神隠しの噂と砕かれた日常㈠
千年の地獄を耐え抜いた魂が、神々に抗い『陽だまり』の日常を守る!
犬の嗅覚というのは、実に厄介なものである。路地の奥から漂う焼き魚の香ばしい匂い、湿った土が告げる雨の予感、そして――人間たちの心から滲み出る、微かな悪意の腐臭。それら全てが、情報の奔流となって鼻腔を刺激するのだから、安眠などできたものではない。
黒い豆柴、クロこと元死神シジマは、縁側の日向で大きなあくびをした。あの雨の日、カイとソラに拾われてから、早三年が過ぎようとしている。双子は小学四年生、十歳になっていた。この三年間、ヤミたちエリート死神部隊からの直接的な干渉は、ぱたりと止んでいた。だが、シジマは知っている。嵐の前には、必ず不気味な凪があることを。そして、その静寂の中でこそ、腐敗は静かに、しかし確実に進行していくのだということを。
「クロ、行くよ!」
玄関から、元気な声が響く。ソラだ。ランドセルを背負い、黄色い帽子を被っている。
「もう、ソラ。クロがびっくりしてるじゃないか」
続いて、カイが靴紐を結びながら現れる。その背中は三年前より少し広くなり、瞳の深淵さは増しているが、家族に向ける眼差しは年相応の少年のように柔らかい。シジマは「やれやれ」といった風情で身震いをし、のそりと立ち上がった。彼の任務は、この双子の護衛。学校への登下校に付き添うのも、忠実な(ふりをした)番犬としての重要な日課だった。
二人と一匹が家を出ると、数軒隣の家の扉が開き、一人の少女が飛び出してきた。
「あ、カイくん! ソラちゃん! クロ!」
相沢ひかり。双子の幼なじみであり、この町で唯一、彼らの魂の「異質さ」を無意識に受け入れ、対等に接してくれる稀有な存在だ。少し気弱でおとなしい性格だが、芯は強く、いつも太陽のように突っ走るソラと、月のように静観するカイの間を取り持つ、バランサーのような役割を果たしていた。
「おはよう、ひかり」
「おはよー! 今日の給食、揚げパンだって!」
「わん(平和だな)」
四人は並んで通学路を歩く。どこにでもある、ありふれた朝の光景。だが、シジマの鼻は捉えていた。すれ違う近所の主婦たちの、ひそひそ話に含まれる棘。登校中の他の児童たちが、双子に向けた瞬間に逸らす、恐怖と忌避の混じった視線。空気中に、微粒子のような「拒絶」が蔓延し始めている。
(……始まったか)
シジマは、短く鼻を鳴らした。死神たちの攻撃は、物理的な破壊から、精神的な包囲へとフェーズを移行させていたのだ。
教室の空気は、澱んでいた。物理的な汚れではない。子供たちの間に流れる、粘つくような集団心理の歪みだ。
カイとソラは、教室の後ろの席で、静かに教科書を広げていた。かつてはクラスの中心で笑っていたソラも、今は口数を減らしている。きっかけは、些細なことだった。掃除の時間に花瓶が割れた。誰も触れていないのに、ソラの近くで。給食の配膳中、スープがこぼれた。カイが通った直後に、まるで誰かが足をかけたかのように。不可解な現象が続くにつれ、クラスメイトたちの目は、疑惑から恐怖へ、そして明確な排斥へと変わっていった。
「……ねえ、知ってる? あいつらと関わると、呪われるんだって」
「目が合うだけで、不幸になるらしいよ」
「気味悪いよね。二人だけで、なんかコソコソ話してるし」
わざと聞こえるような声量での陰口。教科書への落書き。靴箱に入れられたゴミ。教師に相談しても、「君たちにも原因があるんじゃないのか? もっと協調性を持ちなさい」と、厄介者扱いされるだけだった。死神たちの干渉は、人々の心の隙間に入り込み、元々あった小さな嫉妬や不満を、どす黒い悪意へと増幅させていた。
休み時間。カイとソラは、校庭の隅にある大きな銀杏の木の下にいた。ここだけが、針の筵のような教室から逃れられる、唯一の安息地だった。
「……悔しいな」
ソラが、膝を抱えて呟く。その目元は赤くなっている。
「私たちが何をしたっていうの? 普通にしてるだけなのに……なんで、みんな変わっちゃうの?」
彼女の魂は、かつて「奪衣婆」として、何億もの罪人の嘘と欺瞞を見抜いてきた。だからこそ、今のクラスメイトたちが向ける、理不尽な悪意の正体が「操られていること」だと分かってしまう。分かってしまうからこそ、憎むこともできず、ただ悲しい。
カイは、黙って姉の肩に手を置いた。彼の手は温かかった。
「僕たちのせいじゃない。……奴らの仕業だ」
カイの瞳が、校舎の屋上付近を見据える。そこには、一般人には見えない黒い靄がかかっていた。
「奴らは、僕たちを孤立させようとしている。心が折れるのを待っているんだ」
「そんなの……卑怯だよ」
「ああ。でも、負けちゃだめだ。僕たちが心を閉ざしたら、それこそ奴らの思う壺だ」
カイの言葉は力強かったが、その横顔には、十歳の少年が背負うにはあまりにも重い疲労の色が滲んでいた。
そこへ、息を切らせてひかりが走ってきた。
「二人とも! こんなところにいた」
彼女の手には、購買で買った焼きそばパンが三つ握られている。
「一緒に食べよ? ほら、まだ温かいよ」
ひかりの笑顔は、この曇った世界の中で、唯一変わらない陽だまりだった。
「ひかり……いいの? 私たちと一緒にいたら、ひかりまでいじめられちゃうよ」
ソラが心配そうに言うと、ひかりはぷうっと頬を膨らませた。
「何言ってるの! 私たちは親友でしょ? それに、みんながおかしいだけだもん。私が二人を守るんだから!」
その健気な強さに、カイとソラは救われる思いがした。だが、その光景さえも、校舎の窓から監視している者たちがいた。
事態が急変したのは、それから数日後のことだった。朝のホームルーム。担任教師が、青ざめた顔で教室に入ってきた。
「えー、皆さんに悲しいお知らせがあります。……クラスメイトの高山献太くんが、昨日から行方不明になっています」
教室がどよめく。高山献太。クラスのボス的な存在であり、PTA会長の息子でもある少年だ。最近、カイとソラへのいじめを主導していた中心人物でもあった。
「警察も捜索していますが、まだ手掛かりがありません。皆さんも、寄り道せずに集団下校するように」
放課後。町は不穏な噂で持ちきりだった。
「神隠しだって」
「昨日の夕方、あそこの廃工場の近くで見たって人がいるらしいよ」
「お化けに連れて行かれたんじゃないの?」
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




