第7章 新しい扉 8
七都は、テラスの端に移動した。
祖父と祖母が落ちたと思われる『途中までの階段』ではなく、アーチの下に。
そこから七都は、地上を見下ろした。
深い空気の層の底に沈む、白い海底都市。
一気に瞬間移動をするには、今の七都の経験では、あまりにも長い距離だった。
ゆっくりと降りていくか、それとも瞬間移動を繰り返すか。
どちらにしろ、ここから地上に降り立つには、神殿の遺跡の、螺旋階段の底に飛び降りるよりも、もっとたくさんの勇気がいる。
でも、母が見ていてくれるなら、頑張って飛べるかもしれない。
「お母さん、カーラジルトが戻ってきてるの。わたし、これから彼に会ってくる」
七都が言うと、母は寂しそうに頷いた。
「私はもう会ってきたの。いいえ、正確には見てきたって言うべきね。彼には私が見えないから」
「そうか。とても不便だよね、今のお母さんの状況。いわば、透明人間だもんね。そういえば、ナイジェルはお母さんのこと見えるんだよね。確かアーデリーズも。お母さんが見える人と見えない人の違いって何?」
七都が振り返ると、そこには母の姿はなかった。
「あれ……?」
「ナナト、こっちよ!」
母の笑いを含んだ明るい声が、アーチの向こう側から聞こえた。
何もない空中に、母が浮かんでいる。
銀色の濃淡で構成されたその姿は、天使か天女のようだ。
(やっぱり、お母さん、人間じゃないんだよね……)
七都は、改めて思う。
それはもちろん、母の娘である自分自身も、人間ではないということでもあった。人間である父の血も、確かに混じっているとはいうものの。
「地上まで、ぴったりくっついて、ついてってあげるわ」
母が、にっこりと笑った。
「いいけど。……なんかそれ、過保護すぎない? 見ててくれるだけでいいんだけど」
七都が言うと、母がまた叱られた少女のような顔をする。
「お母さん、いちいちそういう顔しないでよ。胸にぐさっときちゃうんだから」
「そうよね。ナナトは今、思春期なんだものね。難しい年頃なのよね」
母が、はあっと軽く溜め息をつく。
七都は、その溜め息にも、情けないような罪悪感を覚えてしまう。
ルーアンの溜め息にも七都は過剰に反応してしまうのだが、母の溜め息にはルーアンの以上の、ずっしりとした重みと影響力がある。
「だって、あなたを育てられなかったんだもの。あなたと一緒に公園デビューも出来なかったし、遊園地にも行けなかったし、幼稚園だって小学校だって中学校だって、入学式も卒業式も参観日も運動会も行けなかったのよ。正直言って、いきなり大きくなっているあなたに、どういう接し方をすればいいのかわからない。私の中ではあなたは、まだ赤ちゃんのままなんだもの。多少過保護になってしまっていたとしても、大目に見てほしいわ」
七都は、くすっと笑う。
母の口から、公園デビューだの入学式だの参観日だのの言葉が飛び出すのが、何か場違いで、似合っていなくて、妙な滑稽さがあった。
そして、いじけ気味の母は、たまらなくかわいらしい。
こういうところも、お父さん、まいっちゃったんだろうな。
余計なことを七都は推測してみる。
「じゃ、地上までフォローして。くっついてこなくていいから。間を開けてね」
「わかったわよ、ほんっと、難しいわね」
母は文句を言いながらも、やはり嬉しそうだった。
七都は、アーチの端に足を揃えて立った。
ぐずぐずしていたら、余計に怖くなってしまう。
何も考えず、降りてみよう。
母が七都のリクエスト通り、少し距離を開けて宙に浮いたまま、七都を見守ってくれている。
七都は、片方の足を踏み出した。それから、もう片方も、おもいきって宙に置いてみる。
体は落ちなかった。
足の下には何もなく、不安定だったが、体は宙に止めつけられたように浮かんでいる。
「お母さん、わたし、宙に浮いてるっ!」
母が、あきれたように微笑んだ。
「ナナトは、見た目は大きくても、魔神族としては、まだ赤ちゃんなんだものね。ほんっと、対応が難しいわ」
母がしみじみと呟いた。
「やだ、お母さん。ナチグロと同じようなこと言わないでよ」
「彼は、ここでは『ナチグロ』じゃないわよ。気に入ってないでしょ、ヒロトが付けたその名前」
「うん、嫌ってるよね。本名は、ロビーディアンなんとか」
「ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレル」
母が、ゆっくりめにその名前を発音した。
名前をまだ全部覚えられない七都は、顔をしかめる。
「お母さんなんでしょう。その長くて覚えにくい名前を付けたのは」
「元の名前、いやそうだったから」
「だからって、そんなに長い名前付けることないのに」
「だって、暇だったんだもの」
「ひ、ひまっ!? それが理由!?」
「名前を呼んでいるその間だけでも、暇がまぎれるかと思って」
