第6章 招かれざる客人 11
七都は、ナイジェルの口づけを受けていた。
それは、ユードがしたような優しく甘いものでもなく、シャルディンと交わしたような、軽く啄ばむようなかわいらしいものでもなかった。
乱暴で、有無を言わせぬキス。七都の意思も感情も、すべてを無視するような、一方的な口づけだった。
ナイジェルの尖った歯が七都の唇を傷つけ、滲んだ血が口の中に広がっていく。
ナイジェルとのキスが、こんなのだなんて……。
ショックのあまり、涙が目から溢れた。
体はやはり、冷たい石になったように動かない。
ナイジェルの魔力が七都を戒めていた。茨の枷に幾重にも巻かれたように。
貪るような長い口づけのあと、ナイジェルは、やっと七都から顔を離した。
だが、それは、これから始まる行為の序章が終わったことにしか過ぎない。
彼は、まだ当分七都を解放しないだろう。事がすべて終わってしまうまで。
「キディアスが言っていたよ。きみに会ったら、必ずきみに印を刻めと」
ナイジェルが呟いた。
「彼の言動に影響されなかったんじゃないの? あなたは自分の意思で行動するのでしょう?」
七都は、ナイジェルに言う。
いつものナイジェルに戻って欲しい、と祈りながら。
けれども、これが七都の知らない、いつもの彼なのかもしれない。怖いくらいに冷静だと彼が言ったとおりに。
ならば、逃れる術はない。抗う力さえ萎えてしまう。
「考えが一致することは多々ある。でなければ側近などさせてはいない」
ナイジェルが答えた。
それから彼は、ささやくように七都に言う。
「キディアスはきみに言わなかったかもしれないが……。ナナト。きみとぼくは、血が繋がっているんだよ」
「王族は親戚同士だもの……。みんな、薄く血は繋がってる」
「もっと近いんだ。きみのおじいさまは、火の王族出身だが、彼の母君は、水の魔王の直系の姫君だった。きみは水の魔王の王位継承権も持っているんだ」
「そういう話も聞いたよ。五十番目とか……百番目くらいかな」
「五十番目? 百番目? とんでもない」
ナイジェルは、ふっと笑った。
「さっき言っただろう。水の王族は殺し合いをしたから、血の繋がった親戚は、もう残ってはいない。今はきみしかいないんだ」
ナイジェルは、いとおしげに七都の頬に唇をつけた。
「わたししか……?」
「だから、水の王家としては、きみがほしい。きみがどうしても必要だ。もしぼくに何かあったら……。きみが次のシルヴェリスになるんだ」
「何言ってるの、ナイジェル。唐突にそんなこと……。第一、あなたには何も起こらないよ。あなたはまだシルヴェリスさまになったばかりなのでしょう。取り越し苦労だよ。太陽のことだって、気をつけてればだいじょうぶじゃない」
「なったばかりだからこそ、心配するんだよ。後継者のことを……」
ナイジェルが、七都の目を覗きこむ。
七都は、びくりと体を震わせた。
もう序章は終わった。これから始まるのは――。
「やっぱり、ぼくが怖くなった?」
ナイジェルが訊ねた。再び七都の目から流れ出す透明な液体をじっと眺めながら。
七都は、まだ針のように細い瞳のナイジェルの目を真っ直ぐ見上げた。
「ナイジェル……いえ、シルヴェリスさま。わたしは、まだ未熟です。あなたを受け入れ、抱きしめて、お慰めしたい。本気でそう思います。でも、そうするには、わたしはまだ子供すぎます……。何も準備が出来ていません。わたしは、自分のことだけで……自分を守るだけで精一杯です」
「わかっているよ、風の姫君。今のきみに、何かをしてもらいたいとは思わない。ただ、そばにいてくれるとありがたい。ぼくの大切な女性として」
ナイジェルが言った。
「いいえ、シルヴェリスさま。わたしは風の王族の一員です。先代のリュシフィンの、たったひとりの娘なのです。ルーアンとわたし……。どちらがリュシフィンになるか、両方ともならない道を選ぶのか。それは、わたしたち二人、風の王族の中で決めること。他の魔王さまに決めていただくことではありません。他の魔王さまには、ただ見守ってくださることを望みます。だから、シルヴェリスさま。わたしをここから連れて行くなんて、そんなことなさってはいけません」
