かぜをつむぐ.三
久保田夫妻はいつの間にか帰って来ていたらしく、一階の店には明かりが灯って、中はお客がいる気配である。とはいえ、そこに闖入するわけにもいかない。それに今はお酒を飲むよりもぶらつきたい気分である。
どこに行くという当てもないまま、足の向く方へとぶらぶらと歩いて行った。
お盆の頃と違ってそう無暗に死者がうろついてもいないけれど、時折変なのが暗がりにしゃがんでいたりするから注意を要する。貧乏神がひとつ減ったのはいいけれど、代わりに変なのをくっ付けたのでは目も当てられない。
綾科は大参道周辺が最も賑やかであるが、夜が更けると店も軒並み閉まって寂然たる様相になるが、裏路地の方は却って炯然とし、深夜まで、あるいは朝方まで営業している店もあって、夜になると盛り場がそちらに移行する。薄暗いバーなどには、ちゃっかり神様や妖怪の類が客として紛れ込んでいる事も珍しくない。
だから私は普段そちらには足を向けないのだけれど、足の向くままに歩いていたら、そんな路地の一つに入り込んでいた。
派手なネオンがあるわけではないが、看板が光で照らされて、音楽がうっすらと外に漏れ出したりしていて、時には若者の数人連れが通って行ったりする。この辺りはまだ町が起きているという感じがする。
人がいようがいまいが、私にはどちらでもいい事なのだが、人がいない所になると急に神だの妖怪だのが出て来て私を煩わすから、人間がいる方が、ある意味では面倒がなくていい。人間には人間の面倒臭さがあるけれど、人外化生よりは幾分か解りやすい。
とはいえ、その例に当てはまらぬ事も無論ある。
ぶらぶらと歩いていると、やけに年季の入った店の前で、男が一人煙草を吸っているのに出くわした。ヒヨコのアップリケのついたエプロンをつけて、真っ白な髪の毛を腰まで伸ばし、右目に眼帯をしている。顔は若々しくもあり、しかし年を取っている様にも見える。
これは喫茶ガラクタ亭の店長である。何でも、団八酒店の親父の祖父が子どもの頃から、まったく同じ容貌のまま変わっていないらしい。七尾豆腐店の化け狐の様に何かの妖怪か何かだと思われるが、何だかよく解らない。
店長は私を見るとおやという顔をした。
「お前がここに来るとは珍しいじゃあねえか」
「足の向くままに歩いていたら来てしまった。貴君とお会いするのも久しぶりだね」
「俺ぁ出無精だからな」
丁度いい折だと店長と並んで煙草を燻らした。軒先の照明で煙草の紫煙がくっきりと見えた。
「景気は如何」
「なに、いつも通りよ。まあ、風の祀りのおかげで多少客足は多かったがな」
「それなのにここで煙草を吸っているのかね」
「なんで俺がいちいち客の相手をしてやらにゃいかん」
それはそうかも知れないが、喫茶店の店長としてそれはどうなのであろうかと思う。思うだけで別に言ったりはしない。店長は煙草を揉み消した。
「何か飲んで行くか」
「僕はお金を持っていない」
「んなこたぁ解ってる。暇つぶしだ、ちっと付き合え」
いずれにせよ目的もないし、行く当てもないから、誘われるままにガラクタ亭に入った。
分厚い木の扉を開けると中は薄暗く、大きなスピーカーではフランク・ストークスが歌っている。
机の配置は昔のパーラーの様であるが、壁も天井も年季の入った木造で、煙草の煙のせいか知らないが、それが煤けて濃い色になっているから、何となく荘厳な感じがしないでもない。
カウンターの向こうには長い髪の毛をひっつめて一つ結びにした若者がいて、何かお酒を作っていた。店員の鈴木大助君である。私を見て怪訝な顔をした。
「ここに来るとは、珍しいですね」
「僕もそう思う。貴君、景気は如何かね」