母が、天使のように無邪気に笑う。
七都は、あんぐりと口を開けた。
暇……か。
そうだよね。
お母さん、遊び相手もいなかったわけだし。
カーラジルトだって、しょっちゅう会えるわけではなかっただろうし、アヌヴィムは、いわば食料だし。
魔貴族もいない。地上の都市は廃墟で無人。
ここで、たったひとりで、相当退屈な子供時代を過ごしたんだよね。
七都は、子供の頃の母に同情する。
「じゃ、ナナト。そのまま降りましょうか。ゆっくりとね。あせらないで」
母が、危なげに空中に突っ立っている七都に言った。
「うん。降りるのはやったことあるから、だいじょうぶ」
七都の体は、下降し始める。
螺旋階段の真ん中を降りたときは、ただ空気に身を預けただけだった。
だが、今回は降りる速度も自分で自由に調整できた。
早くしたり、遅くしたり。
七都は、急降下で落ちてみたり、空中にぴたっと止まってみたりする。
「あまり調子に乗っちゃだめよ。あなたはまだ、こういうことに慣れてないんだから」
母が注意した。
「だいじょうぶだって。いつものわたしより魔力が使えるんだし」
七都は鳥のように両手を広げ、頭を下にして、ゆっくりと近づいてくる白い都市を眺めた。
気持ちがいい。
風が体を押し上げてくれる。
体の向きも、風の強さも自由自在だ。
七都が命令すれば、風たちがそれに従うかのようだった。
楽しい。
このまま地上まで、のんびりと遊覧飛行して行こう。
ほら、お母さん。何も心配することなんてないよ。
「え……?」
誰もいないはずの地上に、何かたくさんのものが動いていた。
七都は、目を見開く。
低く飛ぶアーモンド形のキャンディのようなもの。 黒や白の、スマートな虫のようなもの。
そして、さまざまな色の布のかけらをまとったような、立った蟻のようなもの。
キャンディが機械の飛行艇、虫のようなものが機械の馬、そして立った蟻が人であることに、七都はすぐに気づいた。
「これは……何? 街には誰もいないはずなのに?」
「ナナト、どうかして?」
母の声が、空気の層の向こう側から、遠く聞こえた。
そんなはずはない。風の都に人々がいるはずもない。
これは、夢?
それともやはり、これも過去の残像?
何度瞬きをしても、人々も乗り物も消えなかった。
それどころか、七都が下降するにつれて、その光景は近づいてくる。
次第に大きく、はっきりと。
「人がいるの、たくさん! 都が生きてる!」
七都が叫ぶと、一瞬の沈黙の後、母の声が聞こえた。
「私には何も見えないわ。ナナト、あなたが見ているのは、過去の景色。風の都は廃墟よ。誰もいないわ。惑わされないで!」
「だって……見えるんだもの。こんなにはっきりと……」
笑いさざめく人々。寄り添い、ささやきあう人々。
忙しそうに道を歩き、あるいはゆったりとバルコニーにもたれ……。
そのひとりひとりの表情が、はっきりとわかるようだった。
人々の髪の色、目の色、そして付けている衣服やアクセサリーの細部まで。
こんなに……こんなに人がいっぱい、いたんだ。
今は廃墟なのに、こんなにたくさん……。
と、都の真ん中に、一本の金色の細い線が入った。
それは見る間に縦に伸び、横にも広がっていく。
風の都全体が巨大な猫の目で、金色の線が、その猫の瞳であるかのように。
やがて猫の瞳を中心にして、幾つもの線が四方八方へうねうねと伸びて行く。
(なに? あれは……なに?)
あちこちで、悲鳴があがった。
その悲鳴の中に、「空が裂けている!」という叫びも混じっていた。
(空?)
七都は、下降しながら、振り返った。
そのあたりにいるはずの母の姿が見えない。
その代わりに七都が見たのは、闇を切り取ってそこにふわりと貼り付けたような、黒い影だった。
(あれは……!?)
ラベンダー色の空に、まばゆく輝く黄金色の亀裂が走っている。
黒い影は、それを背景にして、空中に浮かんでいた。
それは、マントをまとった、ひとりの人物。
緑がかった長い髪が、マントの中からこぼれて広がり、その右手には、剣が握られていた。
オレンジ色に輝く、その剣。七都がよく知っている剣だ。
魔神族の力を奪い、生命を断ち切る力をも持つ、恐ろしい剣――。
七都は影の中に、少女の白い顔を見た。
フードに覆われた、その顔。
その額には、魔王の印である、金の冠がはめられていた。
いつもは透明なワインレッドであるはずのその目は、暗黒の穴が二つ、ぽっかりと並んで開けられたようだった。
そこにあるのは、虚無。
悲しみも喜びも、過去も未来も、すべて吸い込んでしまう、漆黒の闇。
(エヴァンレット……!)
七都は瞬時に、風の都を断ち切るようにして広がっている金色の線が、その天の亀裂を地上にそのまま写したものであることを理解する。
「エヴァンレット!!」
七都は、空に浮かぶ黒い影に向かって叫んだ。




