第3話 公爵家の父は、娘が最狂だと知っている
ヴァルフォルン公爵家の馬車が王都の夜を滑るように進むころ。
その行き先である公爵邸では、主がまだ執務室に残っていた。
ヴァルフォルン公爵、レオニード・ヴァルフォルン。
四十代半ばに差しかかったその男は、端整な顔立ちに疲労の影を滲ませながらも、なお隙のない威厳を纏っていた。
白銀に近い灰髪を後ろへ流し、机の上には未決裁の書類が山と積まれている。
王都有数の名門公爵家当主にして、王国中枢にも深く関わる重鎮。
冷静沈着、理知的、寡黙。
社交界ではそう評されることが多い。
だが、その評価は半分しか当たっていない。
少なくとも今この場に限って言えば、彼の内心は穏やかではなかった。
「……遅いな」
低く漏れた独り言は、執務室の静寂に溶ける。
壁際に控えていた老執事が静かに答えた。
「本日は王城の春の大夜会でございます。
退出のお時間を考えれば、間もなくお戻りかと」
「分かっている」
レオニードは短く返した。
分かっているのだ。
娘が夜会に出れば、帰宅が遅くなるのは当然であると。
それでも落ち着かないのは、別の理由による。
彼の娘、セレスティア・ヴァルフォルンは、あまりにも目立つ。
容姿端麗。
才色兼備。
礼儀作法も教養も完璧。
それだけなら、父としてこれ以上なく誇らしい。
問題は、その中身だった。
「旦那様」
老執事が一礼しつつ声を落とす。
「申し上げにくいのですが」
「何だ」
「先ほど王城から早馬が参りました」
レオニードのこめかみがぴくりと動いた。
嫌な予感しかしない。
「……内容は」
老執事は一瞬だけ間を置いた。
それは、この家に長く仕えてきた彼なりの慈悲だったのかもしれない。
「お嬢様が夜会の場で、第三王子殿下をお止めになったとのことです」
レオニードは目を閉じた。
数拍の沈黙。
やがて彼は、ゆっくりと息を吐く。
「止めた、で済む内容か」
「近衛騎士とも一悶着あったと」
「一悶着」
「喉元に剣を突きつけ、同時に魔法も展開なさったそうです」
レオニードは額を押さえた。
とうとうやったか、という思いがまず来た。
次に来たのは、なぜ王城の夜会でやるのだ、である。
さらにその次には、だが娘ならやる、という極めて冷静な諦観が続いた。
「旦那様」
「分かっている。
頭を抱えるなという方が無理だ」
「恐れながら、私はまだ何も申し上げておりません」
「顔に書いてある」
老執事は沈黙した。
否定できなかった。
レオニードは椅子の背に身を預け、天井を仰ぐ。
セレスティアが理不尽を嫌うことは知っている。
嫌うどころではない。
彼女は理不尽を見れば、ほとんど本能のように切り捨てにかかる。
そこに身分の高低は関係ない。
むしろ、身分が高ければ高いほど厳しくなる。
責務が重い、と本気で考えているからだ。
その価値観自体は、公爵として理解できる。
むしろ理想論としては正しい。
だから困るのだ。
正しい理屈で、王族相手に剣を抜きかねない娘など、父として頭痛の種にしかならない。
「お嬢様らしい、と申し上げるべきでしょうか」
老執事が慎重に言う。
「らしいな」
レオニードは即答した。
「実にらしい。
だから困っている」
そこへ、扉が控えめに叩かれた。
「旦那様。
お嬢様がお戻りになりました」
若い使用人の声だった。
レオニードは目を閉じたまま一度だけ頷き、それから姿勢を正す。
「通せ」
扉が開く。
白銀の髪を夜会用の装いのまま揺らし、セレスティア・ヴァルフォルンが入室した。
隣には護衛騎士アルベルトの姿もある。
セレスティアは父を見ると、いつも通り優雅に一礼する。
「ただいま戻りましたわ、お父様」
「戻ったか」
レオニードの声は平静そのものだった。
だが娘を知る者なら、その平静が意図的なものであると理解できただろう。
セレスティアもまた、それを理解している。
「夜会はいかがでしたの?」
先に口を開いたのは娘の方だった。
しかも、ごく自然な世間話の口調である。
レオニードは数秒、娘を見つめた。
この娘は昔からこうだ。
とんでもないことをした直後でも、驚くほど自然に紅茶の話でも始められる。
本人の中で、“必要なことをしただけ”と完全に整理がついているからである。
「その問いは、普通なら父が娘へするものだろう」
「そうかもしれませんわ」
