かぜをつむぐ.二
八月も終わり、二百十日が来たけれど、風神さんが便乗して遊んでいた台風以来、空は晴れ晴れとしたいいお天気である。日差しはちっとも緩まらず、そうして大変暑い。天地始粛なぞ大嘘である。
しかし朝から柔らかな風が吹いていて、窓と戸を開け放しておくと、風が通り抜けて清々しい。
それで風の通り道に貧乏神と三人で横並びに膝を抱えていると、開け放された入り口から紗枝が駆け込んで来て、入口に一番近い所にいた女の貧乏神に飛び掛かった。貧乏神はひゅっと声を出して畳の上に転がった。
爺は狼狽して壁際に逃げる。
紗枝は転がった貧乏神の背中にまたがってけらけら笑っている。
「ははは、来たぞ」
「来なくていいと言ったのに」
「さあ行くぞ。準備しろ」
「どこに」
「風の祀りだ。そう言っていただろうが」
そういえばそうであった。鍵をかけようと思っていたのだが、涼を得る方に気を取られて失念していた。
紗枝はいつもの金魚の柄の着物を着て、紐のついた巾着を肩から斜にぶら下げている。お小遣いを入れているのであろう。
「おたけさんが怒りゃしなかったか」
「怒るというより拗ねてたな。おればっかりずるいってさ。弁当屋を出してればたけも来れたんだろうが、気の毒にな、アハハ」
気の毒がっている様子ではない。仕様もない伯母である。
紗枝は爺の袖を引っ張った。
「さあ、お前たちも行くぞ」
「嫌だ。座敷童子なぞと祭りに行けるか」
「なにおう。おれはお前らと遊びたくて来たんだぞ。さあ、行こう行こう。きっと楽しいぞ」
しばらくどたどたしていたが、部屋の中で紗枝に絡まれ続けるよりは外に出た方がいいと思ったらしく、貧乏神どもは不承不承といった態で立ち上がった。
それで外に出た。
風が吹いている。微かに、というほど弱くはないが、涼を感ずるくらいには強い。部屋の中にいるよりもよほど清々しい様に思われる。
紗枝が来る前に散歩に出てしまえばよかったと今になって思った。
風神社は山手の方にあるが、同じく山手にある綾科神社からは離れている。綾科神社が海のある東側を向いているのに対し風神社は、鳥居は東に向いているものの、そこから石段を上がった先の境内は北側に開けている。
神社に近づくほどに人通りが多くなり、前の往来にも露店が立ち並ぶ様になって来た。
祭りではお馴染みの的屋に加えて、地元の連中が出している店もある。木工細工や陶芸品、竹細工に藁細工などの工芸品もあれば、食べ物屋も多い。野菜や漬物を売っているのもいる。
道端に青竹の長いやつが幾本も並んでいて、その先端から絵の描かれた布や五色の吹き流しが風になびいている。
竹と竹との間に藁縄が渡されて、そこに色とりどりの風鈴が下がって鳴っている。足元には手に持てるくらいの小さな風車が立てられて、それが風を受けてからからと音を立てながら回っている。
紗枝がわくわくした様子で足踏みした。
「ああ、お祭りだお祭りだ。へへっ、嬉しいな」
「貴君は来た事はないのか」
「久しぶりだ! おれたちは家人にくっつくかしないと動けないからな。椿屋はいつも忙しいから、機会がなかったんだ」
と赤らんだ頬を嬉しそうにむにむにと自分で揉んでいる。
道を辿りながら、漫然と店を冷やかして行くと、荷車の前に古道具を沢山並べているのに出くわした。九十九堂の店主、泰光君が隅の方に腰を降ろして、商売をする気がなさそうな顔をして手元の文庫本に目を落としていた。
「泰光君ではないか」
「え? あ、何樫さん。どうも」
泰光君は顔を上げて会釈した。紺色の甚平を着て麦わら帽子をかぶっている。
「貴君はお仕事かね」
「仕事と言えるほど売れるもんでもないですけど、まあ、折角人が大勢来てますんで。店にいても大して変わりませんし……あれ、もしかして椿屋の?」
