第7章 新しい扉 13
次の日、太陽が落ちて、あたりが薄暗くなった時間――。
七都は、サリアがクローゼットから出してくれる姫君のドレスではなく、自分がアルティノエの町からずっと着てきた旅の衣装に着替えた。
それは野宿や砂漠の砂などで幾分くたびれてきてはいたが、サリアがきちんと洗って仕上げてくれていたので、新品を身に付けているような気持ちよさがあった。
ゼフィーアが用意してくれた上下の服、上着、ブーツ、そしてメーベルルのマント。
首には、見張り人が七都にくれた猫の目ナビ――さらにジエルフォートがバージョンアップしてくれたものを首にかける。
アヌヴィムの銀の輪は、相変わらずストーフィが頭にはめていた。
ストーフィはベッドの上に座って、遠慮することもなく、七都の着替えを最初から最後まで、退屈そうに眺めていた。
「そういうお衣装も素敵ですね。とてもりりしくて」
サリアが言った。
「ありがとう。実は、結構気に入ってるんだ。動きやすいしね」
七都は、鏡に映る自分を眺める。
いつもの長い裾のドレスを着た姫君ではなく、きりりとした少年のように見える自分が、幾分緊張した面持ちで、鏡の中に立っていた。
いよいよこれから帰るのだ。自分のいた世界に。
あの緑の扉を通って、うちのリビングに。
改めてそう思うと、気持ちが引き締まる。
その前に、ゼフィーアとセレウスにも、もちろん会わなくちゃ。
わたしの帰りを待っててくれているのだから。
帰りに寄るって、約束したんだものね。
七都が着替え終わったあと、シャルディンが、待ち兼ねたように部屋に入って来る。
彼は、自分と同じ銀の輪をはめたストーフィを発見して、面食らったように見下ろした。
「シャルディン、気分は?」
七都が訊ねるとシャルディンは、ストーフィを気にしながらも、にっこりと笑う。
「とてもいいですよ。おいしいご馳走をたっぷりいただいて、よく眠りましたからね」
「それはよかった」
「しかし、私に気を使わなくてもよろしいですのに。着替えだといって部屋に入れてもらえないのは、理不尽です」
シャルディンが、不満そうに言う。
「だってあなたは男性だもの。女の子の着替えを覗いちゃいけないでしょ。常識じゃない」
七都が言うと、彼はますます不満そうな顔をした。
「私は、あなたのアヌヴィムなのですよ?」
「そんなの、私にとっては理由にならないからね。あなたには私の裸はもう見せないって決めたんだから」
七都は、シャルディンを睨んだ。
前回見られたときは不可抗力だったし、介抱されたことに感謝はしている。
とはいえ、何となく納得が行っていない。
「それはつまり、私を異性として意識されているということでしょうかね?」
シャルディンが訊ねた。
「そ、そういうわけじゃないけどっ!」
七都は、思わず否定する。
認めるようなことを口にすると、彼に対して恋愛感情を持っているように受け取られるような気がしてしまう。
「なら、問題はないはず。私のほうも、ナナトさまを異性としては見ておりませんし」
シャルディンが、にこにこしながら言った。
「どうせ私は、コドモだよ」
七都は、口を尖らせる。
「子供としてではありませんよ。やはりあなたは私のご主人なのですからね。そういう対象として、です。性を特に気にしなくてもいい存在ですね。それに、あなたの素晴らしい体を芸術作品として鑑賞させていただきたいし」
「シャルディン。ね。ちょっと軽く殴ってもいいかな?」
七都は彼に、にっこりと微笑みかける。
「そういうご趣味がおありでしたっけ。ま、そんな趣味をお持ちの貴婦人も何人か知っておりましたが。かまいませんよ。どうぞ?」
シャルディンが、一歩前に進み出た。
「冗談だよ」
七都は、再びシャルディンを睨む。
「わかりにくい冗談ですね。ま、ともかく双方ともお互いを異性として見ていないのですから、問題はないのでは?」
「大ありだよ! なんにしろ、私が着替えている間とか、服を着ていないときは、部屋から出るか、別のところを向いていること!」
