第4話 第一王子は、優雅なる災厄を見定める
王城の一角にある第一王子宮は、深夜に入ってなお静まり返っていた。
広い執務室には余分な装飾が少ない。
壁に掛けられた地図、整然と並ぶ書架、磨き抜かれた机と燭台。
華美ではなく、必要なものだけを置いた空間だった。
その主であるエドワルド・アルトレイアもまた、部屋とよく似ていた。
無駄を嫌い。
感情で判断せず。
物事を、常に一段高い位置から見ている男。
王太子ではない。
だが王宮の人間で、次代の王に最も近いのは誰かと問われれば、多くが彼の名を挙げる。
そのエドワルドが今、手元の書類に目を落としていた。
――春の大夜会における騒動について。
そこに記されているのは簡潔な報告だ。
第三王子ルシアンが侍女へ暴力を振るい、公爵令嬢セレスティア・ヴァルフォルンがそれを制止。
近衛騎士が介入しようとするも、一瞬で制圧。
その後、第一王子が場を収めた。
文字に起こせば数行だ。
だが、エドワルドは知っている。
あの場にあった空気は、数行で片づくものではない。
「……面白い女だ」
低く漏れた独り言に、机の前へ控える側近が視線を上げた。
名をクラウス・ベルンシュタイン。
第一王子付きの筆頭文官であり、王宮でも屈指の切れ者として知られる男である。
「面白い、で済ませてよろしい案件でしょうか」
「済ませるつもりはない」
エドワルドは書類を机へ置く。
「だからこそ面白い、と言った」
クラウスは沈黙した。
この主は、危険と興味をしばしば同時に口にする。
セレスティア・ヴァルフォルン。
王都では以前から名の知れた公爵令嬢だった。
美貌、教養、礼儀作法、そのいずれを取っても一級。
だが同時に、剣技と魔法にも異常な才を持つという噂が絶えない。
問題は、その噂が今夜、噂ではなくなったことだ。
「近衛を一手で制圧した件について、裏は取れました」
クラウスが言う。
「剣だけではありません。
身体強化、空間把握系の魔法補助、さらに即応の攻撃術式まで同時展開していた可能性が高いと」
「可能性、ではないな。
していた」
エドワルドは淡々と訂正した。
「あれは迷いのない動きだった。
事前に想定し、訓練し、身体へ落とし込んでいなければできん」
クラウスは内心で同意する。
見ていた者の証言は分かれている。
速すぎて認識できなかったからだ。
だが、認識できなかったという事実そのものが、彼女の危険度を物語っている。
「ルシアン殿下は、相当にご立腹のようです」
「だろうな」
「ヴァルフォルン公爵家に抗議を入れるべきだと」
「本人が言っていたか」
「ええ」
エドワルドは鼻で笑うでもなく、ただわずかに目を細めた。
ルシアンは浅い。
感情で動き、自尊心を傷つけられた事実しか見ていない。
だから、自分がなぜ止められたのかも、自分の振る舞いがどれほど愚かだったかも、理解できていない。
「抗議を入れてどうする」
「公爵家へ圧をかけ、セレスティア嬢に謝罪させる、と」
「出来ると思うか」
クラウスは即答しなかった。
その沈黙自体が答えだった。
謝罪させる。
言うのは簡単だ。
だが相手はヴァルフォルン公爵家である。
王国有数の大貴族であり、財力、軍事力、政治力、いずれも並ではない。
しかも当主レオニード・ヴァルフォルンは、感情で動く男ではない。
娘の行動を全面的に褒めることはなくとも、理がある限り簡単には頭を下げまい。
そして何より。
「……あの令嬢が謝る姿が想像できません」
クラウスが率直に言う。
エドワルドの口元がごくわずかに動いた。
「同感だ」
それは本当に、想像しがたい。
セレスティア・ヴァルフォルンは高慢なのではない。
己の基準に従っているだけだ。
だから、自分が誤ったと納得しない限り、絶対に折れない。
ああいう人間は扱いにくい。
そして強い。
「殿下は、彼女をどうご覧になりますか」
クラウスの問いに、エドワルドはすぐには答えなかった。
窓の外は深夜の闇に沈んでいる。
王都の灯は遠く、静かに瞬いていた。
やがて彼は言う。
「危険だ」
それは迷いのない評価だった。
「だが、制御不能ではない」
クラウスが眉をわずかに上げる。