と泰光君は紗枝に目を留めた。紗枝は挨拶するように手を上げた。
「おう、九十九堂の子じゃないか。市ちゃんはおらんのか?」
「留守番です。お市婆は強い日差し嫌いみたいで」
「ああ、市ちゃんは色白美人だものな」
美人云々という容貌ではないと思うが、それはよい。
並んでいるのは小さな品物ばかりである。九十九堂に陳列してある大きな骨董品などはない。持って来られるものには限りがあるのだから当然であろう。名前と住所と連絡先が書かれた名刺が置かれていて、ここでは売るよりも店の宣伝を主にしているといった風である。
私は骨董品なぞ要らないので、少し泰光君と雑談して、またぶらぶらと歩き出した。
貧乏神どもは紗枝が一緒なので気の乗らない顔をしているが、それでもこういった場は珍しいらしく、楽しくない事もなさそうな様子である。
紗枝は私どもの周りをちょろちょろと動き回り、屋台を見たり風車や吹き流しを眺めたりして、少しも落ち着かない。
紗枝に気づいて応対するのは概ね地元民の店で、他所から来た的屋には紗枝の事が解らないらしい。
ベビーカステラ屋の前でくれくれと騒ぐ紗枝を、店主はまったく気づかぬ様子でほったらかして他の客に応対している。まったく無視されているという風なので、紗枝はベソをかいていた。
「売っておくれよぉ、食べたいよぉ」
「貴君は誰にでも見えるわけではないだろう」
「ああもう、信心が足りないぞ。何樫、代わりに買ってくれ」
と言って千円札を押し付けられたので、一袋買ってやった。紙袋に沢山入ったベビーカステラはにおいまで甘いから、私は辟易したけれど、紗枝は満面の笑みで頬張り、女の貧乏神にもくれてやっている。爺は嫌がって食わなかった。私も勿論食わない。
やがて鳥居の前まで来て、その向こうの石段を上って行く。石段の両側の斜面にも小さな風車が幾つも立てられている。これから上る連中と、下って来る連中とでごった返して、何とも面倒くさい。
屹立する杉の木にも布や吹き流しが下げられて、木々の間を吹く風に揺れている。こんな林の中で風が抜けるのも変だけれど、恐らく風神さんの仕業であろう。
上までたどり着いた。お囃子の音がしている。
山の斜面にある境内は段々になっていて、一番下は売店や手水場で、二段目には本殿と神楽殿、その上には他の神々の分社などがある。境内は開けていて、ここから綾科の市街地がよく見えた。
紗枝が私の背中に飛びついた。
「何樫、肩車してくれ肩車!」
「嫌だ」
「つべこべ言うな」
不承不承ながら紗枝を肩車してやった。わあと言いながら境内や、向こうに見える綾科の町を見てはしゃいでいる。子どもの大きさの紗枝では見晴らしも何もあったものではないのだろう。貧乏神どもがホッとした様な顔をしている。
する事もないし、煙草も吸えないから、手持無沙汰で突っ立っていると、不意にくいくいと服の裾を引かれた。
何かと思って見ると、白い髪に白い着物を着た小さな二人連れの子どもがこちらを見上げている。
紗枝が「あ」と言って肩から降りた。
「お二方、こんな所で……」
とぺこぺこと頭を下げている。おやおやと思った。
「双子様ではないか」
と私が言った。おがみさまとめがみさまの二柱は揃って不安げな顔をしている。
「何をしているんです」
「はぐれた」
とおがみさまが言った。
爺が呆れた様に言った。
「巫女とはぐれたのか」
「うん」
「よそ見でもしていたんでしょう」
私が言うと、双子様は目を逸らした。
爺が顎を撫でた。
「やれ、ここいら一帯の御祭神なのに、相変わらずだな」
「本殿の方にいるだろう。行ってみようか」
