表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第3話 公爵家の父は、娘が最狂だと知っている

ヴァルフォルン公爵家の馬車が王都の夜を滑るように進むころ。


その行き先である公爵邸では、主がまだ執務室に残っていた。


ヴァルフォルン公爵、レオニード・ヴァルフォルン。


四十代半ばに差しかかったその男は、端整な顔立ちに疲労の影を滲ませながらも、なお隙のない威厳を纏っていた。

白銀に近い灰髪を後ろへ流し、机の上には未決裁の書類が山と積まれている。


王都有数の名門公爵家当主にして、王国中枢にも深く関わる重鎮。

冷静沈着、理知的、寡黙。

社交界ではそう評されることが多い。


だが、その評価は半分しか当たっていない。


少なくとも今この場に限って言えば、彼の内心は穏やかではなかった。


「……遅いな」


低く漏れた独り言は、執務室の静寂に溶ける。


壁際に控えていた老執事が静かに答えた。


「本日は王城の春の大夜会でございます。

退出のお時間を考えれば、間もなくお戻りかと」


「分かっている」


レオニードは短く返した。


分かっているのだ。

娘が夜会に出れば、帰宅が遅くなるのは当然であると。

それでも落ち着かないのは、別の理由による。


彼の娘、セレスティア・ヴァルフォルンは、あまりにも目立つ。


容姿端麗。

才色兼備。

礼儀作法も教養も完璧。

それだけなら、父としてこれ以上なく誇らしい。


問題は、その中身だった。


「旦那様」


老執事が一礼しつつ声を落とす。


「申し上げにくいのですが」


「何だ」


「先ほど王城から早馬が参りました」


レオニードのこめかみがぴくりと動いた。


嫌な予感しかしない。


「……内容は」


老執事は一瞬だけ間を置いた。

それは、この家に長く仕えてきた彼なりの慈悲だったのかもしれない。


「お嬢様が夜会の場で、第三王子殿下をお止めになったとのことです」


レオニードは目を閉じた。


数拍の沈黙。


やがて彼は、ゆっくりと息を吐く。


「止めた、で済む内容か」


「近衛騎士とも一悶着あったと」


「一悶着」


「喉元に剣を突きつけ、同時に魔法も展開なさったそうです」


レオニードは額を押さえた。


とうとうやったか、という思いがまず来た。

次に来たのは、なぜ王城の夜会でやるのだ、である。


さらにその次には、だが娘ならやる、という極めて冷静な諦観が続いた。


「旦那様」


「分かっている。

頭を抱えるなという方が無理だ」


「恐れながら、私はまだ何も申し上げておりません」


「顔に書いてある」


老執事は沈黙した。

否定できなかった。


レオニードは椅子の背に身を預け、天井を仰ぐ。


セレスティアが理不尽を嫌うことは知っている。

嫌うどころではない。

彼女は理不尽を見れば、ほとんど本能のように切り捨てにかかる。


そこに身分の高低は関係ない。

むしろ、身分が高ければ高いほど厳しくなる。

責務が重い、と本気で考えているからだ。


その価値観自体は、公爵として理解できる。

むしろ理想論としては正しい。

だから困るのだ。


正しい理屈で、王族相手に剣を抜きかねない娘など、父として頭痛の種にしかならない。


「お嬢様らしい、と申し上げるべきでしょうか」


老執事が慎重に言う。


「らしいな」


レオニードは即答した。


「実にらしい。

だから困っている」


そこへ、扉が控えめに叩かれた。


「旦那様。

お嬢様がお戻りになりました」


若い使用人の声だった。


レオニードは目を閉じたまま一度だけ頷き、それから姿勢を正す。


「通せ」


扉が開く。


白銀の髪を夜会用の装いのまま揺らし、セレスティア・ヴァルフォルンが入室した。

隣には護衛騎士アルベルトの姿もある。


セレスティアは父を見ると、いつも通り優雅に一礼する。


「ただいま戻りましたわ、お父様」


「戻ったか」


レオニードの声は平静そのものだった。

だが娘を知る者なら、その平静が意図的なものであると理解できただろう。


セレスティアもまた、それを理解している。


「夜会はいかがでしたの?」


先に口を開いたのは娘の方だった。

しかも、ごく自然な世間話の口調である。


レオニードは数秒、娘を見つめた。


この娘は昔からこうだ。

とんでもないことをした直後でも、驚くほど自然に紅茶の話でも始められる。

本人の中で、“必要なことをしただけ”と完全に整理がついているからである。


「その問いは、普通なら父が娘へするものだろう」