「だから、私が先に聞こう。
夜会で何をした」
セレスティアは小さく首を傾げた。
「何を、と申されましても」
「王城から早馬が来ている」
「あら。
お仕事が早いこと」
「感心している場合ではない」
わずかに声が低くなる。
だがセレスティアは微塵も動じない。
「第三王子殿下が侍女に手を上げておいででしたので、止めましたわ」
簡潔だった。
あまりにも簡潔すぎた。
レオニードは眉間を指で押さえる。
「近衛騎士の喉元に剣を突きつけた件は」
「止める過程で必要になりましたの」
「必要」
「剣を抜こうとなさいましたので」
「魔法も同時展開した件は」
「念のためですわ」
レオニードは深々と息を吐いた。
駄目だ。
一つ一つの行動に、娘の中では明確な合理性がある。
だから叱責が通じにくい。
「セレスティア」
「はい」
「お前は、王城の夜会で、王族と近衛を相手にしたのだぞ」
「ええ」
「少しは問題だと思わないのか」
「問題がございましたのは、王族が侍女に手を上げたことと、それを近衛が力で通そうとしたことですわね」
即答だった。
しかも正論である。
アルベルトが半歩後ろで無言を貫いているのは、ここで口を挟んでも状況が悪化するだけだと知っているからだ。
レオニードもそれは理解していた。
「私は、お前の理屈が分からないと言っているのではない」
「では?」
「正しい理屈を、正しいまま通せば済むほど、王都は単純ではないと言っている」
そこには、公爵としての実感が込められていた。
権力は理で動かない。
面子で動く。
恐れで動く。
損得で動く。
それが現実だ。
セレスティアのように、理不尽なら斬る、で済ませられるなら、どれほど楽か分からない。
だが娘は、その現実を理解した上でなお踏み込む。
それが厄介なのだ。
「承知しておりますわ」
「……本当にか」
「ええ。
その上で、見過ごす価値はないと判断いたしましたの」
レオニードはそこで、ようやく少しだけ口を閉ざした。
この娘は政治を知らぬわけではない。
駆け引きを知らぬわけでもない。
むしろ聡い。
聡いからこそ、計算の上でやっている。
だから父としては余計に頭が痛い。
「相手は誰だ」
「第三王子ルシアン殿下にございます」
「第一ではなく、第三か」
「途中で第一王子殿下もいらっしゃいましたわ」
レオニードの目が少し鋭くなる。
「エドワルド殿下が?」
「ええ。
場を収めてくださいました。
少なくとも、あの方はお話が通じますわね」
それを聞いて、レオニードは内心で評価を修正する。
最悪ではない。
第一王子がその場に入り、完全に敵対したわけではないなら、まだ致命傷ではない。
だが。
「ルシアン殿下は」
「公の場で恥をかかされたと思っておいででしょうね」
セレスティアがあまりにも当然のように言うので、レオニードは逆に疲れた顔になった。
「分かっていてやったのか」
「ええ」
「なぜだ」
「恥をかかぬよう振る舞うという選択肢が、向こうにありましたもの」
レオニードは無言で娘を見る。
これは駄目だ、と改めて思った。
この娘は、相手に逃げ道があったのだから問題ないと本気で考える。
だが権力者というものは、逃げ道があっても恥をかかされたと感じれば逆恨みする。
それが現実だ。
「お父様」
セレスティアが静かに呼ぶ。
「何だ」
「わたくし、間違っておりましたか」
その問いは、意外にも素直だった。
レオニードは少しだけ言葉に詰まる。
彼女は己の行いを悔いているわけではない。
ただ、父がどう判断するかを聞いている。
そして、父の判断が理に適うなら、おそらく受け入れるつもりでもある。
だからこそ、レオニードは誤魔化せなかった。
「……いや」
低く、重い声で答える。
「お前の見たものが報告通りなら、止めたこと自体は間違っていない」
アルベルトがわずかに目を伏せた。
やはりそうなる、と。
セレスティアの瞳もまた、わずかに和らぐ。
だがレオニードは続けた。
「だが、正しいことをしたからといって、無傷で済むとは限らない。
それが分かっていて踏み込むなら、後始末まで含めて責任を持て」
「もちろんですわ」
「口で言うのは容易い」
「口だけではございませんもの」
その返答に、レオニードは苦笑に近い吐息を漏らした。
まったく、この娘は。
「アルベルト」
「はっ」