それで本殿の方に上がると、人が大勢並んで、無暗に鈴を鳴らして、賽銭を投げ込んで手を合わせている。何か願っているらしい。何を願っているのかは知らない。
神楽殿ではお囃子がてんつくてんてんと音を鳴らしていた。地元の里神楽の一団らしく、ひょっとこ面とオカメ面とがひょうきんに舞っている。
風の祀りでは様々な神楽と剣舞が行われ、最後には綾科神社の巫女神楽で締めくくられる。基本的には神事としての神楽ばかりだから、この里神楽は幕間の御愛想みたいなものだろう。
双子様を連れて本殿の裏の方に回ってみると綾科神社の巫女たちが右往左往していた。
「ちゃんと捜したの?」
「捜しましたよう」
「どうしよう、怒られちゃう」
「諸君、こんにちは」
と言って私が闖入した。
巫女たちは驚いた顔をしたが、私が双子様を連れているのを見てわあっと歓声を上げて駆け寄って来た。おがみさまもめがみさまもたちまち巫女たちに抱き上げられている。
「もう、どうしてすぐいなくなっちゃうんですか」
「悪戯のつもりでしょ、このこの!」
双子様はくすぐられてきゃっきゃとはしゃいでいる。神と巫女というよりは、何だか園児と保育士といった風である。
他より年上の巫女がぺこりと頭を下げた。
「何樫さん、ありがとうございます」
私は会釈を返した。
双子様は巫女にしか見えない筈なのだが、なぜか私にも見える。他、人外の妖怪変化にも見えるそうだが、ただの人間である私にどうして見えるのかは私にも解らない。
裏手は控室になっていて、幕が張られ、長机やパイプ椅子が置かれ、内側では舞手たちが立ったり座ったりしている。着付けなどは別の所で行っているらしく、ここにはきちんと衣装を来た連中しかいない。他にも氏子連中の姿も見られる。
ふと上の方を見ると、吹き流しの揺れるその向こうで、霞の上で横になって肘枕をして下を眺めているのが見えた。長い髪が風になびいている。風神さんである。
目が合って、風神さんはにやりと笑って片手を上げた。私はふいと目を逸らした。
「あ、何樫さん」
また声をかけられたので見ると、剣舞お囃子連の江里口伊吹君が立っていた。きまたを穿き、前掛けに法被を羽織っているが、ハチマキは解いて首にかけている。
「こんにちは。貴君の出番はまだなの」
「いえ、朝に一回やりまして。あと昼前にもう一回です」
ご苦労な事である。紗枝が「よう」と言って手を上げた。
「伊吹少年じゃないか。明日香ちゃんとはどうだ、その後」
「あはは、どうもこうも……まあ、何とか」
とはにかんで頬を掻いた。紗枝はむふふと笑い、女の貧乏神もにやにやしている。
そこに折よく明日香もやって来た。剣舞衣装を着ている。私共を見るとびっくりした様な顔をして、それから照れ臭そうに笑った。
「こ、こんにちは……」
「こんにちは。貴君もこれから出番かね」
「はい。もう少ししたらで」
「明日香ちゃん、幸せそうだな。もっと幸せにしてやろうか。抱っこしてくれ」
と紗枝が両腕を伸ばした。明日香は面食らった様な顔をしたが、すぐに相好を崩して紗枝を抱き上げた。
何だか場がどたどたして、とりとめがなくて、よく解らなくなって来た。
表に出ても人が多いし、行く場所もないから、そのまま空いている椅子に腰を降ろした。
「くたびれるものだね」
と隣に座った爺に言った。
「人が多いからな」
「こんなに沢山、どっから湧いて来るんだろう」
「人間なぞそこいらじゅうにいるものだ」
それはそうだろう。そのそこいらじゅうにいる人間が、どういう弾みかこんな風に同じ場所に、同じ時間に集まって来る。考えてみればどういうつもりだか合点がいかない。
