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第2話 優雅なる災厄は、静かに広がる

「ルシアン。こちらへ」


第一王子エドワルドの声は低く、よく通った。


夜会の空気をこれ以上乱さぬよう抑えられている。

だが、その奥にある有無を言わせぬ圧は、第三王子であるルシアンにも明確に伝わっていた。


「……承知しました、兄上」


ルシアンは苦々しく答える。

その顔には怒りも屈辱も浮かんでいたが、さすがにこれ以上この場で食い下がるほど愚かではなかった。


彼はセレスティアをひと睨みし、踵を返す。


その背を見送りながら、貴族たちはようやく止めていた息を細く吐き出した。

だがざわめきは戻らない。

誰もがまだ、目の前で起きたことを飲み込みきれていなかったからだ。


王族を止めた。

近衛騎士を一瞬で制した。

それでいて、何事もなかったように扇を手に立つ公爵令嬢。


あまりにも異質だった。


「セレスティア嬢」


エドワルドが改めて彼女を見た。


「この場は収める。

だが、今宵の件については後日、正式に確認を取ることになるだろう」


「当然にございますわ」


セレスティアは優雅に一礼する。


「わたくしも、必要であれば事実をそのまま申し上げます」


その返答に、エドワルドの灰青の瞳がわずかに細められた。


この女は、本当に一切ぶれない。


王族の顔色を窺って言葉を濁す気配がない。

自分にとって正しい基準に沿って、ただそのまま行動しているだけだ。


だからこそ、危うい。

同時に、利用価値ではなく、警戒すべき“力”として見なければならない。


「……そうか」


短く答え、エドワルドは近くの侍従へ視線を向ける。


「侍女を医官へ。

事情聴取は監督役立ち会いのもとで行え。

今夜の件に関わった者の名も控えておけ」


「はっ」


侍従が緊張した面持ちで頭を下げる。

その動きは速かった。

第一王子が出てきた以上、ここから先は王家の問題だと皆が理解したからだ。


セレスティアはそれを見届けると、もう十分だと判断した。


「では、わたくしはこれにて失礼いたしますわ」


「待ってくださいませ、セレスティア様」


控えめな、しかしどこか切迫した声がかかった。


振り返ると、先ほどの侍女がいた。

頬はまだ赤く腫れているが、医官の手当てを受ける前にどうしても礼を言いたかったのだろう。


「……ありがとうございました」


その声は震えていた。


「お礼を申し上げる立場ではないのかもしれません。

それでも、申し上げずにはいられませんでした。

わたくし……っ」


言葉の先が涙に詰まる。


セレスティアは数拍、侍女を見つめた。

周囲の貴族たちも固唾を呑んで見守っている。


彼女がどんな言葉を返すのか。

それすら今は、社交界におけるひとつの事件だった。


「そう」


セレスティアは静かに答えた。


「それなら、二度と簡単に踏みにじられないようになさいませ」


侍女が目を見開く。


「恐怖で動けなくなること自体は恥ではございませんわ。

ですが、自分が傷つけられてよい人間だと思い込むのはおやめなさい」


その言葉は優しかった。

少なくとも、口調だけを聞けば。


だが内容は、どこまでも厳しい。


「あなたが弱い立場であろうと、誰かの鬱憤を受け止める義務はございません。

謝罪と服従を取り違えないことですわ」


侍女は唇を震わせ、やがて深く頭を下げた。


「……はい」


それだけで十分だった。


セレスティアはそれ以上何も言わず、その場を離れる。


彼女の後ろ姿を、広間中の者たちが見つめていた。


完璧な所作。

流れるような歩み。

微塵も乱れない背筋。


その美しさは、先ほどまでの出来事すら幻であったかのように思わせる。

だが、違う。

あれは確かに現実だった。


「とんでもない令嬢だ……」

「王族相手に、あそこまで……」

「しかも近衛騎士を一合ですらなく……」

「剣だけではなかった。

魔法も同時だったぞ」

「まさか、噂は誇張ではなかったのか……」


小さく、抑えたざわめきが広がる。


そしてそのざわめきは、会場の端で控えていた一人の男の耳にも届いていた。


長身の青年だった。

黒に近い深緑の髪を後ろで束ね、騎士服を隙なく着こなしている。

王家直属ではなく、公爵家の護衛騎士であることを示す意匠が胸元にあった。


