プロローグ
その朝、柏木ひなたは、スマホの画面を指でなぞることすら怖かった。
見慣れた景色、いつもの出社風景。
そのすべてが、まるで別のものに見えた。
駅の改札を抜ける音、自販機の缶が落ちる音、交差点の信号が変わる音。
普段なら気にも留めない雑音が、今日は妙に耳につく。
肩が上がり、喉が乾き、呼吸が浅くなる。
――自分でも分かる。
落ち着け、落ち着け。何度も頭の中で唱えるのに、足の指先は冷たかった。
時間になれば、世の中に出る。
そして、世の中に出たものは、取り消せない――。
電車の窓に映った自分の顔が、知らない人みたいに見えた。
社会人一年目の顔。
まだ“会社員”の皮が馴染んでいない顔。
目の下に薄い影がある。昨日はあまり眠れなかった。
眠りに落ちる直前、何度も同じ台詞が頭の中で再生されたから。
(この子は、笑って誤魔化す。それは、誰かを怖がらせたくないから)
その一行を、何度書き直しただろう。
アップデート当日の朝。
ひなたは執務室の自席で、その瞬間を待っていた。
白い壁、乾いた空調、紙コップのコーヒー。
誰かが冗談を言って笑った気がしたが、音は遠く、耳に届かなかった。
キーボードの打鍵音が一定のリズムで鳴り響く。
電話のコール。誰かが椅子を引く音、コピー機の機械音。
それら全て、聞き慣れたいつもの職場の音。
なのに今日は、それら全てが、自分の何かを追い立てるように聞こえた。
リリース時刻まで、あと三分。
運用担当が端末をいじり、QA担当がログを開き、プログラマが何かを確認している。
ひなたは自分の画面を見ているふりをしながら、実際には一文字も読めていなかった。
視線が滑る。焦点が合わない。
自分が生み出したキャラクターが、世の中に出る。
“生み出した”――その言葉が胸の奥で熱を持つ。
新しい誰かが生まれる瞬間に立ち会うのは、嬉しいはずなのに、怖い。怖くて、嬉しい。
ひなたが担当したのは、ゲームの中に登場する一人の少女だった。
ひとことで言えば、地味。
前に出ない。勝利のポーズを取らない。台詞も短い。
人気が出そうな“分かりやすい属性”とは違う。
声が大きいわけでもない。派手な笑顔を振りまくわけでもない。
ただ、その場の空気を少しだけ変える。
いつしか、周りにとってなくてはならないものになっていく。
前に立つのではなく、周りを引き立てる役割。
ストレートには伝わりにくい。
それでも――その短さの中に、彼女だけの息がある。
(息がある、って何だよ)
自分でも思う。曖昧だ。ふわっとしている。
会議では、そういう言葉は嫌われる。
“動機と間”。
彼女を一人の人間として描き、変に着飾らずに。
ひなたがいつも口にする言葉を、新人なりに必死で形にした。
だが、それは何度も否定された。
もっと分かりやすく。
もっと可愛く。
もっと刺さる言葉で。
もっと煽って。
もっと盛って。
もっと“売れる”ように。
「この子、何を考えてるか分かりづらいかも」
赤入れが戻ってくるたび、ひなたの心臓は小さく縮んだ。
修正指示はおそらく正しい。合理的で、再現性がある、きっと。
だがその正しさが、少女の輪郭を少しずつ削っている気がした。
ひなたの原稿は一枚まるごと赤く染まった。
ひなたは説明した。声が震えないように、喉の奥に力を入れて。
「笑って誤魔化すのは、誰かを怖がらせたくないからです」
言わない理由がある。
その理由があるからこそ、彼女は言葉を選ぶ。間を置く。逃げる。笑って、誤魔化す。
言えないのではなく、言わない。
黙るのは弱さじゃなくて、優しさだ。
「理屈は分かる。でも、それって……」
「ユーザーに届く?」
返ってきたのは、冷たい合理だった。
悪意じゃない。責めてもいない。だからこそ、ひなたは余計に苦しかった。
合理は、正しい顔をしている。
正しい顔のまま、簡単に“命”を切り落とす。
ひなたは何度も書き直した。
押し引きの線を何度も引いた。
“売るための言葉”と、“その子が言う言葉”を、同じ行の上で殴り合わせた。
この台詞は、刺さる。
でも、この子は言わない。
この一言は、分かりやすい。
でも、この子の人格が崩れてしまう。
キャラクターは駒じゃない。
物語のために人格を曲げるのが、ひなたはどうしても嫌だった。
嫌だったのに、社会人一年目の彼には盾も剣もなかった。
だから、ただ、粘るしかない。
粘って、粘って、削られて、それでも残す。
少女の“言わない理由”だけは。
それがこの子の骨で、それが折れたら、もう別人になってしまう。
そうして、書き続けた。
きっと自分以外の誰かが分かってくれる。
画面の向こうの、どこかの誰かが。
そう信じて。
リリース時刻。
運営担当が淡々と告げた。