伊吹と明日香は紗枝と女の貧乏神に絡まれて苦笑いを浮かべている。あの連中は普段は追う者追われる者の癖に、色恋沙汰が起こると急に結託し出すから物騒である。
ぼんやりとそこいらに起居する人たちを眺めていると、幕をめくって同じ紋付の着物を着た連中がぞろぞろ入って来た。幕内にいた氏子衆が立ち上がってお辞儀をしている。風宮家の人たちである。
氏子の総代や世話役らしいおじさんたちが、先頭にいた三十半ばくらいの男に話しかけている。
「ご苦労様でございます」
「間もなく幕間も終わりますので」
「ええ、それで参りました。剣舞になりますので、舞台の前を空ける様に……」
先頭にいたのは風宮家の長男で跡取りの風宮新一郎君である。同じ紋付を着ているのは一門の連中だろう。風宮家は本家に後妻の子も含めた四兄弟がおり、さらに分家筋もいるから随分賑やかなものだと思う。
表のお囃子が止まった。さっきまでやっていた連中が裏にぞろぞろと入って来る。辺りがさらにごたごたして、見ているだけでくたびれて来たから、帰ろうかなと思っていると、むくむくした子どもがぽてぽてとやって来た。先日くぼたに来た子狸であろう。爺の貧乏神にぺこりと頭を下げる。
「神さま、先日はどうも」
「うむ。無事に持ち帰れたのか」
「はい。風神さまが風をゆるめてくれて」
「モコ、一人でうろうろしないの」
別の声がして、風宮家の紋が入っている神楽装束を着た女の子がやって来た。セミロングの髪の毛を束ねて、頭には烏帽子をかぶっている。風宮分家の風宮葵である。
葵は私を見ると珍しいものを見た様な顔をして会釈した。
「ども、何樫さん」
「こんにちは。貴君はこれから出番かね」
「剣舞の後っす」
「折のお味は如何だったの」
「え、なんで知ってるんすか?」
子狸が手をぱたぱた振った。
「ぼくがお店に行った時、神さまたちがいらっしゃったんです」
「ああ、そういう事……うまかったすよ。なんか、モコが色々ご馳走になったみたいで……蓮司さんと梓さん、今日は来てないんすかね?」
「行きたいとは言っていたがね」
「別行動なんすか」
「座敷童子に引っ張り出されてしまったからね」
「はあ」
何だか要領を得ない顔をしている葵に、紗枝を抱いた明日香が駆け寄って来た。
「葵、たすきがねじれてる」
「うえ、マジ? ごめん、直してくれる」
「背中向けて」
紗枝を降ろしてたすきを弄り出す。お囃子が鳴り出した。
「明日香ちゃん、そろそろ出番だよ」
おかっぱ頭の、二十そこいらの男がやって来て言った。肌のきめが妙に細かい、女顔の美男子である。彼は風宮四兄弟の末っ子の幸四郎である。
明日香は焦り顔を上げた。
「やばっ……幸四郎さん、葵のたすきお願いしていいですか」
「はいはーい」
明日香は急いで表の方に駆けて行った。幸四郎は鼻歌交じりに葵のたすきを直す。葵は嘆息した。
「幸兄、帰って来たんだ。理由つけて来ないかと思った」
「さっき着いたばっか。新一郎兄さんはともかく、総二郎兄さんがうるさいからさ。来たら数日引き留められるから帰りたくなかったけどねー。こっちスマホつながんねんだもんなー、友達と連絡できねえし、写真も投稿できねえし」
「SNSってやつ?」
「そそ。はい、できた」
「ありがと。九月なのに大学平気なの?」
「大学は夏休み長いんだよー」
と幸四郎はへらへらっとおどけるように手をひらひらさせた。子狸のモコが首を傾げる。
「夏休みは何をするんですか?」
「僕はバイト。住み込みで海の家とかだよ。でもなー、八月で終わっちまうから、今日帰って来なきゃいけなくなっちゃった」
「幸四郎兄さんはおうちが嫌いなんですか?」
「そういう事ははっきり言うもんじゃないよぉ。ねえ、何樫さん?」
急に話を振られたので、私は曖昧に頷いた。モコは不思議そうに幸四郎を見上げる。
