第7章 新しい扉 10
白い石畳が、銀色の炎に包まれたように輝いた。
次の瞬間、七都は、凄まじい音を聞く。
何かが鈍く引き裂かれたような、濁った音。
それがたくさん合わさり、大きくなったような音だった。
その衝撃に、七都は思わず目を閉じる。
七都の周囲で、風がやんでいた。
落下しているときに、七都を包み込んでいた風。それがぴたりと止まっている。
(何だろう、今のは……)
七都は、そっと目を開けてみた。
二つのぼうっとした翡翠色をした楕円形が、七都の真正面に位置していた。
焦点が合ってくると、その二つの楕円形が、七都のよく知っている人物の目であることがわかってくる。
ただ、それは逆さまだった。
いや、その人物が逆さまなのではなく、七都自身が逆さまになって、その人物の顔を眺めていることも、はっきりしてくる。
「これはまた……。意表を突いた登場の仕方をなさいますね」
その人物が、あきれたように言った。
「カーラジルト!!」
七都は叫んだ。
不透明な、翡翠のような目。薄いカフェオーレ色の柔らかい髪。
あいかわらず、にこりともしない無表情で、<化け猫カーラジルト>アールズロア伯爵は、さらに七都に言った。
「そのままでは、すぐに疲れてしまいます。ナナトさま、少し力をお抜きなさい」
「え……?」
カーラジルトが、七都を包み込むように、両手を差し出した。
七都は、ちらりと周囲を見渡してみる。
逆さまの風の都がそこにはあった。
もちろん逆さまになっているのは七都のほうで、都の風景は、数百年前から全く変わってはいない。
ただ、いつもそこにはない何か妙な緑色をした毛羽立ったものが、七都を中心にして、円を描くように浮かんでいるような気がした。
だが、それを確かめてみる余裕はない。
七都は、体を逆さまにしたまま、宙に浮いていた。何か見えない糸で吊るされたように。
カーラジルトは石畳の上に立っていて、両手を広げ、七都を見上げていた。
(よかった。止まってる……。地面にぶつからずにすんだ。ぎりぎりセーフだ……)
ほっと安堵した途端、七都の体から、すとんと力が抜けた。
「ナナトさまっ!!」
カーラジルトが、驚いたように叫んだ。
ズシン、バサッという鈍い音が、周囲の空気と地面を震わす。
カーラジルトは、落ちてくる七都を素早く受けとめ、その音から守るように、しっかりと七都の体を抱きしめて包み込んだ。
音が通り過ぎ、再び風の都は沈黙する。
「何、今の音……」
「落ちたのです」
カーラジルトが言った。
「落ちた? 何が?」
「あなたが持ち上げ、引き抜いたものが」
七都は、カーラジルトの胸から顔を上げた。
七都とカーラジルトの周囲に、大量の木や草の残骸が散らばっていた。
それらは、地面から乱暴に引き抜かれたばかりの根を石畳の上に晒している。
根には、真っ黒な土がこびりついていた。
まるで誰かが念の入ったいたずらをして、ばらまいたようだった。
草のちぎれた匂いと湿った土の匂いが、あたりに漂っている。
「これ……。わたしがやったの?」
七都は呆然と周囲を眺めた。
美しく静かな風の都を、自分が汚してしまったような罪悪感を覚える。
ぶちまけられた黒い土ででたらめな模様を描かれた石畳は、どこか怒っているように、七都には見えた。
「空中で静止するときに、周囲に影響を与えてしまったのでしょう」
カーラジルトが七都から手を離して、冷静に言った。
「つまりブレーキをかけるときに、勢い余って周りのものを引っこ抜いちゃったわけね……」
七都は、力なく呟く。
「まあ、あなたが引き抜かれたのは、言わば、ここには余計な植物たちです。草むしりをする必要がなくなったということですから」
「いいよ。庇ってくれなくても。一応建物は引っこ抜かなくてよかったけど。やっぱり、わたしって破壊的だ……。とにかく止まれてよかった。ほんと、間一髪だったかも……」
七都は、改めて石畳を眺めて、ぞっとした。
もう少し魔力を使うのが遅かったら、ここに頭から激突していたかもしれない。そして今頃はもちろん跡形もなく……。
七都は、無事だった自分の体を思わず自分で抱きしめる。
「お城から飛び降りたのですか?」
再びカーラジルトが、あきれたように訊ねた。
「うん。あなたに会いたかったの。あなたを探そうと思って、下に降りてきた」
「私を……?」
カーラジルトが、少し驚いたように呟く。
七都は手を伸ばして、カーラジルトの両肩をぎゅっとつかんだ。そして、彼の顔を超どアップの位置から覗き込む。
「久し振り、化け猫カーラジルト!」
「近づきすぎですよ、ナナトさま」
七都の挨拶に、やはり無表情な彼が、やんわりと諌める言葉をかぶせてくる。
「今、わたしを抱きしめて守ってくれたじゃない。近づきすぎどころじゃなかったけど?」