ナイジェルの機械の手が、七都の頬に触れる。
涙が銀色の機械の指を伝って、白い花の上に滴った。
「ナイジェル。怖いあなたもあなただというのなら、それも受け入れたいと思う。でも、わたしはわたしの勘を信じるよ。たとえわたしの知らないあなたがたくさんあったとしても、あなたはわたしが思っているあなただと信じる。わたしは、あなたが好きだよ。あなたに恋をしようとしている。ううん、たぶん、もう恋をしているんだ。それは紛れもない事実だと思う。でも、わたしの中では、それは、直ちにこういうこととは繋がらない。水の都に行くってことも、繋がらない。私と同じように異世界から来たあなたには、それをわかってほしい……」
ナイジェルは猫の瞳のまま、しばらく黙って七都を見下ろしていた。
それから彼は、目を半分くらいに細めて呟く。
「静かな怒りを感じる……」
「え……?」
「これは……ルーアンだね」
「ルーアン……?」
七都は、ナイジェルの肩越しに、風の城を眺めた。
その窓の一つに、ルーアンが立っている姿が、一瞬、切り取って拡大されたように見えた。
眉を寄せたその険しい表情は、その状態のまま仮面にでもされたかのように、彼の顔に張り付いていた。
(ルーアンが見てる……。彼に見られてる……)
七都は、風の城から顔をそむける。
彼は、どう思っているのだろう。
この世界での七都の唯一の身内であり保護者である彼は、この光景を見て……。
「彼は……やはりきみを愛しているんだね。無意識かもしれないが、ぼくに対して押さえきれない怒りを向けている。魔王であるぼくに」
「ルーアンが……」
ナイジェルにそう言われて、七都はどきりとする。
七都には、ルーアンの怒りはわからなかった。相変わらず彼のしかめっ面は、七都を責めているようにさえ思えた。
けれども、違うのだ、おそらく。
怒りは、ナイジェルに向けられたもの……。
「そう。彼は愛してくれている、わたしを。たったひとりの身内として。リュシフィンの後継者として。それから、たぶん、彼の結ばれなかった婚約者の孫娘として……」
「本当に、それだけなのかな?」
ナイジェルが、七都を覗き込みながら、くすっと笑った。
それは、いつもの彼の微笑みだった。
針のように細かった彼の瞳が、いつもの大きさに戻っている。
穏やかで澄んだ、透明な水色の目。七都があこがれている、普段の彼の目だった。
七都は、その目を見上げて安堵する。
序章は序章だけで終わりだった。その先に進もうとする気は、ナイジェルにはない。そのことを七都は理解する。
魔力の呪縛も解かれ、七都の体は自分の意思で動くようになっていた。
「きみを守りたければ、ぼくをぶん殴りにくればいいのに。今すぐ玉座に浮かぶ冠をかぶってね。でも、彼はそれをしない」
ナイジェルが言った。
「出来ないんだ。魔貴族の悲しき性だよ。魔王さまには逆らえない。それにルーアンは、自分から王族の身分を捨てて魔貴族になった立場だもの。そうせざるを得ないんだ」
七都は、ルーアンを弁護する。
「きみも、案外冷静に分析できてるんだね。今、こういう状況に置かれているというのに」
ナイジェルは笑って、七都の額を撫でた。それから、少し真面目な顔をする。
「風の姫君。いつかぼくは、きみを抱く。きみがリュシフィンになろうがなるまいが。出来れば皆に祝福されて、きみを抱きたい。そのときは泣き顔じゃなくて、笑顔でぼくを受け入れてもらうよ」
一瞬、息が止まりそうになった七都は、気持ちを急いで落ち着かせ、深呼吸をする。
「ナイジェル。わたしをからかったの? お芝居したの? だったら、ひどいよ」
七都は、彼を睨んだ。まだ泣き顔は充分残ったままだったが。
「いや。割と本気だったよ。今回も自分を抑えるのに苦労したさ。ただ、きみのあのひどい怪我が本当に治ったのか、確かめたかった。キディアスは完全になくなったって言ったけどね。自分の目で見たかったんだ。あと、ルーアンがどう出てくるのか知りたかった。それもある。彼は、リュシフィンになる気は全くないみたいだね。あきれるくらいだ。けれど、きっときみの忠実な臣下になってくれるだろう」