「ぼく、風宮のおうちは大好きです」
「そりゃお前が狸だからだよ。人間は色々面倒くさいんだ」
「幸兄、モコに変な事教えないでよ」
葵が頬を膨らましてモコを抱き上げた。モコは短い手足をもたもたと動かした。
そこにまた別の人影が差した。背が高く、厳めしい顔をした彼は風宮四兄弟の二男で、綾科退魔師組合の理事も務めている風宮総二郎である。
「葵、何をしている。剣舞が終わればすぐ出番だ。待機しておけ」
「あ、はい」
葵はモコを降ろすと、小走りで幕の外へと駆けて行った。幸四郎が肩をすくめる。
「総二郎兄さんは堅苦しくていけないや」
「幸四郎、お前もそんな浮ついた気持ちでいるな。それでも風宮本家の男か」
総二郎に言われ、幸四郎は面倒くさそうに頭を掻いて、ぼそっと呟いた。
「そういうの時代遅れだよ。うざ」
「なに?」
「なーんでもありませーん」
幸四郎はへらへらっと笑いながら、さっさとどこかへいなくなった。
総二郎は呆れた様な、苛ついた様な、曖昧な顔をしていたが、私共が見ているのに気付いて、居住まいを正してお辞儀した。
「これは何樫さん」
「こんにちは。貴君はお目付け役かね」
「そういうわけでもありませんが……手のかかる弟で」
「あんまり肩肘張るもんじゃない。福が逃げるぞ」
と紗枝が言った。総二郎はおやという顔をした。
「これは椿屋の……」
「風宮のとこの二男坊だな。しばらく見ないうちに立派になったもんだ。朝彦はどうしている」
「父は本殿での神事をしております。こちらは我ら兄弟が」
「ははあ、お忙しい事だな」
風宮本家は風神社を取り仕切っており、一年中あれこれと祭礼やらお祓いやらで忙しいらしい。まして今日の様な例祭では忙しさもひとしおであろう。
尤も、日常の神事は跡取りである長男の新一郎君が主に行っているらしい。二男の総二郎君は、神職の他に退魔師も兼任している。
それで思い出したから口を開いた。
「それはそうと貴君、退魔師組合はここのところ怠慢が過ぎやしないか」
「は。それは、まあ、耳が痛い話ではあります」
「何でもかんでも僕のところに持ち込んで来られたんじゃ迷惑する」
「ごもっともです」
恐縮する総二郎君を見て、爺が面白そうな顔をした。
「お主は組合の幹部か何かか」
「理事を務めております」
「それは景気がよい。しかしこやつは何にもする事がないのだから、たまさか問題が持ち上がっても忖度して遠慮する必要もあるまい」
「こらこら貴君、そんな事を言うものではない。僕にする事があるかないかという事と、退魔師組合がしゃんしゃんしていない事とは何の関連もない」
ともあれ、こうして相手の逃げ道を奪っておいて詰問するのは紳士のすべき事ではないから、もうよそうと思う。
剣舞が済んで、舞手がぞろぞろと裏に戻って来た。風宮神楽の舞手が入れ替わりに出て行く。総二郎君も立って行った。
さてどうしようと思う。
風宮神楽を見てもいいし、もう帰ったっていい。そもそも来なくたってよかったのだから、どうしようとこちらの勝手である。
椅子に腰かけてベビーカステラをもぐもぐやっている紗枝に声をかけた。
「貴君、帰ろうか」
「なんでだ」
「だってここに座っていたって埒が明かないじゃないか」
「ちょっと待て。神楽を見てから帰ろう。おれは風宮神楽が好きなんだ」
そうらしい。止むを得ないから、控えの外に出た。
人でいっぱいである。舞の場として空けられた所の周囲を囲う様に沢山の人が詰まっている。無意味なのにカメラを構えているのも多い。観光客であろう。