アルベルト・グランツ。


ヴァルフォルン公爵家に仕える筆頭護衛騎士であり、幼い頃からセレスティアに仕えてきた男だ。


彼はセレスティアが近づいてくると、一礼した。


「お戻りになりますか、お嬢様」


「ええ。

今夜はもう十分ですわ」


「そうでしょうとも」


アルベルトの返事は即答だった。

その声音に呆れはあるが、驚きはほとんどない。


周囲の貴族がそれに気づき、内心で戦慄する。

つまりこの男にとって、今の一件は想定外ですらないのだ。


「何か言いたそうですわね」


セレスティアが視線だけで問う。


アルベルトはわずかに眉を下げた。


「いえ。

お嬢様がルシアン殿下を止めるところまでは予想しておりました」


「そこまでは、とは?」


「近衛の喉元に剣と魔法を同時に突きつけるところまでは、少々予定を上回りました」


「そう?」


「はい」


アルベルトは淡々と答える。


「もう少し穏便に済まされるかと」


「穏便でしたわよ」


セレスティアは当然のように言った。


「首は落としておりませんもの」


アルベルトは沈黙した。


この“首は落としていないから穏便”という基準に、いまだ完全には慣れない。

十年近く仕えていてもだ。


「……左様でございますか」


「何ですの。

その不満そうなお顔は」


「いえ。

お嬢様の穏便の定義が、世間一般と少々ずれているだけです」


「世間一般が軟弱すぎるのですわ」


さらりと言い切る。


アルベルトはもはや反論しなかった。

ここで議論しても無駄だと知っているからだ。


セレスティアにとって“必要以上に殺さない”は十分に自制であり、譲歩であり、穏当なのだ。

その価値観そのものが、常人とは根本的に異なっている。


「馬車の用意を」


「すでに」


「結構」


二人は並んで歩き出す。


その途中、セレスティアはふと足を止めた。

視線の先には、柱の陰からこちらを見ていた若い令嬢がいた。


淡い栗色の髪に、緊張で強張った顔。

先ほど、侍女が打たれたときに最初に小さく息を呑んでいた下位伯爵家の令嬢である。


目が合った瞬間、その令嬢はびくりと肩を震わせた。

だが、セレスティアは責めるような目は向けない。


「何か」


令嬢はおずおずと口を開く。


「あ、あの……セレスティア様は、怖くないのですか」


「何がですの?」


「……王族に逆らうことが、です」


またその問いか、とセレスティアは思った。

今夜だけでも何度も向けられた視線だ。


だが、問う側の心理は理解できる。

多くの者にとって、王族とはそれ自体が絶対的な圧なのだ。


認知の基準点がそこにある。

逆らえば損をする。

従えば傷は浅い。

人はそうやって、自分の判断を権威へ外注する。


だがセレスティアは、最初からその前提を共有していない。


「怖いですわよ」


彼女は先ほどと同じように答えた。


令嬢の目が少し見開かれる。


「怖いからこそ、余計に見極めますの」


「見極める……?」


「相手が本当に従う価値のある権威かどうか、ですわ」


静かな声だった。


「高い身分は、それだけで尊ぶべきもの。

そこまでは正しいですの。

でも、高い身分だから何をしても許されるというのは、ただの怠慢ですわ」


令嬢は息を呑む。


セレスティアは続けた。


「自分より強い立場の者に逆らわないのは、生存戦略としては間違っておりません。

けれど、それを繰り返していると、やがて“何をされても仕方ない”と思うようになりますの」


それは学習だった。

痛みを避けるための適応。

だが、適応は時に人から尊厳を奪う。


「ですから、最低限の線は引くべきですわ。

どこまでなら許し、どこから先は許さないのか。

自分の中で決めておかないと、他人は際限なく踏み込んでまいりますもの」


令嬢は青ざめながらも、真剣に聞いていた。


セレスティアは最後に言う。


「もっとも」


その微笑みは、あまりにも美しかった。


「その線を越えた者を確実に沈める力があるなら、話は早いのですけれど」


令嬢は凍りついた。


やはり、この人は怖い。

優しいのではない。

ただ、基準が一貫しているだけだ。


そしてその基準が、常人よりはるかに苛烈なのだ。


「……失礼いたしました」


令嬢は深々と頭を下げる。


セレスティアは軽く頷き、今度こそ歩き出した。