「非常事態です。ああいう場合、そう反応するのが当然でしょう」と、カーラジルト。
「化け猫伯爵さま。やっぱりもうわたしに、ぞんざいな口をきいてくれないんだ」
「申し上げたはずです。ここでは立場が違います。あなたはやはり、城の姫君だったのでしょう?」
カーラジルトが、どこまでも冷静に言った。
「うん……。あなたが知ってるわたしにそっくりな人って、やっぱりわたしのお母さんだったの」
「では、やはりあなたはミウゼリルさまのお子様なのですね」
「つまり、魔王の娘ってことになるね。おまけに、次期リュシフィンだって。わたしは認めてないけど」
七都が答えた途端、カーラジルトは七都からさらに離れた。
マントがふわりと舞い、彼は優雅な身のこなしで、頭を垂れる。
「すっかり遅れてしまいました。改めましてご挨拶申し上げます、姫君。ただいま戻りました」
「お帰りなさい、アールズロア伯爵。お疲れ様でした」
七都は、にっこりと彼に笑いかけた。
「カーラジルト、わたしにも、お帰りなさいって言ってくれる? わたしもここに帰ってきたわけだから。一足先だったけど」
「お帰りなさい、ナナトさま。よく戻られました」
「ただいま!」
再び飛びつこうとした七都から、カーラジルトは、さりげなく身をかわしてしまう。
「もうっ。そっけないんだから」
七都は、口を尖らせた。
「当たり前です。ところで、次のリュシフィンさまはあなたなのですか? では、現在のリュシフィンさまは、やはり母君が?」
「お母さんは、いないの。冠を置いて時の都に行ってしまったんだって。あなたが心配してた通りだ」
「すると、今の風の魔王は、あの方が……?」
カーラジルトが、わずかに眉を寄せる。
「ルーアンのこと? ううん。彼は相変わらず公爵さまのままだよ。あなたが言ってた人……あなたに嫉妬したり、目の敵にしてた人って、てっきりリュシフィンさまだと思ってたけど、違うんだよね。わたしはルーアンのこと、ずっとリュシフィンさまだと思ってたよ」
「ミウゼリルさまでもなく、公爵さまでもなく、あなたでもなく……。では、今の風の魔王は……」
「いないよ。玉座は空っぽだ。冠だけが、そこに浮かんでる」
カーラジルトは、黙り込む。
かなりショックを受けたように、七都には思えた。
「そうだ、お母さん……」
七都は、空を見上げた。
母の姿は、どこにもない。
頭上には、七都が落ちてきた風の城の底が雲に包まれて浮かび、フィルターをかけられた太陽が、魔の領域の中だけでしか見られない、美しいラベンダー色の空を巡っている。
「いない……。そうか。魔力を使っちゃったから、もう見えなくなってしまったんだ……」
カーラジルトが怪訝そうに、猫っぽく首をかしげた。
「ミウゼリルさまは、時の都に行ってしまわれたのでは?」
「体はね。でも、お母さんの意識はいつもそのへんにいるの。ただ、普段はわたしたちには見えないけれどね」
「そうなのですか……」
カーラジルトは、不透明な翡翠色の目を細めて、周囲を見渡した。もちろん彼の目にも何も映らないはずだったが。
「お母さん。ごめんなさい、心配かけて。わたし、ちょっとお母さんに甘えていたかもしれない。お母さんが何とかしてくれるかなって。心のどこかで、そう期待していたかも……。ごめんね。自分で何とか止まったからね。だいじょうぶだったから」
母が空のどこかで、くすりと笑ったような気がした。
七都は、カーラジルトに向き直る。
「お母さんだけじゃないよ、カーラジルト。シィディアもそうなんだ」
「え?」
と、再びカーラジルトが怪訝そうな顔をする。ただ今度は彼は首はかしげなかった。
七都の口から思いがけず自分の婚約者の名前が出て、驚いたようだった。そして、七都の言葉の内容にも。
「シィディアだけじゃなくて、地下の銀の扉の向こうの広間……昔の睡眠装置の中で眠っている人たち、たぶん、みんな。その人たちの意識は体から抜け出して、あの部屋をさまよっている。装置の中に満たされている水は、そういう作用をするの。あの中は生霊状態の人たちでいっぱいなんだ。だから風の都は、幽霊都市なんて呼ばれてる」
「……」
カーラジルトは、ただ黙り込んだまま、七都を見つめていた。
「カーラジルト。シイディアに会いに行ってきたのでしょう? あなたのそばには、彼女がいたはずだよ。あなたには見えなかったでしょうけど。今回だけじゃない。あなたがあそこに会いに行くたびに、いつも彼女はあなたに寄り添っていたはずなんだ。気づいてもらえない切なさと寂しさで胸をいっぱいにして」
そうだよ、カーラジルト。
わたしも幽体離脱していたとき、あなたに会いに行ったのに。
あなたは気づいてくれなかった。わたしが見えなかった。
どんなにへこんだと思う?