「良い様に見えますか」
「見えないね」
「でしょう」
と言いながらカウンターの隅の客に作った酒を出した。
「大助、バーボンロックダブルで二杯よこせや」
「ほら、こうやって店長が自分で飲んじまうから、仕入れ代ばっかりかかるんです」
と言いながらも、手早くグラスを出している。大助君の懐が痛むわけではないから、愚痴は言えども強く諫める気もないのであろう。それでどうして店が続いているのかは知らない。
店の中を見回して見ると、いくらかは人影があった。しかし人なのかは解らない。照明の届かない暗い席にぽつねんと影が腰を降ろしている様は、妖怪か何かの様に思われる。この店の客層は人間よりもそれ以外のものの比率の方が高い。
私はウィスキィはあまり好きではないが、歩き回った後に腰を降ろしてホッとしたところだから、こういう時の一盞はうまい。
店長はカウンターの向こうに回って煙草に火を点けた。
「風の祀りには行ったかよ」
「行った」
「人が多かったでしょう」
と大助君が言った。
「多かった。どこからあんなに湧いて来るのだろうね」
「その辺からだろ」
「んな虫みたいに……」と大助君が呟いた。
「シナツヒコとシナトベの馬鹿姉弟は偉そうにふんぞり返ってたんだろ」
「シナトベさんには会っていないが、何やらあの周辺の土地を狙っているのがいるとかで、うちの貧乏神を一柱引き取って行ったよ」
「ああ、最近多いらしいな。大助、なんかつまみ作れ」
「この辺を他所と同じと思って開発しようとしても駄目でしょうにね」
大助君は缶からポップコーンを出して、バターを引いたフライパンで炒り始めた。店長は新しい煙草に火を点けた。
「無理やりやっても土地神やら何やらに邪魔されるばっかりだろうよ」
「だろうね。心持が悪ければ妖怪も寄って来るだろうし」
「だが、それで土地の気が悪くなりゃ治すのは時間がかかる」
「事前に止めるのが一番って事でしょうかね」
と大助君がポップコーンを皿に載せて出した。
バターの味のするポップコーンをつまみながら、ウィスキィの水割りを飲み、煙草に火を点ける。能書きなどは何も知らない。向こうも知らそうとしない。知らなくてもうまければ構わない。
店長と大助君を相手にいい気分で四方山話をしていたら、店の戸が勢いよく開いて、誰かが騒々しく入って来て、カウンターに取り付いた。
おやおやと思って見ると、風宮本家の四男、幸四郎である。何となく憔悴した様子で、しかし調子だけは強く口を開いた。
「大ちゃん、何か強い酒! ストレートで!」
「おいおい……何かあったのか?」
「いいから!」
大助君は呆れた顔でショットグラスにウィスキィを注いで押しやった。幸四郎はそれを一息で飲み干し、大いにむせ返った。大助君が眉をひそめて、水のコップを差し出した。
「何してんだ、まったく。大して飲みつけてもねえ癖に……」
「なんだオメェ、ヤケ酒でもかましに来やがったか」
と店長がにやにやしながら言った。この男は不幸そうな他人を見ると面白そうな顔をする。
幸四郎は水をすすりながら店長を恨めしそうに見た。
「何が嬉しいんだよ。僕が憔悴してるんだぞ」
「嬉しくて何が悪い。もっと不幸になれ」
「ちくしょー、ろくでもない大人ばっかりだ」
幸四郎はそう言って、小脇に抱えていたむくむくした毛むくじゃらのものを揉んだ。
ぬいぐるみか何かかと思ったら手足がおぶおぶと動いたので、おやおやと思って見てみると、葵の飼っている化け狸のモコであった。狸の姿のまま捕まっている。
「貴君、従妹の狸を攫って来たのか」
「人間はもう嫌だ。僕は狸になりたい」