「アップデート、公開されました」
その瞬間、ひなたの呼吸が止まった。
自分のキャラクターが世の中に出た――そう思った瞬間に、胸の奥が空っぽになる。
手のひらが汗ばむ。指先が痺れる。喉の奥がひりつく。
「やったぁ……」
言葉が漏れて、自分でも驚いた。
この瞬間を迎えることに緊張していたようで、嬉しさより先に、脱力がきた。
張り詰めていた糸が、ぶつりと切れる。
そして、次の瞬間だった。
社内チャットに通知が跳ねる。
《SNSでの更新、きたな》
《ストア文言も、見てみるか》
《例の子……評判どう?》
ひなたの視界が、やけに鮮明になる。
アプリストアのレビュー欄。SNSの検索結果。
配信者のリアクションや切り抜きが、徐々に上がり始める。
最初のリアクションは、いいものではなかった。
なんか地味だな。
期待していたのと違うかも。
辛辣な言葉が流れ、胸の奥が冷える。
“分かりやすさ”を求める声は強い。
ひなたは分かっていた。
分かっていたはずなのに、実際に浴びると息ができない。
チーム内からも、直接的ではない微妙な反応が返ってきた。
「初動、ちょっと弱いね」
「次はもっとキャッチーに行こう」
冗談めいた言葉の裏に、“任せるには早い”という本音が透けて見える。
初日は荒れた。二日目も変わらない。
ひなたは、ずっと画面を見ていたわけじゃない。
仕事は回る、次の更新だってある。
でも、ふとした瞬間に指が勝手に検索窓を開く。
気づけばSNSのタイムラインを追っている。
どうにも、心の落ち着く場所がない。
だが三日目、切り抜きの角度が変わった。
物語とともに紡がれた少女のキャラクター性に、少しずつ、
だが確実にユーザーが気づき始める。
最初に拾われたのは、派手な台詞ではなかった。
むしろ、台詞の前の沈黙だった。
言いかけて飲み込む息。笑って誤魔化す目線。
ひなたが守りたかった“間”だった。
《あの子、ただ黙ってるだけじゃなかったんだ》
《なにも言わないけど、気持ちが伝わってくる》
《なんか泣きそうになった》
《笑ってるのに怖いって感じたの、初めて》
《《《《この子、好きかも》》》》
――数が、増えていく。言葉が、増えていく。
「……っ」
目の奥が熱くなる。
泣くのはみっともないと思った。初めて生み出したキャラクターが、
少し受け入れられたくらいで。
そんなの、ただのスタートでしかない。
自分より凄い人はいくらでもいる。
でも、止められなかった。
自分の一部が、世の中に受け入れられた――そう思えてしまった。
文字が誰かに届くって、こういうことなのか。
文章が画面の向こうで息をして、人の心の中に入り込んで、言葉にできないものを掴む。
それは、自分という存在が世界のどこかに引っかかった感覚だった。
「柏木さん」
声をかけられて、ひなたは慌てて涙を拭うふりをした。
振り返ると、隣の席の先輩が笑っていた。優しい顔だった。
「おめでとう。良かったね」
その一言で、堤防が決壊した。
ひなたは笑いながら頷いて、喉の奥が痛くなって、息を飲んだ。
この仕事で、生きていけるかもしれない。
自信のない自分でも。
才能のない自分でも。
誰かの心を動かす文章を書けるなら。
そう思えた瞬間だった。
その喜びだけで、あと十年は戦える気がした。
――そう、思っていた。
◆
それから何年か経った。
GLUEゲームスに勤める柏木ひなたは、
『失くした記憶と学園の鍵』のシナリオディレクターとして現場を率いていた。
新人の頃、守るだけで精一杯だった自分はもういない――
そう言い切れたら、どれほど楽だっただろう。
『選択肢があなたの“記憶”を変える――学園ファンタジー×ミステリー』
記憶を失った少女たちが、世界を守るために戦う。
戦う理由さえ曖昧になった彼女たちが、“鍵”を探し、自分の使命を思い出していく。
鍵が開くたびに、感情の意味が変わり、関係性が壊れたり、結び直されたりする。
ひなたはその“怖さ”を、キャラクターの息遣いで描くことに心血を注いだ。
一周年は、大好評だった。
コア層の熱は確かにあった。
ひなたは、あの頃の自分を思い出していた。
「守れば届く」と、まだ信じられていた頃の自分を。
だからひなたは、ほんの少しだけ“平穏”を信じてしまった。
大丈夫だ。二周年に向けて準備をすれば、また跳ねる。
だが――平穏は、数字の外にしか存在しなかった。
一周年から二ヶ月ほど経った会議室。
そこには祝福とは正反対の空気が満ちていた。
あの頃の熱を思い出すほど、今は冷えている。
ひなたは会議室のモニターを見上げた。
そこに映る数字は、ため息さえ許さない顔をしていた。
そしてひなたの胸の奥の“熱”は、いつの間にか鈍い痛みへと変わっていた。




