第5話 優雅なる災厄は、王家の招きを受ける
翌朝。
ヴァルフォルン公爵邸の朝は早い。
使用人たちはまだ陽が高く昇りきる前から動き始め、広い屋敷の隅々まで整えられていく。
庭師は露を含んだ芝を確かめ、侍女たちは朝食の準備と各室の支度に忙しく立ち働き、執事たちは主人の予定に合わせて一日の流れを調整していた。
そのすべてが整然と進んでいくのは、この家が名門公爵家であるからだけではない。
主たる者が乱れを嫌うからだ。
そして、その主の娘もまた、別の意味で乱れを嫌っていた。
「お嬢様、本日のご予定でございます」
朝食後の小サロン。
窓から差し込む柔らかな光の中で、セレスティアは紅茶を口にしていた。
夜会の翌朝だというのに、疲れた様子はほとんど見えない。
白銀の髪は今日も美しく整えられ、淡い青のドレスは朝の光に溶けるようによく似合っている。
その前に立つのは老執事。
昨夜の騒動を知ってなお、表情には職務上の揺らぎをほとんど見せない。
もっとも、内心が平穏でないことくらいは、長年仕えてきた者なら誰でも分かるだろう。
「午前中は旦那様との打ち合わせ。
その後、王城より非公式の使者が参る予定にございます」
セレスティアのティーカップを持つ手が、ほんのわずかに止まった。
「王城から」
「はい。
第一王子殿下のご意向とのことです」
「まあ」
その一言だけで、部屋の空気が少しだけ張る。
とはいえ、セレスティアの表情そのものはほとんど変わらない。
驚きはある。
だが慌ても恐れもない。
ただ、状況が一段先へ進んだと理解しただけの顔だ。
「お父様は?」
「すでに執務室にて待機しておられます」
「結構ですわ」
セレスティアはカップを置き、ナプキンで指先を軽く整えた。
「では参りましょう。
どうせ、お話の内容もある程度は見えておりますもの」
老執事は一礼する。
「左様でございますか」
「ええ。
第一王子殿下は、有能な方でしたもの。
昨夜の件を、ただの感情論で終わらせるとは思えませんわ」
その言葉を聞き、老執事はほんの少しだけ目を伏せた。
それが分かっていてなお落ち着いているあたり、やはりこの令嬢は普通ではない。
王家の視線が本格的に向き始めているというのに、緊張より先に分析が来る。
だからこそ最狂なのだろう、と彼は密かに思う。
執務室へ向かう廊下の途中。
セレスティアの隣には、当然のようにアルベルトがついていた。
「お嬢様」
「何ですの」
「本日の非公式の使者ですが、非公式であるからこそ面倒です」
「ええ、そうでしょうね」
「もっと警戒なさってください」
「しておりますわよ」
セレスティアは穏やかに返す。
「公式であれば記録も体裁も必要になりますけれど、非公式であれば相手は探りやすくなりますもの。
つまり今日は、こちらを測りに来るのでしょう?」
「その通りです」
「でしたら、わたくしも見ればよろしいだけでしょう」
アルベルトは内心で深く息を吐いた。
この人はいつだってそうだ。
誰かに見られることを恐れない。
むしろ、見るなら見ればいい、という側に立つ。
それは強者の発想であり、同時に危うい発想でもある。
「普通の令嬢は、“王家に見られる”ことをもっと重く受け止めます」
「わたくし、普通ではありませんもの」
さらりと言われ、アルベルトは反論を諦めた。
事実だからだ。
執務室の扉が開かれる。
中ではヴァルフォルン公爵レオニードがすでに席についていた。
夜を越えてもなお疲労は消えていないように見えるが、その視線は昨日よりは整理されている。
父としてではなく、公爵として状況を捉え直した目だ。
「来たか」
「お父様」
セレスティアは一礼する。
アルベルトもまたそれに倣った。
レオニードは机上の書状を軽く叩いた。
「王城からだ。
第一王子殿下が、昨夜の件について非公式に話をしたいとのことだ」
「やはり」
セレスティアの口調に驚きはない。
「予想していたのか」
「ええ。
昨夜の場の収め方からして、あの方は“その場しのぎ”だけをなさる方ではございませんもの」
レオニードはわずかに目を細めた。
娘の観察眼の鋭さには今さら驚かない。