「何言ってんだ、お前は。総二郎さんに怒られたんだろう、どうせ」
と大助君が呆れた様に言った。幸四郎は口を尖らしてようやく椅子に腰を下ろした。
「総二郎兄さんの話はしないでよ。あんなヤツ、タンスの角に足の小指でもぶつければいいんだ」
「何だ、ただの兄弟喧嘩か。詰まらん」
店長はたちまち興味を失ったと見えて、煙草を咥えて火を点けた。空になったグラスに手酌でウィスキィをどぶどぶ注いでいる。
解放されて、幸四郎の膝に乗せられた狸姿のモコは、店中に漂うもくもくした煙に目を白黒させている。幸四郎はふんと鼻を鳴らした。
「今回はもう僕も怒った。いつまでも子ども扱いしやがって」
「実際子どもだろ」
「うるさい、もうハタチ超えてますぅ! 大ちゃん、ウィスキィもう一杯」
「酒が飲めりゃ大人ってわけでもないぞ」
と言いながらも大助君は面倒くさそうに酒を注いでやった。幸四郎は今度はちびちびと顔をしかめながら舐めた。
「じゃあ大人って何なのさ」
「自立してるかどうかだろう」
「大ちゃんは自立してんの?」
「まあ、自分の稼ぎで食ってはいる」
「僕だって住み込みでバイトしてるよ」
「学費だの家賃だのは出してもらってるんだろ」
「そりゃそうだけど。じゃあ大人って金だけの話なの? 何樫さんは働いてないし、一切稼いでないじゃん」
「まあ、それは……」
大助君は言葉に詰まって眉をひそめた。幸四郎は調子が出て来た様子で杯を空にし、お代わりを催促しながら私の方を見た。
「何樫さんは自分を大人だと思ってるの?」
「そんな事をいちいち考えて見た事はないね」
「店長は?」
「俺から見りゃ全員ガキだ」
と言いながら幸四郎のグラスに並々とウィスキィを注いでいる。
「これが大人の姿なの、大ちゃん?」
「うーむ……」
大助君が心もとない顔をしている。我々を引き合いに出されては大人も形無しである。
「要するに、貴君は子ども扱いされるのが嫌なのだね」
「そうだよ。総二郎兄さんと来たら、中学生でも相手するみたいに、やれちゃんとしろだの、やれ風宮家の男子としての自覚を持てだの、鬱陶しいんだよね。なー、モコ」
と幸四郎は杯のウィスキィを舐めて、膝に乗ったモコを撫でた。ポップコーンをかじっていたモコは顔を上げた。
「でも総二郎兄さんは幸四郎兄さんを心配してるんだ、って姉さんが言ってました」
「葵がぁ? はーあ、あいつも妙に真面目なところあるからなあ」
「でも葵の言う通りだよ。総二郎さんだって、意地悪で説教したりはしないだろ」
「大ちゃんにまで説教されるために来たんじゃないよ。それに僕は大学出たら他所で暮らすんだ。綾科に帰って来るなんてまっぴらごめんだね」
「えっ、幸兄さん、出て行っちゃうんですか」
とモコが目を潤ましながら幸四郎を見上げた。幸四郎は苦笑しながらモコを撫でた。
「いいんだよ。大体僕がいようといまいと家は関係ないさ。新一郎兄さんは頼りになるし、総二郎兄さんもムカつくけどしっかり者だし、源三郎兄さんは体弱いけど優しくて人望あるし」
僕だけ何にもありゃしない、と口の中で呟きながら、幸四郎は三杯目のウィスキィを飲み干した。店長がにやにやしながら煙を吐いた。
「なんだ、単に兄貴どもに劣等感抱いてるだけか」
「違わい」
「強がんな強がんな。能無しは能無しなりに這いつくばって生きて行け」
「誰が能無しだよ。言っとくけど僕だって神通力なら兄さんたちにも負けないんだからな。でもだからこそ、それしか選択肢がないように扱われるのが嫌なんだ、解るだろ」
「解らないね」
「それも綾科を出たら関係ないだろ。やっぱり能無しじゃねえか」
「そもそもその才能を活かそうとしないから総二郎さんに怒られてるんじゃないのか」