「そうお考えに?」
「感情で暴れていないからだ」
エドワルドの視線は鋭い。
「今夜の一件、あれは癇癪ではない。
第三王子の振る舞いを見て、理不尽と判断し、止めると決めた。
近衛が剣へ手をかけたから、制圧した。
私が場を収める理を示したから、従った。
全て一貫している」
「つまり」
「基準があるということだ」
そこは重要だった。
真に厄介なのは、基準のない怪物である。
いつ何に反応し、どこまで踏み込むか読めない存在。
だがセレスティアは違う。
基準がある。
その基準が苛烈で、常人よりかなり危ういだけだ。
「逆に言えば」
クラウスが言葉を継ぐ。
「その基準に触れれば、誰であろうと容赦しない、と」
「そういうことだ」
エドワルドは机を指先で一度だけ叩いた。
「王族だから許される、という考えを共有していない。
あれは王族を軽んじているのではない。
責務を果たさぬ王族に価値を見ていないのだ」
クラウスは内心でぞくりとした。
それは一種の正論だ。
だが、王宮においてその正論は猛毒にもなり得る。
「危険思想です」
「王族にとってはな」
「王国にとっても、では?」
エドワルドは少しだけ考えた。
「使い方次第だ」
クラウスは主の顔を見る。
やはりそう来るか、と思った。
この第一王子は、危険なものを見れば排除より先に配置を考える。
盤上のどこへ置けば最も有効か、常にそれを測る。
「囲い込むおつもりですか」
「その言い方は好きではない」
「では」
「見定める」
エドワルドは簡潔に言う。
「ヴァルフォルン公爵家の令嬢として危険なのか。
それとも、この国の膿を斬る刃になり得るのか。
まだ判断材料が足りん」
クラウスは黙した。
判断材料が足りない。
つまり、もっと見るつもりなのだ。
あの令嬢を。
「ルシアン殿下は、見定める前に敵に回しそうですが」
「だろうな」
「止められますか」
「止める」
即答だった。
「少なくとも、今はまだ壊させるには惜しい」
クラウスはそこで、ほんの一瞬だけ同情した。
セレスティアに対してではない。
ルシアンに対してである。
第一王子が「惜しい」と言った時点で、その対象はすでに盤上の駒として数えられている。
気づかぬまま動けば、弟であっても切り捨てられるだろう。
「もう一つ、気になる点がございます」
クラウスが新たな書類を差し出す。
「今夜の一件の後、ヴァルフォルン公爵家ではすでに動きがあったようです」
エドワルドが受け取り、目を走らせる。
「……早いな」
「はい。
邸内で報告をまとめ、王城側の動向も探っているようで」
「レオニード公爵らしい」
娘が騒ぎを起こした。
ならば後始末を即座に始める。
その点において、ヴァルフォルン公爵は実にまともだ。
「親子仲は良好だと?」
「少なくとも、表向きは。
ですが公爵は、娘を溺愛しつつ胃を痛めているという話も」
エドワルドは初めて、少しだけ分かる気がした。
たしかにあれは、胃を痛める娘だ。
美しく、頭が切れ、しかも容赦がない。
本人が正しいと思ったら止まらない。
だが責任からは逃げない。
扱いにくい。
実に、扱いにくい。
「クラウス」
「は」
「明朝、ヴァルフォルン公爵へ非公式に打診しろ」
「どのように」
「昨夜の件について、私個人として事実確認の場を持ちたい、と」
クラウスは即座に意図を読んだ。
公式ではない。
咎めるためでもない。
先に細い糸を通しておくのだ。
敵対ではなく、対話可能であると。
「公爵が応じるでしょうか」
「応じる。
応じざるを得ん」
エドワルドは静かに言う。
「昨夜、私が場を収めた。
あちらもその借りは理解している。
ならば、公爵は礼を欠かない」
「そして、その場にセレスティア嬢も?」
「当然だ」
エドワルドの目が冷たく光る。
「本人を見ずして、何を判断する」
クラウスは一礼した。
これで決まった。
第一王子は、セレスティア・ヴァルフォルンをただの令嬢としては扱わない。
一つの危険要素として。
あるいは、一つの可能性として。
正面から見るつもりだ。
そのときだった。
執務室の扉が叩かれる。
「殿下。
