第7章 新しい扉 16
「風の魔王リュシフィンさまの姫君だよ。つまり。リュシフィンさまのご息女ってこと。先代の」
ナチグロ=ロビンが言った。
「いえ。それだけではありませんよ。次期風の魔王さまです。冠をかぶられれば、すぐにでもリュシフィンさまになられるお方。そのつもりで接してくださいますように」
ルーアンが付け加えた。
「次期リュシフィンさま!?」
セレウスの顔が、さらに歪んだ。おまけに蒼白になる。
「あ、でも、わたしはリュシフィンになるつもりはないの」
七都が言うと、ルーアンが首を振った。
「なっていただかなければ困るのです。風の魔神族、ひいては魔の領域のためにも」
「そうなのですね……。あなたは、リュシフィンさまになられる方。ナナトさま、そうとは知りませず、私供の数々の非礼、どうかお許しください」
ゼフィーアが、頭を深々と下げる。
「そんな、非礼だなんて、やめてよ、ゼフィーア。そんなこと思ってないもの。今までどおりでいいからね。でないと、わたし、息が詰まっちゃうよ。私のお母さんが、前のリュシフィンだったってだけだし」
「ナナトさまのお母さま……。でも、それは、私どもにとっては大変なことです。セレウス!」
ゼフィーアが、少し顔をこわばらせながら、セレウスのほうを向いた。
「あなたは、魔王さまのアヌヴィムだったということになるのですよ!」
「魔王さまのアヌヴィム……?」
セレウスが、怪訝そうに繰り返した。
「そうですとも。あなたにアヌヴィムの魔法を下さったのは、おそらくナナトさまのお母さま。その方が魔王さまならば、あなたは魔王さまのアヌヴィムということになるのです」
ゼフィーアが、幾分高揚した口調で答えた。
「その通りです。リュシフィンさまのアヌヴィムですね。魔王さまのアヌヴィムというのは、滅多に存在しません。セレウスさんは、とても貴重な方ですよ」
シャルディンが言う。
「ミウゼリルにアヌヴィムがいたとは。それは私も知りませんでした」
ルーアンが呟いた。
「ぼくは、一応知ってたけどね。その場にいたし。だけど、別に報告するほどのことはないかなと思って」
ナチグロ=ロビンが、言い訳するように、ぼそりと言った。
「では彼は、ミウゼリルさまに気に入られたということですね。あるいはミウゼリルさまは、ナナトさまのために、あえてここにアヌヴィムを作られた……とか」
と、カーラジルト。
七都は、思わずセレウスを見つめた。
カーラジルトが口にしたことは、七都が魔の領域に出立する前、セレウスが七都に言ったことと同じだった。
<あなたの母上は、なぜ私にそういう力を下さったのか……。それは、あなたを守るためではないのかと。あなたを守る誰かをあなたの身近に置きたかったのです……>
セレウスは、一瞬七都を見つめ返したが、すぐに七都の視線から顔をそむけてしまった。
「私は……弟に間違った教育をしてきたのかもしれません」
ゼフィーアが言う。
「そのことを知っていたなら、魔王さまのアヌヴィムとして、もっと教えなければならないことがたくさんあったのに。アヌヴィムではなく、人間として生きる術ばかりを教えてしまいました」
うん。あなたは間違ってなかったと思うよ、ゼフィーア。
普通の人間でいるほうが、きっと幸せなんだ。
魔王のアヌヴィムなんかでいるよりも、ずっと。絶対そうなんだよ。
七都は、心の中で思う。
「ナナトさまのお母さまは、リュシフィンさまなのですね? では今、風の城に?」
ゼフィーアが訊ねる。
七都は首を振った。
「お母さんは、その……。いるんだけど、いないの。その、姿が見えないというか……」
七都は、口ごもる。
説明が難しい。
いやそれ以前に、娘である自分でさえ、本当のところはわからない。
母がどういう状況になっているのか。
本当の体はどこにあって、なぜ幽霊みたいになっているのか。
「実質的には、現在のリュシフィンさまは、七都さんだよ」
ナチグロ=ロビンが説明する。
「違うったら」
七都は口を尖らせた。
「まあ。では、セレウスはもちろん、引き続き魔王さまのアヌヴィムでいさせていただかねばなりませんね」
ゼフィーアが、弾むような声で言う。
七都は、黙り込んだ。
つまりゼフィーアは、七都がセレウスをアヌヴィムにすることを期待して、頼んでいるのだ。
セレウスは、ちらりと遠慮がちに七都のほうに目をやった後、再びうなだれ気味に目を床に落とす。
「ところで、話はそれぐらいにして、取り合えずこの狭い場所から出していただけませんか。太陽が上らないうちに」
シャルディンがさりげなく話に割り込んで、明るく言った。
「これは失礼を致しました。では皆様、どうぞ、こちらへ」
ゼフィーアは、シャルディンに事務的な冷たい微笑みを返し、美しい仕草で手を指し示した。
風の城から来た一行は、ひとかたまりになって、ゼフィーアの案内で通路を歩き始める。
セレウスは軽く頭を下げたまま、通路の端に立っていた。