「何だよもう、大人が寄ってたかって僕をいじめるなよ」
幸四郎は不貞腐れた様にモコをわしわしと揉んだ。モコはくすぐったそうに手足を動かす。
大助君がやれやれと頭を振った。
「都合のいい時だけ子どもヅラして……」
「それはそうと貴君、子狸を攫って来て、葵君が心配しやしないか」
「まあ、無断で持って来ちゃったけど……この毛並みに癒されるんだよなあ」
幸四郎はモコを抱き上げて頬ずりした。モコは体をもたもたと動かした。
「でも姉さん心配性だから、困ってるかも知れないです。ぼく怒られちゃいます」
「いいよ、僕帰りたくないし。お前が怒られない様にしてやるから」
「ぼくだけ帰っちゃ駄目ですか? 姉さんが可哀そうです」
「僕は可哀そうじゃないのかよ」
「それは、そのう」
「それに夜に一人で行かせられるかよ。お前野生じゃないんだから、迷子になって泣くぞ」
「うー」
モコはじれったそうである。単に煙草の煙が多いせいで居心地が悪いのもあるのかも知れない。
大助君が水のコップを出した。
「いいから帰れよ。ずっとここにいるわけにもいかないだろ」
「えー、大ちゃんまでそんな事言うのかよぉ。店長、いいでしょ、いても」
「いや、追い出した方が面白そうだから駄目だ。とっとと帰れ」
「くそっ、ホントにろくでもない大人ばっかりだ!」
幸四郎は怒った様に勢いよく立ち上がったが、ウィスキィが効いているのか、ふらふらとバランスを崩して盛大に転倒した。放り出されたモコが空中をくるくる回ってすとっと着地する。大助君が慌てた様にカウンターから出て来た。店長は大笑いしている。
「おいおい……怪我してないか?」
「くそぉ……なんで僕ばっかりこんな目に……」
「兄さん、大丈夫ですか」
「お前は怪我してない? ああ、大丈夫か。僕も別に」
と言いながら立ち上がったが、やはり足元がおぼつかない。怪我をしているわけではないらしい。単に酔っ払っているのだろう。大助君がやれやれと頭を振った。
「仕方ない、送ってやろうか。ちゃんと立てよ、もう」
「何言ってやがる大助。テメェがいなくなったら俺が客の相手をしなきゃいけなくなるだろうが。何樫、送ってやれ」
「なぜ僕が」
「つべこべ言うな。酒代だと思え」
後になってそういう事を持ち出すのは卑怯だと思うけれど、別に他に行く所もないし、元々ガラクタ亭に用事はないし、ウィスキィばかり飲んでいても飽きるから、止んぬる哉と思いながら腰を上げた。
幸四郎に肩を貸してやって、モコは傍らに歩かして、夜の街を風宮家の方に向かってぶらぶらと歩いた。町のそこここにも風鈴が下がっているから、ちりりん、ちりりんと涼しげな音がしている。
「貴君、もっとちゃんと歩きなさい」
「うう」
幸四郎は段々酔いが回って来ているのか、進むにつれてどんどん私に体重ばかりかけて、ちっとも自分で歩こうとしない。
名家の四男坊で、甘やかされて育ったから根性が足りない、と言うのは簡単だけれども、若者が飲み慣れないウィスキィを立て続けに生で三杯も飲めば、ふにゃふにゃになるのも、まあ解らないでもないから、面倒だなと思いながらも、引きずるようにして往来を辿って行った。モコが後ろからぽてぽて着いて来る。
風の祀りを目指して来た観光客らしいのが泊まっているせいか、町は妙に賑やかな様に思われる。居酒屋や料理屋からは酔漢の話し声が聞こえて来るし、通りに面した宿の中も人が行き交っているのが解る。
繁華な所を抜けて風神社に近づくにつれて、人の往来は少なくなった。しかし明かりは煌々と灯り、祭りの露店が片付けをしている。