夜会会場の外廊下は静かだった。

大広間の喧騒が遠のき、窓の外には王都の夜景が広がっている。

月明かりが石床に淡く落ち、ひんやりとした夜気が頬を撫でた。


「お嬢様」


アルベルトが半歩後ろから声をかける。


「何ですの」


「今夜の件、公爵閣下にはどうご報告なさいますか」


「ありのままですわ」


「ルシアン殿下を止め、近衛騎士を制圧し、第一王子殿下とやり取りをした、と」


「ええ」


「公爵閣下が頭を抱えられます」


「いつものことではなくて?」


アルベルトは否定しなかった。


ヴァルフォルン公爵は娘を溺愛している。

同時に、その危険性もよく理解している。

だからこそ頭痛の種でもあるのだ。


「ですが今回は相手が王族です」


「だから何ですの」


セレスティアは本気で首を傾げた。


「王族であろうと、間違っていれば止めるべきでしょう?」


「理屈はその通りです」


「なら問題ありませんわ」


「問題は山ほどあります」


きっぱり返され、セレスティアはわずかに目を細めた。


「アルベルト」


「はい」


「あなた、最近少し口が減っておりませんこと?」


「増えております」


「不敬ですわね」


「お嬢様相手に今さらです」


そんな応酬をしながらも、二人の歩調は乱れない。


やがて玄関ホールへ辿り着くと、ヴァルフォルン公爵家の紋章を刻んだ馬車が待機していた。

御者も従者もすでに配置についている。


アルベルトが扉を開く。


セレスティアが乗り込もうとした、そのときだった。


「お待ちいただけるかな、セレスティア嬢」


またしても呼び止める声。


振り返れば、そこに立っていたのは第一王子エドワルドだった。

先ほどまでの公的な顔とは少し違う。

だが警戒心は消えていない。

むしろ近くで見るほど、その男が弟より遥かに危険であることが分かる。


「第一王子殿下」


セレスティアは馬車の前で一礼する。

アルベルトは一歩前へ出かけたが、セレスティアが視線で制した。


「お見送りにしては物々しいですわね」


「世間話をしに来たつもりはない」


「でしょうね」


エドワルドは数秒、彼女を見つめた。

値踏みではない。

確認だ。


今夜、自分が見たものが本物かどうかを。


「君は弟を止めた」


「ええ」


「それ自体について咎めるつもりはない。

あれは確かに、王族として褒められた振る舞いではなかった」


「ご理解が早くて助かりますわ」


「だが」


エドワルドの声がわずかに低くなる。


「君は引き際を誤れば、王家にとっても、公爵家にとっても、危険な存在になり得る」


アルベルトの指先がぴくりと動いた。


それは事実だ。

そして脅しでもある。


だがセレスティアは少しも動じない。


「ずいぶんと遠回しですのね、殿下」


「何?」


「要するに、“使える猛獣か、それとも首輪の利かぬ災厄か見極めたい”のでしょう?」


一瞬、沈黙が落ちた。


アルベルトが心の中で頭を抱える。

この主人は本当に言葉を選ばない。

いや、選んだ上で急所を抉る。


エドワルドは怒らなかった。

代わりに、口元がわずかに硬くなる。


「……自覚はあるようだな」


「猛獣は心外ですわ。

わたくし、噛みつく相手は選んでおりますもの」


「それを世間は危険人物と呼ぶ」


「でしたら、世間の語彙が貧しいのですわ」


セレスティアは平然と言い切った。


「わたくしは理不尽を嫌うだけです。

身分で判断を変える気もございません。

もっとも、理に適う相手には従いますけれど」


その言葉を聞き、エドワルドは今夜の彼女の振る舞いを思い返す。

たしかにそうだ。

彼女はルシアンには容赦しなかったが、自分の仲裁には応じた。


感情で暴れてはいない。

一貫した基準に従っている。


だからこそ余計に扱いづらい。


「君のような者は、敵に回れば厄介だ」


「光栄ですわ」


「褒めていない」


「存じております」


エドワルドは小さく息を吐いた。


「一つだけ忠告しておく。

今夜の件で、ルシアンは君を忘れないだろう。

おそらくは、公の場で恥をかかされたと受け取る」


「事実ではなくて?」


「事実でも、人は傷つけば歪む」


その言葉には重みがあった。

エドワルド自身、権力の中枢にいるからこそ知っている。

誇りを傷つけられた無能な権力者ほど厄介なものはない。