何でこういう単純なことを伝えるのに、いちいちまわりくどく言い聞かせなきゃならないんだよ。
思いながら、七都は彼に言った。
「意味がわかりませんね。そうする必要も理由もないと申し上げたところなのに」
「わたしがいやだから! これ、ものすごい理由でしょ!」
二人のやりとりを呆気にとられて眺めていたサリアが、くすっと笑った。
「ナナトさまがおいやなことは、されないほうがよろしいですよ、シャルディンさま」
彼女がシャルディンに、たしなめるように言った。
「結局最後は、感情的、感覚的な理由に落ち着くのですね」
シャルディンが、溜め息をつく。
「遊びの途中で、駒の乗った盤をいきなりひっくり返されたような気分ですよ」
「わたしは、理論の駒の積み重ねで生活してませんから!」
七都は、サリアが差し出したメーベルルの剣を腰に差した。
「私が初めてナナトさまとお会いしたときの衣装ですね」
シャルディンが、しげしげと七都を眺めながら呟いた。
「アヌヴィムの輪っかはしていないけどね。あの時から、何だか、もうずいぶんたったような気がする」
七都は、シャルディンのそばに歩み寄る。
「またあなたと会えて、とても嬉しいよ、シャルディン。また言い合いっこできるね。こんふうに、普通にね。何げなく普通にやってることって、とても大切なことなんだよね。そういうふうに出来てるってこと、もしかして、ものすごく貴重で奇跡的なことなのかもしれない」
「何ですか、改めて?」
シャルディンは、七都を見下ろした。
宝石のような赤い目が、いぶかしげに細められる。
「だって、もしかしたら、出来ないかもしれなかったし……」
七都は言いかけて、口をつぐむ。
そうだ、シャルディンはすぐ怒っちゃうから、あまり馬鹿正直に本当のことは言わないほうがいいかも。
適当に、はしょって、ごまかして……。
「カーラジルトさまにお聞きしたのですが、ゆうべ」
眉をしかめたシャルディンが言った。
「え? あ、カーラジルトと話したの? やーね、カーラジルトったら、あなたの部屋に行ったんだ?」
「お見舞いに来てくださいましたよ。あの方は、一見冷たそうに見えますが、実はとても親切でやさしい方だということが、この旅でよくわかりました」
「そ、そう。よかったね。わたしもそう思うよ」
七都は、微笑む。
カーラジルト。当然シャルディンに、よけいなこと喋ってるよね……。
「よくないですね。なんですか、お怪我がひどくなって、大量出血されたとか? カーラジルトさまにいただいたお薬を飲み忘れて?」
シャルディンが、超アップで七都の顔を覗き込む。
やっぱり……。
七都は、首をすくめた。
「飲み忘れたんじゃないよ。まだそんな時間じゃなかったもの。ただ、私の体が薬を待ちきれなかったみたいで……」
「つまり、もう少し早く飲んでいればよかったわけでしょう?」
「だって、その機械猫が、薬を飲みこんじゃったんだもん!」
七都は、思わずストーフィを指差す。
突然話の中に強制的に放り込まれたストーフィは、相変わらず無表情だったとはいえ、やはり慌てふためいたように見えた。
「人のせい……いや、猫のせい……いや、機械のせいにするのは感心しませんね。しかしそうだったとして、回避する方法はいくらでもあったわけでしょう?」
と、シャルディン。
「そりゃま、そうかもしんないけど」
「それで、幽霊になって、私に会いにいらしたのですか。私の妹の孫娘をさんざん怖がらせて」
「幽霊じゃない。生霊。幽体離脱」
「おっしゃっていることの意味がわかりません」
「とにかく、マーシィには悪いことしたって思ってるよ。夢でうなされてなきゃいいけど」
「それはないようです。七都さまのことを心配していましたよ」
「うん。リアルに怪我の感覚を味合わせてしまったかもしれない。本当に悪かった。でも、もう、お説教しないでよ、シャルディン。これから私は発つんだから」
「そうですね。ま、私にとってはお説教というよりも、七都さまとのじゃれ合いという楽しみもあるのですが」