あなたの婚約者のシイディアは、あなたが会いにいくたびに、きっとあの時のわたし以上の思いをしていたんだと思うよ。何百年もずうっと……。
「そう……ですか」
カーラジルトは、やっとそれだけ呟いてうつむき、再び黙ってしまった。
「カーラジルト……」
七都は、大きな猫を撫でるように、片手で彼の耳の下あたりに触れた。
「シイディアに会いたいよね……。聞くまでもないよね。わたしは、リュシフィンになるべきなのかな。わたしがあの玉座に浮かんでいる冠を頭に乗せれば……。そして風の魔王になって、シイディアをよみがえらせれば、あなたたちは再会できる。すぐにでも」
カーラジルトが、顔を上げた。そして、翡翠色の目で真っ直ぐ七都を見つめる。
「そうすれば、他の人たちも眠りから覚めて、あの扉の中から開放される。都から出て行って散り散りになった人たちも戻ってきて、風の都は昔のように賑やかになる……」
「お待ちください」
カーラジルトが、落ち着いた声で言った。
「今の状況では、あなたがリュシフィンさまにいちばん近いのかもしれません。しかし、今までのリュシフィンさまは、あなたのお母上も含め、誰ひとりとして、彼らを起こさなかったのですよ」
「ルーアンは、わたしなら出来るかもしれないって言ったよ。わたしがリュシフィンになれば、強力な魔王になるらしい。だから……」
「魔力の強さの問題なのでしょうか……」
カーラジルトが少し眉をひそめて言った。
「魔力じゃなかったら……? なに?」
「わかりません。けれども、もっと何かあるような気がするのです。彼らを眠りから覚ましてはならない何か、そういうわけが……」
「お母さんは、逃げてるみたいなこと言ってたけど。先送りにしてるって。魔力以外に、そんなに深い理由があるとは思えないけど……」
「そうですね……。あなたがおっしゃるようなことならよろしいのですが」
カーラジルトは、深い溜め息をつく。
七都は、思わず彼に両手を回し、その手に力をこめた。
「とにかく、早急に決めるのは、やめていただきたいですね。私とシイディアのためにリュシフィンさまになろうなど、もってのほかです。我々のことは、お気にとめていただかなくともよろしいのですよ」
「でも、あなたはわたしがリュシフィンになってほしいって思ってるでしょう? そのことを期待してると思う。それが当たり前だもの」
「正直に申し上げると、そういうことになりますね」
カーラジルトは無表情なまま、認める。
「だったら……」
「よいのですよ。我々は今まで待ちました。これからもお待ちいたしますとも。ナナトさまは魔王さまどころか、この世界にもまだ慣れてはおられないでしょう? 魔神族であるご自分とこの世界を受け入れてもおられない。そういう大切なことは、じっくり見極めてお決めなさい」
「カーラジルト……。ごめんなさい、あなたの期待にすぐに答えてあげられなくて……」
七都は、カーラジルトの胸に顔をうずめた。
突然カーラジルトの胸がふわふわのあたたかい毛で覆われた。
七都が顔をあげると、そこには巨大な白い猫が座っていた。
「あれ。変身しちゃった……」
(あの姿であなたにいつまでも抱きしめられていると、あらぬ疑いをかけられますから)
猫になったカーラジルトが、七都の頭の中で言う。
「じゃあ、遠慮なく抱きついちゃおう」
七都は、巨大なぬいぐるみに突進するように、カーラジルトに飛びついた。
「わあ、やっぱりあったかーい。気持ちいいっ。ふわふわだっ!」
七都は、わさわさとカーラジルトの背中をかき混ぜる。
(ほどほどになさってください)
カーラジルトが、さらに表情のなくなった猫の顔で言った。
「ルーアンのことを気にしてるの? だいじょうぶだよ。彼はそんなに物分りの悪い人じゃない。ただ、頑固で、少しだけ上から目線だけど。それに、お母さんとのことだって、きっとあなたの誤解だよ」
(そうでしょうか……。尋常ならざる視線で、いつも見つめられていましたが)
「気にしすぎだって。そうだ、カーラジルト、これから一緒にお城に行こう。そして、ルーアンに会って、彼と仲直りしよう」
七都は、彼に提案する。
(公爵さまとは、元々仲たがいなどしておりません)
と、カーラジルトがそっけなく答えた。
「ルーアンも同じこと言ってたよ。じゃ、決まりだ。わたしが呼んだらいつでもお城に来るって、確か言ってたよね」
(それは申し上げましたが……)
「なに、その隠れた困り顔は。だいたいね、ルーアンがもし次のリュシフィンになったら、あなたは直接彼に仕えなきゃならないんだよ。苦手だの何だの、文句言ってられなくなるんだから」
(それはそうですが。私は出来れば、ナナトさまにずっとお仕えしたいですね。姫君付きの臣下として)
「わがまま言わないの!」
七都は笑いながら、カーラジルトから離れた。そして、命令する。
「では、アールズロア伯爵カーラジルト、わたしを乗せて、風の城まで飛びなさい」
(……かしこまりました、姫君)
カーラジルトは、頭を下げた。
七都は、毛先が銀色に輝く白い大猫に跨り、風となって上空に舞い上がった。