「そうかもしれませんわ」


「だから、私が先に聞こう。

夜会で何をした」


セレスティアは小さく首を傾げた。


「何を、と申されましても」


「王城から早馬が来ている」


「あら。

お仕事が早いこと」


「感心している場合ではない」


わずかに声が低くなる。


だがセレスティアは微塵も動じない。


「第三王子殿下が侍女に手を上げておいででしたので、止めましたわ」


簡潔だった。


あまりにも簡潔すぎた。


レオニードは眉間を指で押さえる。


「近衛騎士の喉元に剣を突きつけた件は」


「止める過程で必要になりましたの」


「必要」


「剣を抜こうとなさいましたので」


「魔法も同時展開した件は」


「念のためですわ」


レオニードは深々と息を吐いた。


駄目だ。

一つ一つの行動に、娘の中では明確な合理性がある。

だから叱責が通じにくい。


「セレスティア」


「はい」


「お前は、王城の夜会で、王族と近衛を相手にしたのだぞ」


「ええ」


「少しは問題だと思わないのか」


「問題がございましたのは、王族が侍女に手を上げたことと、それを近衛が力で通そうとしたことですわね」


即答だった。


しかも正論である。


アルベルトが半歩後ろで無言を貫いているのは、ここで口を挟んでも状況が悪化するだけだと知っているからだ。


レオニードもそれは理解していた。


「私は、お前の理屈が分からないと言っているのではない」


「では?」


「正しい理屈を、正しいまま通せば済むほど、王都は単純ではないと言っている」


そこには、公爵としての実感が込められていた。


権力は理で動かない。

面子で動く。

恐れで動く。

損得で動く。

それが現実だ。


セレスティアのように、理不尽なら斬る、で済ませられるなら、どれほど楽か分からない。


だが娘は、その現実を理解した上でなお踏み込む。

それが厄介なのだ。


「承知しておりますわ」


「……本当にか」


「ええ。

その上で、見過ごす価値はないと判断いたしましたの」


レオニードはそこで、ようやく少しだけ口を閉ざした。


この娘は政治を知らぬわけではない。

駆け引きを知らぬわけでもない。

むしろ聡い。

聡いからこそ、計算の上でやっている。


だから父としては余計に頭が痛い。


「相手は誰だ」


「第三王子ルシアン殿下にございます」


「第一ではなく、第三か」


「途中で第一王子殿下もいらっしゃいましたわ」


レオニードの目が少し鋭くなる。


「エドワルド殿下が?」


「ええ。

場を収めてくださいました。

少なくとも、あの方はお話が通じますわね」


それを聞いて、レオニードは内心で評価を修正する。


最悪ではない。

第一王子がその場に入り、完全に敵対したわけではないなら、まだ致命傷ではない。


だが。


「ルシアン殿下は」


「公の場で恥をかかされたと思っておいででしょうね」


セレスティアがあまりにも当然のように言うので、レオニードは逆に疲れた顔になった。


「分かっていてやったのか」


「ええ」


「なぜだ」


「恥をかかぬよう振る舞うという選択肢が、向こうにありましたもの」


レオニードは無言で娘を見る。


これは駄目だ、と改めて思った。

この娘は、相手に逃げ道があったのだから問題ないと本気で考える。

だが権力者というものは、逃げ道があっても恥をかかされたと感じれば逆恨みする。


それが現実だ。


「お父様」


セレスティアが静かに呼ぶ。


「何だ」


「わたくし、間違っておりましたか」


その問いは、意外にも素直だった。


レオニードは少しだけ言葉に詰まる。


彼女は己の行いを悔いているわけではない。

ただ、父がどう判断するかを聞いている。

そして、父の判断が理に適うなら、おそらく受け入れるつもりでもある。


だからこそ、レオニードは誤魔化せなかった。


「……いや」


低く、重い声で答える。


「お前の見たものが報告通りなら、止めたこと自体は間違っていない」


アルベルトがわずかに目を伏せた。

やはりそうなる、と。


セレスティアの瞳もまた、わずかに和らぐ。


だがレオニードは続けた。


「だが、正しいことをしたからといって、無傷で済むとは限らない。

それが分かっていて踏み込むなら、後始末まで含めて責任を持て」


「もちろんですわ」


「口で言うのは容易い」


「口だけではございませんもの」


その返答に、レオニードは苦笑に近い吐息を漏らした。


まったく、この娘は。


「アルベルト」


「はっ」


「今夜の一件、詳細を明朝までに文書でまとめろ。