お囃子の前で、ひらひらした衣装の舞手たちが、右手に鈴付きの短い錫杖、左手に扇を持ち、跳ねるように踊っている。時折雲を踏んで、空中でもう一回飛び上がる様な仕草もする。その度に観客がどよめく。観光客らしいのは携帯電話で写真や映像を撮るのに夢中であるが、後で見ても真っ白か真っ黒である。
ふと見ると、本殿の屋根の上に神々が腰を降ろして神楽を眺めている。
真ん中に風神さんがいて、祇園さんとか、お稲荷さんとか、龍神さんもいる。他様々な神々が立ったり座ったり浮いたりして、面白そうな顔でこちらを見下ろしていた。
風宮神楽も終わったので、今度こそ帰ろうと思う。祭りはまだ続いて、この後も剣舞だとか巫女神楽だとかも控えているが、そこまでお付き合いしては文字通り日が暮れる。
境内を出て、石段を下り、お土産だと紗枝がベビーカステラをもう一袋買って、ようやく帰路に就く事になった。
「ああ、面白かった。やっぱり外に出るのはいいな」
と紗枝がリンゴ飴を振り振り言った。
「座敷童子らしからぬ事を言うではないか」
「お祭りはいいんだ、ハレの日だからな」
「来てみれば面白いものだな」
と爺が言った。紗枝が勝ち誇ったように笑った。
「そうだろう。またお祭りがあったら一緒に行くぞ」
「それは嫌だ。お主がいなければもっと面白かったに違いない」
「なんだとう! 心にもない事を言うんじゃない!」
怒った紗枝に背中に飛びつかれて、爺は「ぐわあっ」と言っている。
それで戻ろうとすると、急に風が吹いて来て私共を取り巻いた。
はてと思っていると、目の前でくるくるとつむじ風のように渦を巻き、そうして薄青い着物を着た少女が、浮かぶようにして現れた。風の子である。
「何樫様、風神様がお呼びです」
「僕に何か用事なのかね」
「窮鬼斎様に御用事があるそうです」
「窮鬼斎は誰かね」
「わしだ」
と爺の貧乏神が言った。
「そんな大層な名前とは存じ上げなかった」
「お主に名乗ってはいないからな」
「鬼というには貧相だね」
「筋骨隆々で貧乏神を名乗るわけにもいくまい」
それはそうかも知れない。
貧乏神が行くとなると、私が一緒でなければ行けないから、不承不承に再び石段を上がって境内に戻った。風神さんも階段を降りる前に言ってくれればいいものをと思ったが、今更言っても仕方がない。
風の子に案内せられて、剣舞が舞われている脇を通って、本殿の方に向かった。上の方から見ている神々の顔ぶれはさっきとまた少し違っている。入れ代わり立ち代わりしているのであろう。
本殿の中は風宮家の神官が行ったり来たりしていた。まだ後に神事が控えているらしい。
氏子の総代か代表か、何だか偉そうな人たちが居並んでいる。爺の貧乏神が嫌にそちらを気にした様に何度も見ている。紗枝も何だか気持ち悪そうにそちらをちらちらと眺めていた。
廊下を辿り、裏手の方まで行くと、畳敷きの広間があって、天井から色とりどりの布が垂らされて、大小の風車が飾ってある。室内なのに風が吹いて、それらがひらひらしたり回ったりしていた。
その部屋の真ん中あたりに風神さんが胡坐をかいて座っていた。
「おう、来たか」
「来ました」
「お前帰るのが少し早くはないか」
「祭りなぞ、する事は何もありませんからな」
「お前の祭りじゃないからな」
「しかし祭りはまだ終わっていないのではないですか。さっきは外にいたのに、ここに籠ってどういうおつもり」
「なに、ちょっと貧乏神に仕事を頼みたくてね。窮鬼斎よ」
「うむ」
爺が顔を上げた。風神さんが懐から名刺らしいのを出して爺に渡す。
「どうも最近ここいらの山や土地を買い取ってどうこうしようとかいう奴がいるんだ。勿論、売るわけはないが、他所では力を持っているせいか嫌がらせをして来やがる。色々と手を回して氏子にまで潜り込んでいやがるんだ。本殿にいたのに気付かなかったか」