だがセレスティアは、扇を閉じたまま淡々と答える。


「それで?」


エドワルドの眉がわずかに動く。


「警戒しないのか」


「しておりますわ」


「それでその態度か」


「警戒してなお、恐れるに値しないと判断しているだけですもの」


アルベルトがそっと目を閉じた。

もう少し婉曲に言えないのか、この人は。


だがエドワルドは、逆にそこで確信した。


この女は虚勢を張っていない。

本気でそう思っている。

ルシアンの報復を想定に入れた上で、なお脅威度が低いと見積もっているのだ。


おそらく事実なのだろう。

少なくとも、戦力だけなら。


「……なるほどな」


エドワルドは短く言った。


「君のことは、覚えておこう」


「すでに存じ上げていただいていると思っておりましたけれど」


「そういう意味ではない」


「でしょうね」


そこでようやく、エドワルドの口元がごくわずかに緩んだ。

笑った、というほどではない。

ただ、面白くない相手ではないと認めた程度の変化だった。


「今夜はもう帰るといい」


「ええ。

そうさせていただきますわ」


セレスティアは一礼し、馬車へ乗り込む。

アルベルトも後に続き、扉が閉まる。


車輪がゆっくりと動き出した。


窓の外で立ち尽くすエドワルドの姿が遠ざかっていく。

その視線は最後まで、馬車の中のセレスティアへ向けられていた。


しばし沈黙が流れた後、アルベルトが低く言う。


「……面倒なことになりましたね」


「いつものことですわ」


「王族が絡む時点で、いつもより面倒です」


「でも、第一王子殿下は話が通じる方でしたわ」


「そこが一番厄介なのです」


セレスティアは扇の先で軽く頬を叩く。


「どういう意味ですの」


「ルシアン殿下のような分かりやすい相手は、対処が容易です。

ですが、エドワルド殿下のように有能で、なおかつお嬢様の危険性を正しく認識する方は、敵になれば面倒ですし、味方になっても安心できません」


「なるほど」


「ご理解いただけましたか」


「ええ。

つまり、必要なら先に潰すべき相手、ということですわね」


「違います」


即答だった。


アルベルトは本気で頭が痛くなった。


「どうしてそうなるのです」


「有能で危険なのでしょう?」


「だからといって即座に排除へ繋げないでください」


「でも、選択肢ではありますわ」


「心の中だけに留めてください」


「善処します」


それは善処しない時の返事だと、アルベルトは知っている。


馬車は夜の王都を滑るように進んでいく。

窓の外には灯りが流れ、石畳を叩く車輪の音が規則正しく響いていた。


セレスティアは窓の外を眺めながら、今夜のことを反芻する。


ルシアン。

予想以上に浅い。

あれでは自分が権威の中に守られているからこそ強く出られるだけの男だ。

単体では脅威にならない。


第一王子エドワルド。

有能。

理も通じる。

だが、理が通じるからこそ、自分を“使えるかどうか”で測るタイプでもある。

甘い相手ではない。


そして王家全体。


――思ったより、脆い。


セレスティアは静かに瞳を細めた。


王族だから関係ない、ではない。

むしろ逆だ。

王族だからこそ見極める。

この国の柱たり得るか。

それとも、内側から腐らせるだけの害虫か。


もし後者なら。


そのときは、王族だろうと関係ない。


「お嬢様」


アルベルトが慎重に声をかける。


「何ですの」


「今、ろくでもないことを考えておられませんでしたか」


「失礼ですわね」


セレスティアは微笑む。


「少ししか考えておりませんわ」


アルベルトは天井を仰いだ。


やはりこの人は、最狂だ。


王都社交界はまだ知らない。


今夜の出来事は、ただの夜会の騒動では終わらない。

侍女一人への暴力を止めたその瞬間から、王家とヴァルフォルン公爵家、そして王国そのものの均衡は、静かに軋み始めていたのだと。


そしてその中心にいるのが、白銀の髪を持つあの令嬢であることを。


完璧な淑女。

優雅なる災厄。

最狂の公爵令嬢。


セレスティア・ヴァルフォルン。


彼女が夜会で牙を剥いた、その意味を。


まだ誰も、本当には理解していなかった。

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