「今夜の一件、詳細を明朝までに文書でまとめろ。
目撃者、関係者、第一王子の介入時点まで含めてだ」
「承知いたしました」
「セレスティア」
「はい」
「しばらくは単独行動を控えろ」
「それは護衛を増やすという意味で?」
「増やしたいのはこちらだ。
お前は減らしたいと思っている顔をするな」
「表情に出ておりました?」
「出ている」
「それは失礼いたしましたわ」
少しも失礼だと思っていない声だった。
レオニードは椅子から立ち上がる。
公爵としてではなく、父として娘の前へ歩み寄る。
近くで見るセレスティアは、今夜も完璧に美しい。
姿勢に乱れはなく、目にも迷いはない。
本当に、この顔で王族相手にやり合ってきたのかと毎度のように思う。
「セレスティア」
「はい、お父様」
「私はお前を誇りに思っている」
アルベルトが目を上げた。
老執事もまた、静かに息を止める。
レオニードは続ける。
「理不尽を見て見ぬふりをしなかったことも。
身分に怯まず、自分の基準で立ったこともだ」
セレスティアは黙って父を見つめる。
「だが同時に、お前は私の胃を痛める天才でもある」
数秒の沈黙。
それから、セレスティアはほんのわずかに目を丸くし。
次の瞬間には、くすりと笑った。
「それは申し訳ございませんわ」
「本当にそう思うなら、もう少し穏便にしろ」
「穏便でしたわよ」
「近衛の喉元に剣を突きつけておいて?」
「首は落としておりませんもの」
レオニードは片手で顔を覆った。
やはり駄目だ。
この基準は父にもどうしようもない。
アルベルトが極めて小さく視線を逸らしているのは、笑うと不敬だからだろう。
「お父様」
「何だ」
「ご心配には及びませんわ」
セレスティアの声は静かで、それでいて妙に強かった。
「わたくし、無意味な喧嘩を売る趣味はございませんもの。
必要があれば、勝てる相手にしか踏み込みませんわ」
レオニードは顔を上げた。
それは安心材料ではない。
むしろ、相手が王族でも“勝てる”と判断すれば踏み込むという宣言に等しい。
「それを聞いて安心できる父親がいると思うか」
「いらっしゃらないかもしれませんわね」
「他人事のように言うな」
セレスティアは小さく肩をすくめた。
その仕草さえ優雅なのが、また腹立たしい。
だがレオニードは、そこでようやく一つの結論に達していた。
娘を止めることはできない。
少なくとも、理で納得しない限りは。
ならば必要なのは、押さえつけることではなく、先回りして被害を最小化することだ。
公爵としても、父としても。
「いいだろう」
レオニードは低く告げる。
「今夜の件は私が処理する。
王城への根回しも、必要な説明もこちらで行う」
「助かりますわ」
「だが、お前も明日は同席しろ。
逃がさん」
「もちろんですわ」
その即答に、レオニードは少しだけ目を細める。
「……本当に、逃げる気はないのだな」
「ございませんわ。
わたくし、したことに責任は持ちますもの」
それは父として、少しだけ救われる言葉でもあった。
最狂であっても。
いや、最狂だからこそかもしれない。
この娘は、自分の行いを他人に押しつけない。
そこだけは、昔から変わらなかった。
「もう下がれ。
今夜は遅い」
「はい、お父様。
おやすみなさいませ」
セレスティアは一礼し、執務室を出ていく。
アルベルトもまた、それに続いた。
扉が閉まったあと。
しばしの沈黙を経て、老執事がそっと尋ねる。
「旦那様」
「何だ」
「お嬢様の件、いかがなさいますか」
レオニードは窓の外、王都の夜景を見た。
王城は遠くに光っている。
あの場所で、娘はまた一つ波紋を広げたのだ。
「どうもこうもない」
彼は静かに言う。
「セレスティアは止まらん。
ならば、止まれぬ娘が致命傷を負わぬよう、こちらが動くしかない」
「では」
「まずは第一王子の出方を探る。
それから、第三王子側に余計な入れ知恵をする連中を洗う」
その声音はもう、完全に公爵のものだった。
冷静で。
鋭く。
容赦がない。
老執事は深く一礼する。
「承知いたしました」
レオニードは最後に、小さく息を吐いた。
「まったく……」
その独り言は、公爵としてではなく、ただの父親のものだった。
「どうして私の娘は、ああも美しく、ああも厄介なんだ」
答えは、誰も持っていなかった。




