違和感
ふと目が覚める。薄っすらと瞼を開けて、何度かゆっくりと瞬きをすると、視界にぼんやりと人の顔の輪郭の様なものが次第に写ってきた。
「おにーちゃーん!おとーさーん!たいへーん!!目が覚めたみたい!!」
すぐ傍らで女の子の黄色い声が聴こえた。まだ意識が朦朧としている。僕はそれを必死に繋ぎ止めようとする。そして段々と自分が置かれている状況が腑に落ちてくる。最後の記憶は確か、堀切の断崖から滑り転げ落ち、右も左も上も下も分からなくなった所だった。
(よかった……。生きてた……。)
自分の記憶と意識が符合した所で胸を撫で下ろすと、起き上がろうと上半身を持ち上げた。が、身体のありとあらゆる所に激痛が走り、身体が思う様に動かない。僕は、くぐもったうめき声を漏らしながらバランスを崩し、敷布団から無造作に転がり出てしまった。
「あっ、ちょっと!まだ動かない方がいいですよ。先生が暫くは安静にしてろって。」
淡い桃色の生地に桜の花が程よく散りばめられた着物を着た女の子が、僕の身体を軽く支え、そのまま布団の元の位置へと介助してくれる。暫く身体を横たえながらじっと堪えていると、だんだんと痛みが引いていった。ふと顔を、秋の乾いた清涼な風が優しく撫でた。固く閉じていた瞼を静かに開けると、僕がいま寝ている部屋(一昔前の日本家屋の様な畳敷きの和室だった)は右側が明け放たれていて、縁側の先には秋晴れの晴れやかな山々の景色が広がっていた。
「はぁ、はぁ……。ありがとうございます……。あなたは?僕を助けてくれたんですか?」
「はい……。私は、雪と言います。本当にびっくりしました。いつもの山で山菜を採っていたら、あなたが倒れていたんです。」
「よかった……。生きてて良かった……。雪さん……本当にありがとうございます。何とお礼を言えば良いか……。」
「いえいえ。2日くらい目を覚まさなかったので心配したんですよ。先生は、じきに目を覚ますから心配するなとは言ってましたけど……。」
「2日!?もう2日経ってるんですか?」
「はい。あなたを山で見つけてから、今日で2日目です。」
「早く親に連絡を……。スマホ、スマホはありますか?」
「すまほ?何ですかそれ?」
「え……。携帯電話です。電話。確か僕のウィンドブレーカーのポケットに入っていたはず……。」
ふと視線を襟元に移し、今の自分の服装を見て、元々着ていた服が脱がされていた事に気付く。代わりに浴衣の様な薄い和装に着替えさせられていた。
「けいたい?でんわ?うぃんど……何ですか?ごめんなさい、私あまり流行に詳しくなくて……。」
さっきから何なのだろうか。全く言葉が伝わない。いや、すれ違っている?言葉は伝わり会話は成り立っているが、単語の意味が理解されていない様だった。
「あの……。僕が元々着ていた服はありますか?」
「ああ、服ならここに。あと身に付けていた、袋の様なものも一緒にありますよ?これ、変わったお召し物ですね?町の方では、こういうのが流行っているんですか?」
雪は僕の枕元に膝立ちで赴くと、僕が身に付けていた服一式とリュックを持ってきてくれた。それにしても、さっきから雪の言動が引っかかる。変わったお召し物?流行?そんなに気になる服装だろうか?僕からしてみれば、今の時代に雪の様な若い女の子が着物を着ている方がとても珍しく感じた。そういった趣味を持っているのだろうか?
