第7章 新しい扉 9
「だめだ、エヴァンレット! リュシフィンさま!! 空を引き裂いたら、みんな死んでしまう! やめて!!」
これは、過去の残像。もう既に起こったこと。
自分にはどうすることも出来ない。ただ見ているだけしか出来ない。
わかってはいたが、七都は叫び続けた。
「エヴァンレット!! やめてえええっ!!!」
逃げ惑い、泣き叫ぶ人々。
その悲鳴が都を覆い尽くして行く。
「アストゥール!!」
エヴァンレットが叫んだ。
無表情なその暗黒の両目が、虚空を睨む。
「出てくるがいい! その鬱陶しい時の都から! そして、私を止めるがいい! こうでもしなければ、おまえはそこから出てこないのであろう!!」
エヴァンレットは、時の魔王アストゥールを呼んでいた。
アストゥールに自分の行為をやめさせるために。止めに来させるために。
いや、一番来てほしかったのは、アストゥールの元にいたユウリスかもしれない。
けれども、おそらく彼らは来なかった。間に合わなかったのか、それとも、気づいても対処出来なかったのか――。
止めるものを得なかった彼女は、そのまま突き進むしかなかった。
そして彼女は、自分で自分の暴走をどうすることも出来なくなった。
自分の行いがどういう結果をもたらすのか。それは、よくわかっていたはずなのに。
彼女を待っているのは、破滅。
彼女はそれを自分で引き寄せ、その中に飛び込み、周りを巻き込みながら、ただ堕ちていく……。
エヴァンレットの周りに、彼女を挟むように、二つの影が現れた。
彼らは、魔王。
七人の魔王のうちの二人。シルヴェリスとエルフルド。
もちろん、七都がよく知っている現在の彼らではなく、当時の水の魔王と地の魔王だ。
まるで、あらかじめ結末がわかっている映画を観るかのように、七都は彼らを凝視する。
そう、ストーリーはもう既に出来上がっているのだ。
このあと、彼らがどうなるのか。わかりすぎるくらいにわかっている。
それは、もう既に終わっていることなのだから。
二人の魔王は、エヴァンレットに話しかけた。
説得し、なだめすかし……。
二人の魔王たちは、油断していたのかもしれない。
自分の恋のためにリュシフィンとなった、まだ年端も行かない少女。
しかも、冠を付けたばかりの、新しい魔王。
押さえられぬわけもない。
古参の魔王二人がかりで対応するほどのことでもないだろう。
そう軽く考えていたのかもしれない。
けれども、逆上したエヴァンレットのエネルギーは、あまりにも強力だった。
彼女が青い光を放つと同時に、魔王たちのマントが引き剥がされ、蒸発した。
恐怖に顔をひきつらせる、シルヴェリスとエルフルド。
七都は、彼らのあらわになった姿を見る。
銀の髪と水色の目、そして赤い髪とオレンジ色の目の、見目麗しい若者。
ユウリスにどことなく面差しが似たシルヴェリスは、おそらくユウリスが去った後に水の魔王となった、彼の弟であろう。
エルフルドもまた、アーデリーズに似た雰囲気を持っていた。
彼らは、ナイジェルの先祖とアーデリーズの先祖。
あの二人の何代か前の、とても近しい人々……。
エヴァンレットが付けた天空の傷が、一気に広がった。
魔王たちが防御する暇もなく、無慈悲な光がその隙間から、容赦なく降り注ぐ。
二人の魔王は赤い光に包まれ、瞬時に灰となった。
主人を失った二つの冠が、金色の星のようにきらきらと輝きながら、地上に吸い込まれるように、真っ直ぐに落ちていく。
マントに身を包んでいたエヴァンレットは無事だったが、フードからこぼれていた髪が、たちまち溶けて消え去った。
「邪魔をするからよ。邪魔をするから……」
エヴァンレットは宙に浮いたまま、言い訳をするように呟いた。
地上には、人々の叫び声が渦巻いていた。
七都は耳を押さえ、目を閉じる。
それでも、地上で起こっていることは、伝わってくる。
ドームの外と全く同じの、そのままの太陽。
その光が、都全体に降り注ぐ。
溶けて行く人々。
あちこちで炎を上げ、赤い火に包まれ、塵となって、風に消え……。
「エヴァンレット。何てことを。何てこと……を……」
「ユウリス!」
エヴァンレットが叫んだ。
「ユウリス! ユウリス! ユウリス!!!」
七都の体の奥底で、何かが叫んでいた。
エヴァンレットの叫びに呼応するかのように。
「ユウリス! ユウリス! ユウリスーっ!!!」
気がつくと、七都自身もその名前を呟いていた。
まるで昔からよく知っている呪文を唱えるかのように、その名前が自然と唇に上っていた。
(ナナト、ナナト、しっかしりて!)