目撃者、関係者、第一王子の介入時点まで含めてだ」


「承知いたしました」


「セレスティア」


「はい」


「しばらくは単独行動を控えろ」


「それは護衛を増やすという意味で?」


「増やしたいのはこちらだ。

お前は減らしたいと思っている顔をするな」


「表情に出ておりました?」


「出ている」


「それは失礼いたしましたわ」


少しも失礼だと思っていない声だった。


レオニードは椅子から立ち上がる。


公爵としてではなく、父として娘の前へ歩み寄る。


近くで見るセレスティアは、今夜も完璧に美しい。

姿勢に乱れはなく、目にも迷いはない。

本当に、この顔で王族相手にやり合ってきたのかと毎度のように思う。


「セレスティア」


「はい、お父様」


「私はお前を誇りに思っている」


アルベルトが目を上げた。

老執事もまた、静かに息を止める。


レオニードは続ける。


「理不尽を見て見ぬふりをしなかったことも。

身分に怯まず、自分の基準で立ったこともだ」


セレスティアは黙って父を見つめる。


「だが同時に、お前は私の胃を痛める天才でもある」


数秒の沈黙。


それから、セレスティアはほんのわずかに目を丸くし。


次の瞬間には、くすりと笑った。


「それは申し訳ございませんわ」


「本当にそう思うなら、もう少し穏便にしろ」


「穏便でしたわよ」


「近衛の喉元に剣を突きつけておいて?」


「首は落としておりませんもの」


レオニードは片手で顔を覆った。


やはり駄目だ。

この基準は父にもどうしようもない。


アルベルトが極めて小さく視線を逸らしているのは、笑うと不敬だからだろう。


「お父様」


「何だ」


「ご心配には及びませんわ」


セレスティアの声は静かで、それでいて妙に強かった。


「わたくし、無意味な喧嘩を売る趣味はございませんもの。

必要があれば、勝てる相手にしか踏み込みませんわ」


レオニードは顔を上げた。


それは安心材料ではない。


むしろ、相手が王族でも“勝てる”と判断すれば踏み込むという宣言に等しい。


「それを聞いて安心できる父親がいると思うか」


「いらっしゃらないかもしれませんわね」


「他人事のように言うな」


セレスティアは小さく肩をすくめた。


その仕草さえ優雅なのが、また腹立たしい。


だがレオニードは、そこでようやく一つの結論に達していた。


娘を止めることはできない。

少なくとも、理で納得しない限りは。

ならば必要なのは、押さえつけることではなく、先回りして被害を最小化することだ。


公爵としても、父としても。


「いいだろう」


レオニードは低く告げる。


「今夜の件は私が処理する。

王城への根回しも、必要な説明もこちらで行う」


「助かりますわ」


「だが、お前も明日は同席しろ。

逃がさん」


「もちろんですわ」


その即答に、レオニードは少しだけ目を細める。


「……本当に、逃げる気はないのだな」


「ございませんわ。

わたくし、したことに責任は持ちますもの」


それは父として、少しだけ救われる言葉でもあった。


最狂であっても。

いや、最狂だからこそかもしれない。

この娘は、自分の行いを他人に押しつけない。


そこだけは、昔から変わらなかった。


「もう下がれ。

今夜は遅い」


「はい、お父様。

おやすみなさいませ」


セレスティアは一礼し、執務室を出ていく。

アルベルトもまた、それに続いた。


扉が閉まったあと。


しばしの沈黙を経て、老執事がそっと尋ねる。


「旦那様」


「何だ」


「お嬢様の件、いかがなさいますか」


レオニードは窓の外、王都の夜景を見た。


王城は遠くに光っている。

あの場所で、娘はまた一つ波紋を広げたのだ。


「どうもこうもない」


彼は静かに言う。


「セレスティアは止まらん。

ならば、止まれぬ娘が致命傷を負わぬよう、こちらが動くしかない」


「では」


「まずは第一王子の出方を探る。

それから、第三王子側に余計な入れ知恵をする連中を洗う」


その声音はもう、完全に公爵のものだった。


冷静で。

鋭く。

容赦がない。


老執事は深く一礼する。


「承知いたしました」


レオニードは最後に、小さく息を吐いた。


「まったく……」


その独り言は、公爵としてではなく、ただの父親のものだった。


「どうして私の娘は、ああも美しく、ああも厄介なんだ」


答えは、誰も持っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