「よかった、ありがとうございます。その一番上の服のポケット……。いや、服に穴が開いていませんか?その穴に手を入れると何か物が入っていると思います。」
「はい……。あぁ、ここですかね?すごい、これ物が入れられる構造になっているんですね。あっ、なんか四角い固い物が入っていました。」
「ああ!それです!それ!よかった、転げ落ちた時に何処かに落としてしまったかと思いました。」
僕は雪からスマホを受け取ると、覚束ない手と腕と、首と上半身とを上手く捩りながら、画面を操作する。
「へ〜、へ〜、これ凄いですね!中に犬が、小さな犬が閉じ込められています!」
待ち受けに写っている、実家の愛犬のラブラドールレトリバーの画像を見て、雪が物珍しそうに興味津々だった。スマホは、2日経過した事で電池が減っていたが、まだ70%ほどあった。全く触っていないから当然だが、あまり消耗はしていない様で安堵する。僕は急いで電話帳から親の電話番号を探すと、まず父親に掛けた。しかし、「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、または電源が入っていないためかかりません」と、無機質で機械的な女性の声が返ってくる。次に母親の電話に掛けるが、同じ様に「おかけになった電話は……」と、結果は一緒だった。
おかしい。息子が2日も無断で留守にしている状況で、電話に出ないことがあるだろうか。既に警察に行方不明届けが出されていたり、捜索の手が入っていてもおかしくはないのに。僕はまさかとは思い、電波の強度を確認すると見事に圏外だった。
「え……。嘘でしょ……。ここって圏外なんですか?田舎とは言え、流石にもう今の時代、圏外の場所って減ってきたんじゃ……。」
「圏外?何がでしょう?」
「えっと、電波です。携帯の電波。ここって電波届かないんでしょうか。」
「けいたいのでんぱ……。ごめんなさい……。私、さっきから何も答えられなくて、勉強は苦手で……。それに町で何が流行ってるとかも、あまり知らないんです……。」
「え、待ってください。携帯電話を使ったことないんですか?あ、まだ若いから買って貰った事がないとか?それならご両親が使ってる所は見たことありますか?」
「いえ……。私の親が、けいたい?とか言う物を使っている所は見たことないですね。うちは農家なので、鍬とか鎌とか鉈とかは良く使いますが。」
「え、え、」
訳が分からなかった。今の時代、スマホは生活の一部となっていて、最早手放す事ができない。スマホどころか、前時代の携帯電話すら存在を知らない人が居るのだろうか。しかも両親と子供そろって。僕は慌てて布団の上から這い出るように、転がり出るように、痛みなどお構いなしにもんどり打ちながら、明け放たれた部屋の先の縁側まで尺取り虫の様に這って行った。
「あっ、ちょっと!駄目ですってば!安静にしてないと!」
「嘘だろ……。」
その景色は、何処かで見たことのある景色だった。山々の形、その谷を流れる川、田畑の造形。一目見れば大山田の地だと、19年も住んでいれば嫌でも見違える事はなかった。だがしかし、決定的に欠けている物があった。電線や電柱、アスファルトで整備された道路、ガードレールや信号機などの人工物が、一切見当たらないのだ。所々に見える家屋も、現代の住宅ではなく、どこかで見たことのある様な茅葺屋根の古民家ばかりだった。
「あの……。あの!!」
「は、はい!何でしょう!?」
「今って、今の年号って令和ですよね?令和8年ですよね?」
「れいわ?いえ、今は天正です。天正13年です。それくらいなら、私でも分かります。」
雪は、軽く胸を張ると自信たっぷりといった面持ちで答える。聴いた事のない年号に、脳内が錯綜すると同時に悪い予感がした。僕は、雪が拾ってくれたリュックの中から、様々な歴史資料を一纏めにしたファイルを引っ張り出すと、何か年号が記された資料はないかと物色する。意外と和暦が載った資料はあまりないもので、西暦表記ばかりだった。唯一書籍として入れておいた、中世の山城の縄張りや構造等に関する本の、ページの後ろの方に付録として歴史年表があった事を思い出し、必死にページを捲った。
「あった……」
そこに記載された【天正18年(1590年)】の文字。この年に、かの豊臣秀吉は北条氏を降し、事実上の天下統一を果たした。雪の言う事が本当なのであれば、その5年前である天正13年に、僕はタイムスリップしてしまったのかもしれない。
「大丈夫ですか?やっぱりまだ休んだ方が良いですよ。顔色が悪いです。」
「え、えぇ。そうですね。そうします……。天正13年ですか……。まさか。まさかね……。」
僕は、本を持つ手が震え、力が抜け、どさりと本を床に落としてしまった。




