせているの。でも、そのNGOの実態は……人身売買シンジケートのフロント企業よ」
空気が凍りついた。親の欲と弱みに付け込み、子供の将来という餌をぶら下げて、実の子供を「商品」として差し出させる。子供たちは、自分が合格したと信じて海外へ飛び立ち、そのまま二度と帰ってこない。親たちは、借金が消え、子供が「海外で活躍している」という虚栄心だけを満たされ、真実から目を逸らし続ける。
「なんて……ことだ」
カイは拳を握りしめた。これは、単なる犯罪ではない。人の心の最も醜い部分を利用した、魂の冒涜だ。
(……奴らの狙いは、より質の高い『絶望』だ)
クロが、重々しく心話を送ってきた。ヤミの狙いが見えた。受験という希望に満ちた若者を、その親の手で地獄に突き落とさせる。希望が大きければ大きいほど、それが裏切られ、絶望に変わった時のエネルギーは凄まじい。ヤミは、地上に新たな地獄を作り出し、その負のエネルギーを回収しようとしているのだ。
その時、カイの脳裏に閃光のようなビジョンが走った。暗く、湿ったコンテナの中。鎖に繋がれ、虚ろな目をした若者たち。その中には、塾で顔を合わせたことのある生徒たちの姿もあった。
「……許さない」
カイの瞳に、静かな怒りの炎が灯る。
「奴らは、今もこの街のどこかにいる。僕たちで、止めるんだ」
だが、敵は彼らの動きを察知していた。ひかりの調査は、核心に近づきすぎていたのだ。
その日の夜。塾からの帰り道、ひかりは一人で歩いていた。カイとソラは、別の用事で少し遅れていた。街灯の少ない路地裏。背後に気配を感じて振り返った瞬間、黒いワゴン車が猛スピードで横付けされた。スライドドアが開き、屈強な男たちが飛び出してくる。
「きゃっ!?」
抵抗する間もなく、口を塞がれ、車の中へと引きずり込まれる。薄れゆく意識の中で、ひかりが見たのは、助手席に座る男――カウンセラーの神崎が、冷酷な笑みを浮かべてこちらを見ている姿だった。
カイのスマートフォンが鳴ったのは、それから数十分後のことだった。非通知設定。嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
「……もしもし」
『……相沢ひかりは、預かった』
機械で加工された、不気味な男の声だった。
『助けたければ、一人で来い。場所は、湾岸地区の第7倉庫。警察に知らせたら、この女の命はないと思え』
プツリ、と通話が切れる。
カイの全身から、急速に血の気が引いていくのが分かった。手が震える。視界が暗くなる。ひかりが。僕のせいで。また、守れなかった。
「カイ! どうしたの!?」
ソラが駆け寄ってくる。クロも心配そうにカイの顔を見上げている。
「……ひかりが、連れ去られた」
カイは、絞り出すように言った。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