だが、その鋭さが王族相手にも正確に機能していることを改めて確認すると、やはり頭が痛い。
「非公式ということは、あちらもまだ結論を決めていない」
「見定めるつもりでしょうね」
セレスティアが当然のように言う。
レオニードは一瞬だけ沈黙した。
「……お前もそう見るか」
「ええ。
咎めるだけなら公式に呼びつければよろしいのですもの。
わざわざ非公式にするということは、敵か味方か、あるいは使えるかどうかを測りたいのでしょう」
アルベルトが微かに視線を逸らす。
父娘そろって結論が同じなのだから救いがない。
「その言い方は少々刺々しい」
レオニードが言う。
「事実にございますわ」
「事実でも、口にする言葉は選べ」
「承知いたしました」
まったく承知していない声だった。
レオニードは軽く額を押さえたあと、すぐに本題へ戻る。
「会うのは避けられん。
私も同席する。
お前も来い」
「もちろんですわ」
「まず確認しておく。
妙な挑発はするな」
「いたしませんわ」
「本当か」
「先に挑発なさるのは、だいたい向こうですもの」
レオニードは数秒、娘を見つめた。
否定できないあたりが余計に困る。
「少なくとも、自分から余計な火種を増やすな」
「善処いたしますわ」
アルベルトが小さく目を閉じた。
またその返事だ。
そのとき、扉の外からノックの音が響く。
「旦那様。
王城からの使者がお見えです」
予想より少し早い。
レオニードが姿勢を正す。
「通せ」
入室してきたのは、三十代半ばほどの男だった。
王宮文官の正装に身を包み、礼節に一切の無駄がない。
名乗りからして、第一王子付き筆頭文官クラウス・ベルンシュタイン本人である。
有能な相手だと、部屋に入った瞬間に分かる。
目線の運びが速い。
部屋の人数、距離、立ち位置、空気。
それらを一息で確認している。
「朝早くから失礼いたします。
ヴァルフォルン公爵閣下、ならびにセレスティア嬢」
「ご足労痛み入ります」
レオニードが応じる。
セレスティアもまた一礼した。
「第一王子殿下より、昨夜の件について非公式にお話の場を設けたいとのご意向を預かって参りました」
「場所と時刻は」
「本日、午後。
王城東棟の小応接室にて」
レオニードは即座に計算する。
過度に閉じた場ではない。
だが公の会談とも言い切れない。
絶妙な設定だ。
「意図を伺っても?」
公爵として当然の問いだ。
クラウスはわずかに微笑した。
「昨夜の件につき、正式な沙汰の前に事実確認と相互理解を図りたい、とのことです」
きれいな言い回しだった。
だが中身は明白だ。
見たい。
測りたい。
先に輪郭を知っておきたい。
セレスティアは静かにクラウスを見た。
この文官もまた、有能である。
言葉を濁しながら本質を隠し切らない。
隠し切らないこと自体が、ある種の誠実さでもあり、駆け引きでもある。
「承知いたしましたわ」
彼女が先に口を開いた。
レオニードがわずかに横目で娘を見たが、止めはしなかった。
「第一王子殿下が理を重んじてくださるのであれば、わたくしもお話しする価値があると存じます」
クラウスの目がほんの少しだけ細くなる。
この令嬢はやはり、普通ではない。
王家からの呼び出しに対して、畏れや恐縮より先に“話す価値”という言葉が出る。
対等ではないことは理解しているはずなのに、精神の位置がまるで下がっていない。
「そのようにお伝えいたします」
レオニードが口を挟む。
「公爵家としても応じよう。
ただし、昨夜の件について一方的な責の押しつけが目的でないことは、あらかじめ確認しておきたい」
「承っております。
殿下にその意図はございません」
クラウスの答えに嘘は少ない。
少ないが、ゼロでもない。
レオニードはそう判断した。
意図はなくとも、結果としてそうなる可能性は常にある。
だからこそ非公式なのだ。
引き返しも軌道修正も可能なように。
「では、午後に」
「はい」
使者が退出すると、執務室には少しだけ重い沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのはアルベルトだった。