道の両側の飾りはそのままで、夜空の下で布や吹き流しが風でのたくっている。どろどろと発動機の音がしている。まだかろうじて開けている屋台で何か買っている連中がいる。道端には的屋のものらしいトラック何かが止められて、荷物を積み込んでいる。
「ごたごたしているね」
「危ないですね。こっちの方がいいです」
ここまで来ればモコも道が解ると見えて、本通りを少し外れ、田んぼのあぜ道の様な所へ私共を導き、少し前を行きながら振り返った。
「兄さん、もう少しです。頑張ってください」
「うぶ……ちょ、待って、限界」
幸四郎は私を振り払う様に道端に駆け寄ると、身をかがめて溝の中にげえげえとげろを吐いた。モコがわあと言って、小僧の姿に化けて駆け寄って背中をさすってやっている。私は煙草を咥えた。
「兄さん、しっかり」
「おえっ……げほっ、げほっ……」
吐いて多少楽になったのか、幸四郎はふらふらと立ち上がった。そうして自分の吐しゃ物を見て顔をしかめ、離れた所に乱暴に腰を下ろした。
「うう、ちくしょう、何だよ」
「もうちょっとでおうちですよ、兄さん」
「嫌だ、帰るもんか。お前、一人で帰っていいよ」
「そんな寂しい事言わないでください」
幸四郎は駄々をこねて動こうとしない。動かないで、ここで夜を明かすつもりなのか何なのか、イマイチ判然としない。
放って帰ろうか、成り行きを見守ろうか、どっちつかずの気分で突っ立ったまま煙草を燻らしていると、急につむじ風が立って、そこいらの吹き流しがより激しくはためいた。おやおやと思っていると、つむじ風の真ん中にひらひらした着物姿の女性が現れ、宙に浮いたまま私共を見た。彼女は風神シナツヒコさんの姉神で、同じく風神のシナトベさんである。
「ああ、いたいた」
「シナトベさんではありませんか」
「こんばんは、何樫。幸四郎のお守りをしてくれたの?」
「はあ」
幸四郎君が顔を上げた。
「別にお守りされてないよ。人聞きの悪い」
「何不貞腐れてるのよ、幸ちゃん」
「撫でないでよ、お姉ちゃん」
「うふふ、強がっちゃって」
シナトベさんがそう言ってちょいちょいと指を振る。少しして、草を踏む駆け足の音がした。提灯の光が近づいて来る。
見ると風の子に先導されて、葵が息せき切って駆けて来るところであった。
「モコ!」
「あっ、姉さん」
モコはぱっと顔を輝かして、葵の方に駆け寄った。葵の方は怒った顔をしている。
「一人で勝手に出歩くなって言ったでしょ!」
「あう、でもぼく、幸四郎兄さんに」
「まず言う事があるでしょ!」
「ご、ごめんなさい」
「……もー、心配したんだから」
葵は膝を突いて、モコを抱き寄せてよしよしと撫でくり回した。葵の腕の中でモコは狸の姿に戻って、のそのそと肩の上に這い上がった。毛皮の首巻の様に見える。
暑いだろうなと思って見ていると、煙草の火が見えたのか、葵がびっくりした様な声を出して提灯をこちらに向けた。
「うえっ!? だ、誰っすか!?」
「僕だ」
「え、な、何樫さん? なんで?」
「僕にもなんでか解らないが。幸四郎君もそこにいるよ」
葵はうろたえた様にそちらに提灯を向け、明かりに照らされた幸四郎の姿を見てかくんと肩を落とした。
「もう、幸兄ったら、急にいなくなって。皆心配してるよ」
「嘘つけ。僕なんかいなくても誰も気にしないだろ」
「なんでそんな卑屈になってるの」
「モコ、こっち来いよ。毛皮をふかふかさせろ」
しゃがみ込んだ葵の肩から、幸四郎は再びモコを捕まえた。
葵が合点が入った様にモコと幸四郎を交互に見る。
「あ、さてはモコを連れて行ったのは幸兄だ」
「そ。だからモコは別に悪かないよ」