母の声が、頭の中でする。
七都がユウリスの名前を何度も叫んだことに驚いているようだった。
(なぜあなたが、彼の名を……?)
「わからない、わからないよ。きっと、エヴァンレットに影響されてるんだ……」
(ナナト、自分を見失わないで! あなたは幻を見ているのよ)
「うん……。わたしが見ているのは過去の幻……。それにわたしは、エヴァンレットじゃない。エヴァンレットじゃないんだ……。お母さん。お母さん。どこにいるの?」
大きく裂けた天のドームの傷口が見える。
それは不気味な光景だったが、総毛立つくらいに美しかった。
ラベンダー色の空の向こう側に、もう一つの紺色の空が見えた。
蜘蛛の巣のような亀裂が、中心の大きな傷口から放射状に空に広がっている。
まるで巨大な蜘蛛が、天に巣を張ったようだった。
金の糸で張られたその巣は、ところどころ銀色やオレンジ色、薄紅色に染まり、複雑なステンドグラスの作品であるかのように輝いていた。
壊れかけた空。今にも空全体が、砕けたガラスのように粉々になって、風の都に降り注いできそうだった。
エヴァンレットの姿は、もう見えない。
アストゥールもユウリスも、やはり最後までエヴァンレットを止めには来なかった。
二人の魔王を消し、風の都を壊滅させてしまったエヴァンレットは、このあと我に返り、己の罪におののき、うちひしがれ、城の玉座に戻った。そしてそこで、ルーアンに剣で胸を刺し貫かれることになる。
傷つけられた空は、やがて修復され、元のラベンダー一色の美しい空になったのだろう。
けれども、風の都からは人々の姿は消えてしまった。
その時かろうじて生き残った人々は、地下の遺跡のカプセルに逃れ、長い眠りに就くことになった。
落下した二つの魔王の冠は、すぐに収容されて、それぞれの一族に戻されたに違いない。
そして水の王族と火の王族は、失われた魔王の後継者争いを始めることになる。
すべて、既に終わってしまった過去の出来事――。
自分はそれらの出来事よりも、はるか未来に生きているのだ。
エヴァンレット……。
あなたが涙を流せないなら、わたしが代わりに泣こう。
それで、あなたの魂が少しでも癒されるのなら。
そして、あなたによって消えてしまった人々が、少しでも慰められるのなら、私は何百回でも何千回でも泣こう……。
落下していく七都の目から、銀色の糸のように、透明な涙が尾を引き、空中に散った。
「ナナト、だいじょうぶ?」
母の声が背後から聞こえる。
「力を調節して。そのままでは、地上にぶつかってしまうわ」
「……!!」
白い都市が近い。
それは七都の視界いっぱいに広がっていた。
七都は、恐怖を感じた。
体が石のように固まっている。
どうしたというのだろう?
次第にスピードを増して落ちていく体を、七都はどうすることも出来なかった。
「効かない! コントロールが全然効かないよ!!」
「落ちついて、ナナト。あなたはエディシルがいつもより多いのよ。いつもより魔力は使えるはず。自分でもそう言っていたでしょう。自信を持って。少しパニックになってるだけよ。昔の映像を見て、少しだけ心がショックを受けているだけ。気持ちの切り替えがうまく出来ていないだけだから」
「でも……でも、止まらないよ! 瞬間移動も出来ない!!」
石畳の通りが近くなる。
白い星空のようにちららと輝く、平らな地面。
自然に芽吹いた草や木々。その一枚一枚の葉の形がわかるくらいに、大きくなっていく。
建物の高い塔の天辺は、既に七都の後ろに飛び去った。
七都の恐怖は増幅する。
一瞬、石畳に抱き合ったままぶつかって分解した祖父母の凄まじい映像が、頭によみがえった。
このままでは、このままでは……おじいさまやおばあさまのようになってしまう……!
地面に激突して、塵になって、風に吹き散らされ、後には何も残らない……。
細胞のかけらさえ、血の一滴さえ……。自分が存在したという物理的な痕跡は、わずかな間さえ残らず、消えてしまう……。
混乱する七都の頭の中に、ぼんやりとそんな思いが浮かんだ。
「ナナトっ!!!」
母が叫んだ。悲鳴に近かった。
私はあなたを助けてあげられないの。あなたが自分で止めるしか、方法がないのよ! 自分で切り抜けなさい!
そういう響きが混じっていた。