彼とすれ違うとき、七都は彼に話しかけようとしたが、彼は頑なに床を見つめるだけだった。
一行が通り過ぎると、セレウスは少し間を開けて、列のいちばん後ろにつく。
「セレウスったら。また、話しかけるなバリヤー張っちゃったかな」
七都は、小さく呟いた。
「ばりやー?」
前を歩いていたシャルディンが、立ち止まって振り返る。
「なんでもない。こっちの話」
「そうですか? ところで、ナナトさま。何で彼らを抱きしめなかったのですか?」
シャルディンが七都の耳元で、ささやくように訊ねた。
「抱きしめる?」
「ゼフィーアさんとセレウスさんをです。あなたがこの世界に来られたときに、彼らには、とてもお世話になったのでしょう。私よりも付き合いが古いはず。私には、あなたは気兼ねなく接してくださるのに、あなたは彼らにそうされようとはしない。私だけではなく、伯爵や侍従長にも気兼ねなく、そういうことをされるらしいあなたが。なぜなのでしょうね。そうしたかったけれども、出来なかった、というべきですか?」
「ゼフィーアは、魔神族にそういうことをされるのが、好きじゃないみたい。彼女が魔神族に抱きしめられるときというのは、その……」
七都は、続けるのをためらった。
「ああ、わかりますよ。ゼフィーアさんも、アヌヴィムとして、相当つらい目に遭われたようですね。お察しします」
シャルディンが言う。
七都は、ほっとした。
やはりシャルディンは、苦労している分、いろんなことを推し量ってくれる。
「では、セレウスさんのほうは? いきなりぶつかって、きっかけを逃した、という理由でもなさそうですよね? あの方も、そういうことをされるのがお嫌いなのですか?」
シャルディンが、少し離れてついてくるセレウスを、ちらっと見て訊ねる。とても興味を持っているような素振りで。
「嫌いじゃないと思うよ。それどころか……」
シャルディンは、にまっと笑った。
「そうされたがっている」
「たぶんね……」
七都は、軽く溜め息をついた。
本当なら、彼を抱きしめて「ただいま、セレウス!」と叫ぶのが、筋というものだ。
セレウスも、七都をしっかりと抱きしめて、言ってくれるだろう。
<お帰りなさい、ナナトさま! ずっと待っていたのですよ! 約束どおり、ここにいらしてくださったのですね!>
そして、セレウスと見つめ合うのだ。あまりの嬉しさに、自分は泣いてしまったかもしれない。
そうしたかった。そうしてもらいたかった。
けれども、出来なかった。
「何でまた……?」
シャルディンが、不思議そうに首をかしげる。
いくらシャルディンでも、七都の複雑な心の中は、わからないらしい。
「つまり……セレウスがわたしに、恋愛感情を持っているからだよ!」
七都はシャルディンの耳を引っ張って、その中に、ささやき声を放った。少々いらつき気味に。
「ああ……」
シャルディンが、大きく頷く。
「そういうことですか」
「私には、さっぱりわからぬな」
七都とシャルディンの様子をさりげなく観察していたカーラジルトが、呟いた。
「さっきから、七都さまと二人で、何をいったいこそこそと……」
「あとでお話しますよ、伯爵。嫉妬してはいけません」
シャルディンが、魅力的な笑顔をカーラジルトに向けた。
カーラジルトは、いつもの無表情な翡翠色の目を、前方に戻す。
「恋愛感情ねえ。いいじゃないですか。若者は恋をしなければね。大いに歓迎すべきことです」
「わたしに恋なんかしたら、ややこしくなるに決まってるじゃない……」
七都は言ったが、シャルディンは微笑んだ。
「人の心は止められませんよ。障害があっても、勢いを得ると燃え上がる。たとえ片思いだとしても。そういうものです」
「だから、やっかいなんだよ……」
七都は、呟いた。
「それは、シルヴェリスさまのことがあるからですか? シルヴェリスさまとナナトさまは、お互いに思い合っておられるとか。では、セレウスさんの出る幕はありませんし」
シャルディンが訊ねる。
風の城に滞在している短い間に、カーラジルトやナチグロ=ロビン、ルーアンから、七都とナイジェルのことについて、いろいろ聞いたのかもしれない。
「ナイジェル以前の話だよ。私はセレウスに対して恋愛感情は持てない。これからもずっとね。どんなに私のことを思ってくれても、私は彼の思いに答えられないの。それが自分でもよくわかるから……」
「つまりナナトさまは、そのことに対して罪悪感みたいなものを感じておられるわけですね。その感情を持っていることを心苦しく思われ、それが邪魔になって、セレウスさんと親しく接することがお出来にならない、と」
「うん、たぶんね。そういうことだと思う」
「確かにやっかいですね。そういうことを気にしない、もっとずぶとく、ずるい性格だったらよかったのかもしれませんね。思っていることが顔や態度に全然出ないような。けれどもそれは、ナナトさまは、素直でやさしく、嘘がつけない正直なお方だということも意味しますよ」