「楽しみ? 楽しみながら、私にお説教してるの?」
「もちろんです」
シャルディンは、あきれている七都に両手を回し、ぎゅううっときつく抱きしめた。
サリアが、滑稽なくらいに目を丸くする。
もちろん、アヌヴィムである彼女が、シャルディンのそういう態度に驚かないはずはなかった。
長年アヌヴィムをしていた彼女にとっては、考えられないことに違いない。
アヌヴィムは、魔神族に対して、常に受身であるべきなのだ。しかも、相手が魔王の後継者ともなると、ひれ伏すくらいでもおかしくはないかもしれない。
「あ、あの……」
サリアは、はらはらした様子で、二人を眺めた。
「あ、シャルディンはこういう人なの。気にしないで」
シャルディンに抱きしめられたまま七都は、サリアに微笑んで見せる。
「私も、ナナトさまとまたお会いできて、とても嬉しいですよ。ご無事で何よりでした!」
シャルディンが、さらに七都を抱きしめる手に力を入れる。
「なら、最初から素直にそう言えばいいのに……」
七都は、ぼそりと呟いた。
「いよいよお別れなのですね、ナナトさま。でも、私は最後までお見送りさせていただきますよ」
シャルディンが七都の耳元てささやく。
「え? つまり、元の世界に通じる扉のところまでってこと? いいよ、来てくれなくても。あなたはおうちに帰らなきゃ。お母さんや妹さんが待ってるよ。お兄さんも、マーシィも」
「いえ。ちょうど通り道みたいなものですし。どちらにせよ、魔の領域からは出なければなりません。ならば、途中までお供させていただいたほうが、早く帰れます。公爵さまの魔力でお帰りになられるのでしょう?」
「ルーアンが、新しい扉を作ってくれるらしいから、それを使うんだけど……」
「では、ご一緒させてください。そうそう、カーラジルトさまもお供されるそうですよ」
「え? 彼も?」
「当然でしょう。あの方もまた、ここを出て旅を続けられるそうですしね。あなたがおられないのに、ここに長居をする必要もないと」
「……まあ、いいか。見送ってくれるのは嬉しいものね。いいよ、二人とも一緒に来て。カーラジルト、もう少しシィディアと一緒にいてあげればいいんだけど。何せ見えないものね。仕方ないよね」
そのときストーフィが立ち上がり、七都とシャルディンのところまで、ちょこちょこと歩いてきた。
そして、七都のマントの裾をぐいっと引っ張る。
ストーフィのオパール色の目に青い光が走り、何かを訴えたげに、きらきらと光った。
「おや。こいつも、お供したいようですね」
「え? ストーフィも?」
「ま、この機械猫もあなたのアヌヴィムのようですし? お帰りの旅は、賑やかになりそうですね」
シャルディンは言って、対抗心が芽生えたかのように、苺ジャム色の目でちらりと横目でストーフィを見た。
扉がたたかれ、ナチグロ=ロビンが、ひょこっと顔だけ覗かせる。
「七都さん。用意が出来たら、玄関ホールまで来るようにって、ルーアンからの言づてだよ。一番初めに、ぼくらがこの城に到着した場所だからね」
「えーと。あの魔方陣みたいな円があるところだよね。わかった。もう出来たから、すぐに行くよ」
七都が答えると、ナチグロ=ロビンの艶やかな黒髪はすぐに引っ込んで、扉が閉まった。
七都は、サリアに向き直る。
「じゃあ、サリア。少し留守にするから」
サリアは、にっこりと微笑んだ。
「行ってらっしゃいませ。今度姫さまがお帰りになるときまで、新しいドレスや装飾品を見繕っておきますわ。公爵さまのご命令でもありますから」
「お願いね。もしかしたら、すぐに戻ってきちゃうかもしれないけど。数日後……今度の週末とか」
「では、急がねばなりませんね」
「ドレスは、お母さんが着ていたのもあるしね。エヴァンレットが着ていたのも、たっぷりある。それも着なくちゃ」
「それも選り分けておきますわ。まだ十分使えそうで、姫さまに似合いそうなのを」
「ありがとう」
七都は、サリアを軽く抱きしめた。