「得心した。どうも心持の悪いのがいると思った」
と爺が言った。紗枝も頷く。
「綾科の社にいるには分不相応な心だな。おれも気持ち悪かった。あんなのの家に入るのはまっぴらごめんだ」
私にはさっぱりわからなかったけれども、貧乏神や座敷童子の感ずる何かしらの波長の様なものがあるのだろう。しかし女の貧乏神はぽかんとしている。
風神さんは長い髪の毛をかき上げた。
「碌でもない性根の奴だ。どこぞの代議士か何かとつるんでいるとか、大企業にも顔が利くとか、肩書きは随分なもんだ。まあ、綾科の名家はそんな事では参らないが、好き勝手させるのは面白くないからな。貴君の力で天誅を下してやってもらいたい」
「心得た」
爺は水を得た魚の様に活き活きとした表情で私を見た。
「名残惜しくもないが、これでお別れだ」
「貴君は貧乏神の本分を果たせるというわけだね」
「いかにも。財を為したがゆえに増長し悪心に染まる輩はわしの格好の獲物だ。シナツヒコの命よ、朗報を期待しているがよい」
そう言って爺は颯爽と出て行った。
女の貧乏神はおろおろしている。紗枝もうろたえた様に爺の去って行った方と、私とを交互に見た。
「いいのか」
「何が」
「もう会えないかも知れないんだぞ」
「別にいいではないか」
「それは……まあ、そうかも知れないけれども。あーあ、遊び相手がいなくなっちゃったな」
と紗枝は詰まらなさそうに口を尖らし、女の貧乏神の手を握った。女の貧乏神はぶるると身震いした。
「お前はどこにも行かないだろ?」
女の貧乏神はおろおろしたまま何とも答えなかった。
風神さんはやれやれと頭を振って立ち上がった。
「さ、これで心配事が片付いた。後はのんびり神楽見物でもするとしよう」
私はもう見ないでもいいから、先ほどの方針通りに帰ろうと思う。呼び出された時は面倒な事になったと思ったが、私への頼み事はなかったから、助かった。神からの頼み事に碌なものはないが、貧乏神を引き取ってくれたのは有難い。
途中で椿屋に寄って紗枝を帰し、それで家に戻った。
おたけさんが貧乏神に会いたがっていたけれど、貧乏神は勿論おたけさんには会いたくないし、そもそも椿屋はおたけさんがいるから、貧乏神は入れない。
後になっておたけさんから、どうして寄ったのに入って行かなかったかと言われそうだけれども、そもそも椿屋なぞに足を向ける事はほとんどないから、気にしないでおこうと思う。
アパートまで戻ると、一階のくぼたはしんとしている。そういえば、蓮司君と梓さんも風の祀りに行ったのだと思い出したが、神社では会わなかった。あれだけ人が多ければ仕方がないだろうし、私共は控室に紛れ込んでいたのだと思い出した。
部屋に帰って、しかし何にもする事はない。祭りでもする事はないし、さりとて帰ったところで退屈なのは同じ事である。
しかし祭りは人が多い。人が多いのはそれだけでくたびれる。だから部屋にいる方がまだよい。
風の祀りの日だからか、窓から吹き込む風はいつもより心地よい。
ようやく紗枝がいなくなったおかげか、女の貧乏神も多少はホッとした様子で、しかし爺がいないせいか何となく寂し気に呆然として、壁にもたれてだらけている。
そのうち日が傾いて、そうして暗くなった。
夏至を過ぎて二か月も経つから、その頃よりも日は短くなっている筈なのだが、まだまだ夜がいつまでも明るい様な気がする。それでも、何となく今夜は涼しげなように思われた。
貧乏神はいつのまにやら横になって丸まり、ぐうぐうと寝息を立てている。
私は眠くないし、散歩するにもいい気候だから、煙草を片手にふらりと部屋を出た。
月が昇っていて、そこいらを淡く照らしていた。