幸四郎は不貞腐れた様に言ってモコを抱えた。葵はふうと嘆息して幸四郎の隣に腰を下ろした。
「また総二郎さんと喧嘩したの?」
「別に」
「とりあえず帰ろうよ。外で寝るわけにもいかないでしょ」
「いいんだよ。僕は狸になるんだ。外で寝るのなんかへっちゃらさ」
幸四郎はそう言いながらモコを抱き枕にする様に抱えたままごろんと横になった。葵は呆れた顔をしている。モコは手足をもたもたと動かしていた。
私は隣に浮かぶシナトベさんを見た。丁度風の子が一礼して姿を消すところだった。
「あんたがたは幸四郎君を捜していたんですか」
「いや、葵がモコがいないって騒ぐからね。風を飛ばしてあちこち捜してみたけど、よく解らなくてね。葵も近場をずっと探し回って」
「ガラクタ亭にいたからでしょう」
「ああ、あすこじゃ風は入らないね、確かに。幸四郎、あんな所まで行ったの。でも雲を踏めばすぐか。……店長の奴、わたしの悪口言ってたでしょ?」
「はあ」
「何て言ってた」
「馬鹿姉弟と言っていました」
「あいつめ、シナツヒコとわたしを一緒くたにするとは許せん。今に見てろ」
シナトベさんはむうと口を尖らした。怒りのツボを見るに、彼女も弟を馬鹿にしている節がある様に思われる。
「……ま、ともかくお前たちが外に出て来たから見つけられたのヨ」
「はあ」
「幸四郎は何でふにゃふにゃしてるの」
「ガラクタ亭でウィスキィを立て続けに飲んだからでしょうな」
「馬鹿ねえ。直会でも結構飲んでたのに」
喧嘩の苛立ちで酒が進んだのか、酒が深まった勢いで喧嘩になったのかは知らないが、ともかく幸四郎は随分飲んでから神社を飛び出し、それでウィスキィがとどめになって、この醜態をさらす羽目になったのであろう。成る程と思ったが特に感動もない。
幸四郎は横になったまま動かない。死んでいるわけではないらしい。葵が眉をひそめて揺すぶった。
「幸兄。ちょっと、幸兄ってば!」
「むぅ、ぐ……」
幸四郎は呻いてもそもそと身じろぎするばかりである。葵は困った様にシナトベさんを見た。
「シナトベ様、どうしましょう」
「んー、抱えて行くにはねえ。風で浮かす……のは無理か。落っことしたら大ごとだわ。何樫、ちょっと手伝いなさい」
「はあ」
面倒だが、ここまで来た因果と観念して、葵と二人で幸四郎を抱えて神社に向かった。シナトベさんは手伝いもせずに横をふわふわ浮かびながらぶつぶつ喋っている。
「ちっちゃくて可愛かった幸四郎が酒飲んでげろ吐いて道端で寝る日が来るなんて。わたしは複雑な気分だよ」
「神様からすれば人間は皆そうでしょう」
「そりゃそうだけれども、風宮家の子らはわたしらの子と同然だからね。他の人間よりはよく見ているの。思い入れだって一入なんだから」
「ははあ」
「な、何樫さん、ちゃんと支えてくださいっす!」
幸四郎がよろめいて、反対側の肩を支えている葵がうめいた。
「支えているよ」
「本当っすか……? もう! 幸兄、起きろ!」
葵がぺちぺちと幸四郎の頬を叩くが一向に起きない。とはいえ、無意識なのか、何となく足を動かしている風ではある。だから両側から支えて運んで行ける。
ちっとも埒は明かなかったが、何とか石段の下までたどり着いた。相変わらず長い石段で、見るだけでうんざりする。
「ここを上がるのは無理そうだぜ」
「そうっすね……転んだら大ごとになりそうだし……あたし、上行って人呼んで来ます。幸兄を見ててもらっていいっすか?」
「いいよ」
それで葵は石段を駆け上がって行った。モコもその後について行った。若者は元気である。
シナトベさんは地べたに転がされた幸四郎を覗き込み、頬を指でつついた。
「寝てる顔は子どもだけど、幸ちゃんも大人になっちゃったわねえ」