「確認ですが、お嬢様」
「何ですの」
「先ほどの“話す価値がある”は、非常にぎりぎりでした」
「褒め言葉かしら」
「違います」
即答だった。
レオニードもまた深く頷く。
「もう少し柔らかく言え」
「十分柔らかかったと思いますわ」
「お前基準ではな」
セレスティアは微かに首を傾げたが、それ以上は言い返さなかった。
父も護衛も同じ反応をするということは、少なくとも一般的にはそうなのだろう、と一応は理解している。
理解しているだけで、直す気は薄いが。
「お父様」
「何だ」
「第一王子殿下は、わたくしをどうご覧になると思われます?」
レオニードはすぐには答えなかった。
公爵として考える。
父としてではなく。
「危険視はする。
だが、切り捨てるには惜しいとも思うだろう」
「まあ」
「昨夜、お前は自分がただの感情論では動いていないと見せた。
そこが厄介だ。
感情で暴れる令嬢なら、いくらでも処理のしようがある。
だが、お前は理が通っている」
「光栄ですわ」
「褒めているわけではない」
昨日から何度目か分からないやり取りに、アルベルトが内心でため息をつく。
レオニードは続けた。
「第一王子は、有能だ。
有能な者は危険な刃を見れば、まず刃の切れ味と向きを確かめる。
抜くか、折るか、鞘に収めるかを決めるためにな」
「つまり」
「お前は、今日試される」
セレスティアは数秒黙ったのち。
ごくわずかに微笑んだ。
「でしたら、わたくしも見定めればよろしいのですわね」
レオニードは天を仰ぎたくなった。
やはりこの娘はそう来る。
試される側に回ることを嫌がらない。
むしろ、相手も観察対象にしてしまう。
それが強さであり、同時に厄介さでもある。
「相手は第一王子だ」
「ええ」
「忘れるな。
今回は夜会のように“場の勢い”で済む話ではない。
一つの言葉、一つの沈黙、視線の置き方一つまで意味を持つ」
「承知しておりますわ」
今度は、少しだけ本当に承知している声だった。
「ですが、お父様」
「何だ」
「理が通じる方なのでしょう?」
「少なくとも、ルシアン殿下よりはな」
「でしたら大丈夫ですわ。
理が通じる相手なら、お話はできますもの」
その言葉に、レオニードはごく短く息を吐いた。
それは、安堵にも似た息だったかもしれない。
この娘は、理の通じぬ相手には容赦しない。
だが理の通じる相手には、少なくとも話し合う余地を残す。
そこが最後の救いだ。
もっとも、その“話し合い”の基準がだいぶ苛烈なのだが。
午後までの時間は短い。
レオニードは机上の書類を整理しながら言う。
「セレスティア、衣装は控えめにしろ」
「地味に、という意味で?」
「威圧しすぎるな、という意味だ」
「難しいご注文ですわね」
「何がだ」
「わたくし、立っているだけで目立ってしまいますもの」
アルベルトが咳払いで笑いを誤魔化した。
レオニードは娘を見つめる。
この自信は傲慢ではない。
ただの事実認識だから始末が悪い。
「……青か白にしろ。
装飾は最小限だ」
「承知いたしましたわ」
「それから、武装はするな」
「護身用も?」
「するな」
「まあ」
「“まあ”ではない」
セレスティアは少しだけ考え込む。
その表情は真面目そのものだ。
本気で護身の最適解を失うことを惜しんでいる。
「魔法は」
レオニードが先回りして言う。
「撃つな」
「撃ちませんわよ、さすがに」
「昨夜があるから信用しきれん」
「心外ですわ」
まったく心外そうに見えない顔で返す。
アルベルトは静かに思う。
今日もまた、公爵閣下の胃は痛むだろう。
そしておそらく、第一王子も似たような目に遭うのだろう、と。
窓の外では、春の陽光が少しずつ強くなっていく。
王家の呼び出し。
非公式の会談。
第一王子と最狂公爵令嬢の対面。
それはまだ表向き、穏やかな会話の場に過ぎない。
だが実際には違う。
王家が公爵令嬢を見定めようとしている。
そして公爵令嬢もまた、王家を見定める気でいる。
どちらが相手を測り切るのか。
どちらが先に本質へ触れるのか。
静かなまま。
だが確実に。
次の一手は、もう始まっていた。