ルシアン様がお見えです」
クラウスが内心で眉をひそめた。
来ると思ってはいたが、やはり来た。
「通せ」
エドワルドが許可すると、扉が開く。
入ってきたルシアンはすでに夜会衣装から着替えていたが、その顔にはまだ怒りが色濃く残っていた。
「兄上」
「こんな時間に何だ」
「決まっています」
ルシアンの声は硬い。
「今夜の件です。
あの女、セレスティア・ヴァルフォルンをこのまま放っておくおつもりですか」
エドワルドは弟を見た。
浅く、熱く、そして分かりやすい。
扱いは容易だが、暴走すれば面倒な駒。
「放っておく、とは」
「公の場で僕に恥をかかせたのです。
しかも、兄上はあの女の肩を持った」
「肩を持った覚えはない。
場を収めただけだ」
「結果として同じでしょう!」
ルシアンが一歩踏み出す。
「僕は王族です。
それを公爵令嬢ごときが止め、近衛まで制した。
あれを見た貴族たちが、どう思うか分かっておいでですか」
「分かっているから言う」
エドワルドの声が低く落ちた。
「お前が昨夜、愚かな振る舞いをしたと」
部屋の空気が凍る。
ルシアンが目を見開いた。
クラウスは息すら殺す。
「……兄上」
「侍女に手を上げた。
衆目の前でな。
その時点で、お前は自分から王族の品位を捨てた」
「たかが侍女です!」
「その“たかが”を口にした時点で、お前は王族の器ではない」
冷たい断定だった。
ルシアンの顔が赤く染まる。
怒りか、屈辱か、その両方か。
だがエドワルドは止まらない。
「さらに、公爵令嬢に正論で止められ、近衛を動かし、それすら制された。
お前が問題視すべきは恥をかかされたことではない。
なぜ止められたかだ」
「兄上は、あの女の味方をなさるのですね」
「違う」
エドワルドははっきりと言った。
「私は王家の味方をしている。
だからこそ、お前の愚かさを指摘している」
ルシアンは唇を噛み、しばし何も言えなかった。
第一王子の前では、感情で押し切れない。
理で斬られると分かっているからだ。
やがて彼は、押し殺した声で言う。
「……では、どうなさるおつもりですか」
「何を」
「あの女のことです」
エドワルドは一拍置いた。
そして、極めて静かに告げる。
「見定める」
「は?」
「敵として斬るべきか。
王国のために使うべきか。
それを判断する」
ルシアンの顔が歪む。
「冗談ではない。
あんな危険な女を」
「危険だからこそ、先に測るのだ」
エドワルドの視線は揺るがない。
「お前は感情で敵を作る。
私は価値を見てから決める。
それだけの違いだ」
ルシアンは拳を握りしめた。
納得していない。
だが、ここでこれ以上言っても無駄だと理解している。
兄に論では勝てない。
だから彼は、別の熱を胸の奥へ沈めるしかなかった。
セレスティア・ヴァルフォルン。
その名を、怒りとともに刻みつけながら。
「……失礼します、兄上」
踵を返し、扉へ向かう。
だが出る直前、ルシアンは振り返りもせず言った。
「兄上がどう判断なさろうと、僕はあの女を忘れません」
扉が閉まる。
静寂が戻った。
クラウスはようやく息を吐く。
「面倒ですね」
「そうだな」
エドワルドは短く答えた。
「だが、面白くもある」
彼の目は、もはや弟ではなく別のものを見ていた。
白銀の髪。
蒼銀の瞳。
完璧な淑女の姿で、王族にも一歩も引かなかった公爵令嬢。
優雅なる災厄。
あれが王国にとって毒か、薬か。
あるいは、そのどちらでもあるのか。
見極める価値がある。
「クラウス」
「は」
「明日の打診、必ず通せ」
「承知いたしました」
燭台の火が揺れる。
深夜の王城で、静かに次の一手が決まりつつあった。
そしてその一手の中心にいる当人は、まだ知らない。
第一王子が自分を見定めると決めたことも。
第三王子が自分を忘れぬと決めたことも。
だが、いずれにせよ同じことだ。
セレスティア・ヴァルフォルンは、相手が誰であろうと基準を変えない。
それゆえに、王家の側もまた、彼女を無視できなくなった。
夜会で生まれた波紋は、もう社交界だけでは終わらない。
静かに。
確実に。
王家の内側へと広がり始めていた。