「魔神族としては、その性格は失格だと思うよ」
「それは、まあ、同感ですね」
シャルディンが、にっこりと笑った。
広い客間にカトュースのお茶が用意され、風の城からやってきた一行は、なごやかな雰囲気の中で、それを口にする。
良質なカトュースの湯気と香りが、部屋の中に濃く漂った。
アヌヴィムであるシャルディンには、別の香りがする人間用のお茶が出される。
「カトュースよりアヌヴィムのエディシルのほうがいいんだけどな」
セレウスを物欲しそうに眺めながらうっかり呟いたナチグロ=ロビンは、七都に睨まれて、大げさに肩をすくめて見せた。
ルーアンがおもむろに立ち上がり、七都のそばに腰をかがめる。
「ナナト。私はこれにて失礼致します。いつまでも風の城を空にしておくわけには参りませんので」
彼が告げる。
七都は思わず顔を上げた。
「そんなあ。もう帰ってしまうの? わたしの家まで来てくれないの、ルーアン。お父さんとも昔からの顔見知りなんでしょう? うちに来てくれたこと、何度もあるよね? お父さんにコーヒー入れてもらうから、一緒に向こうに行こうよ」
ルーアンは首を振った。
「そのうち、そちらにお邪魔しますよ。ナナト、あなたも、いつでもこちらにおいでになればいい。週末でも、秋の連休でも、冬休みでも。私はいつでもお待ちしております」
七都は、素直に頷く。
「うん……。そうだよね。いつでも行き来できるんだものね、お互いに。じゃあ、せめてあの扉のところまで送るから」
「結構ですよ、ここで」
「だめ! ちゃんと送るから!」
ルーアンは一応困ったような顔をしたが、とても嬉しそうに見えた。
そんなに嬉しいなら、『結構です』なんて言わなければいいのに。偏屈なんだから。
七都は、思う。
それから七都は、カトュースを飲んでいる側近たちを振り返った。
「みんな! クラウデルファ公爵がお帰りになりますよ。ご挨拶を!」
「あれ? もう行っちゃうの?」
ナチグロ=ロビンが、のんびりと訊ねる。
「ルーアンは、風の城の番人さんだからね。お城に戻らなくちゃ」
「そうさせているのは、七都さんなんだけどな」と、ナチグロ=ロビン。
「お城の主が、いつもお城を留守にしちゃってるから」
「ルーアンは、番人どころか、そのお城の主にいつでもなれるんだからね! さ、ルーアン、行こう。みんな、わたし、地下の扉のところまで彼を送って行くから!」
七都は、やんわりとルーアンの背中を押す。
一行は、そこを去るルーアン・クラウデルファ公爵に、一斉に頭を下げた。
「しかし、何というか。あなたもやり方がまずいですね」
七都とルーアンが部屋から出て行った後、シャルディンがセレウスに声をかけた。
「何がですか?」
セレウスが、自分の緑の目とは対照的な目の色を持つシャルディンを見つめ返す。
七都のアヌヴィムということで、かなり複雑な思いを抱いているようだった。
その口調にも、どことなく棘のようなものが混じっている。
その棘を感じているのかいないのか、シャルディンは、ずけずけとセレウスに言った。
「ナナトさまに、なぜご自分の思いを知らせるようなことをされたのですか? 黙ってあの方のことを思っておられればよろしいものを。そうすればナナトさまも、今のあなたに対するような、ぎこちない態度を取られることもなかったはずですよ」
「無理です、私には。自分の思いをしまい込むことなど」
セレウスが呟いた。
「自分の思いを隠して胸の奥に秘めたまま、ナナトさまに相対することなど出来ません」
「あなたも正直な方なのですね」
シャルディンが微笑んだ。
「普通の魔神族の女性なら、アヌヴィムにどれだけ慕われようとも動じませんが、如何せん、あの方はそういうわけには参りません。別の世界で人間として育ったお方なのですから。あなたの思いは、ナナトさまをも苦しめることになるのですよ」
「けれども、この思いは、どうすることも出来ません。ただあの方を思い続けるだけです。私の心の向かうままに……」
セレウスが言う。
「だが、ナナトさまに割り切っていただかねば、きみもあの方のアヌヴィムにはなれぬな。刺激せぬまま、おとなしくもう少し待つしかなかろう」
カーラジルトが口を挟む。
「私をアヌヴィムに……。してくださるでしょうか? ナナトさまは……」
「していただかなければ。あなたはナナトさまのお母さまのアヌヴィムなのですからね。お母さまが魔王さまでいらっしゃるのなら、新しい魔王さまであるナナトさまには、引き続きアヌヴィムにしていただいて当然というもの」
二杯目のカトゥースのお茶を全員分注ぎながら、ゼフィーアが言った。
「だけど、新しい魔王さまに嫌われて放逐される、元魔王のアヌヴィムの大魔法使いも過去いるらしいし。あまり期待しないほうがいいかもね」
ナチグロ=ロビンが言ったので、セレウスはますます暗くうなだれた。