「はあ」
「でも朝彦も気づけば孫がいる身だものね。人間はせっかちでいけないわ」
「神様の気が長過ぎるのでしょう」
「どうだかねえ」
シナトベさんはふわわとあくびをした。
「でも今日は賑やかで楽しかったわ。なんだかんだ言って、風の祀りには大勢来てくれるから有難いわね。親類も揃うし……。お前も来てたでしょ」
「あんたにはお会いしませんでしたが」
「わたしはお前を見たよ」
そうらしい。別にそれはどうでもよい。
少しして、葵と一緒に何人か来た。見ると明日香と伊吹もいる。総二郎君も一緒である。
総二郎君はしかつめらしくやって来て、シナトベさんに一礼し、私にも頭を下げた。
「何樫さん、どうも度度ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「貴君、弟をあんまりやっつけちゃいけないぜ」
「身内の恥を晒してしまい返す言葉もありません……礼と言うにはささやかですが、よろしければ少しお寄りになりませんか。直会の余りものですが、酒もありますので」
飲ましてくれると言うならば断わる理由もないから、幸四郎を運ぶ一団に交じって石段を上がった。
境内には提灯が下げられてまだ明るいが、参拝客の姿はない。本殿の方には何やら大勢の気配があるが、あちらは神々が詰まっているのだろう。
境内を抜けて、風宮本家の屋敷に通された。相変わらず広いお屋敷で、客間も相当ある様である。
しかし今日は客も多い様で、何だかざわざわしている。人間だけではなく、人間以外のお客も随分いるらしい。神楽も神事も済んだので直会をしているのであろう。台所はがちゃがちゃと騒がしかった。
お座敷の一つに通された。
六畳ほどの座敷で、床の間があって山水画がかけられている。障子が開けられて、風が柔らかく吹き込んでいる。吊り下げられた風鈴が澄んだ音を立てている。
部屋の明かりに照らされた縁側の向こうには、中庭らしいのが見えて、石灯籠や植え込みの茂みが、部屋の明かりと月明かりに照らされて妙な風に見えていた。
急に来たから座布団もない様である。しかし部屋の隅に煙草盆だけは置いてある。
招かれたお客とはいえ、私の様な風来坊にすぐに構いにも来ないだろうと思って、煙草盆を持って縁側に出て腰を下ろし、煙草に火を点けた。
夜が更けるにつれて次第に月が明るくなるらしく、たなびく雲が青白く照らされて、しかし下の方は暗く、陰影がはっきりとしている。星は大きなもの以外は目立たぬ様になって来た。
ここいらは山手で、コンクリートも多くないから、街中よりも涼しい。加えて風神さんの加護か何かか、心地よい風がずっと吹いているので居心地は大変よい。ここまで来ると段下の賑やかさはほとんど聞こえない。
虫の鳴く声や風鈴の音に混じって、ぎぎ、ぎぎ、と風車の回る音が聞こえる。気にし始めるとそればかり聞こえる。ぼんやりと聞いていると、割り込む様に遠くから電車がレールを踏んで行く音が微かに聞こえた。
煙草の煙が渦を巻いたと思ったら、ふわりとつむじ風が立った。シナトベさんが現れた。
「やぷー」
「何です」
「幸四郎は寝かして来たわよ」
「あんたは神々の御宴会があるでしょうに、どうしてここに来たんです」
「もううるさくてうんざりするのよ。祇園さんのがなる様な歌を聞いてみなさい。逃げ出したくもなるわよ」
「しかし今日はそちらの祭典ではないですか。主役がいなくては差支えやしませんか」
「いいのよ、もう酔っ払いばっかりで収拾つかなくなってるんだから。面倒なのはシナツヒコに押し付けときゃいーの」
ひどい姉もいたものだと思った。