「やっぱり……やっぱり演技だんたんじゃない、ナイジェル。ひどいっ! 何かいろいろ確かめるためにこんなことするなんて!」
「本気も入ってたって言ったでしょう。だけどナナト、きみも拒絶するなら、徹底的に抵抗しなきゃ」
「え?」
「心のどこかで、ぼくをこのまま受け入れてもいいとか思ってなかった?」
「そ、そんなこと……!」
「……ない?」
「ないよっ!」
ナイジェルは、再びしげしげと七都を見つめる。七都のあらわになった体全体を。
七都は、体を硬直させた。
「しかし、このまま何もしないのは、やはりもったいないかな。この花畑で……ルーアンが作ったこのきれいな場所で、そしてルーアンが見ている前で、結ばれてみる?」
「結ばれてみないっ!」
間髪をいれずに、七都は叫んだ。
ナイジェルは、声をあげて明るく笑った。そして、七都から離れて立ち上がる。
彼はもう裸身ではなく、それまでと同じように服装をまとっていた。まるで何事もなかったかのように、黒いマントがふわりと舞う。
「ぼくは、これからルーアンと話さねばならないからね。先に城に戻るよ。きみはあとから、ゆっくりおいで」
七都が起き上がったとき、もうナイジェルの姿はなかった。
白い花畑の中に、七都だけが取り残されていた。
その寂しさを紛らわしてくれるように、透明な蝶たちが、ふわふわと七都の周りに集まってくる。
「もう。ナイジェルったら……。自分だけ服着て、さっさと行っちゃうなんて。脱がしたんなら、ちゃんと着せてほしいよね。このドレス着るの、時間がかかるんだから。だいたい複雑すぎて、一人で着られないんだからっ」
七都は、ぶつぶつ文句を言いながらドレスを抱え、花の絨毯の上に仰向きに寝転がる。
肌をこする風、あたたかい太陽の光、そして足や腰をくすぐる花の感覚が、気持ちよかった。
ああ、でも、ほっとした。どうなるかと思った。
ナイジェル……。
わたしに情熱的すぎるキスをくれたけど……。わたしの顔は撫でてくれたけど……。
わたしの体には、一切触れなかった。
わたしとの間に、ほんの少しだけ間隔をあけて、宙に浮いてた。
この間の、幽体離脱したときのわたしみたいに。
もしかして、そのために魔力を使ってたの? 私が余計に動いて、体が接触しないように?
じゃあ、やっぱり最初から、何もしないつもりだったの?
七都は、自分の肩を両手で抱きしめた。
もしそうなら、誤解して泣いてしまったことになる。彼を信用していなかったことになる。
ナイジェル。あなたはやっぱり、わたしが感じたとおりの人だよ。わたしが憧れているあなただよ。
わたしのカンは、きっと当たってる。
あなたの全部を知らなくても、わたしには判断できると思う……。
「だけど、まだドキドキする……」
ナイジェルに、オールヌードを見られてしまった。
恥ずかしくて、彼のは見られなかった。ずっと目をそらしていた。
でも、彼に、あのまま体を見られていたかった。
彼の視線が心地よかった。ものすごい高揚感だった。
いつか、きみを抱くって……。
そう言われたとき、気が遠くなった。
嬉しかったかもしれない。
はい、いつかあなたに抱かれたいですって、即答したくなったかもしれない。
「結局、ナイジェルを拒否して、拒否できたことになったわけなんだけど……。本当は、心のどこかで少し思ってたかも……。このまま彼を受け入れてもいいかなって。そうなっちゃってもいいかなって……。彼が指摘したとおり。だって、ナイジェルを蹴ろうとか全然思わなかったもの。ナイジェル……。やっぱり見抜いてた……?」
さくっという、誰かが草を踏みしめる音が聞こえた。
それは、次第に近づいてくる。
さくっ。さくっ。
七都は、飛び起きた。
花畑の中を、見知らぬ若者が歩いている。七都が座っている場所をめざして。
アヌヴィムの一員ではない。七都が全く見たこともない人物だった。
(どうしよう。こんな格好なのに誰か来る。でも、誰? わたしの知らない人が、まだここにいたなんて?)
七都は、慌ててドレスを胸のあたりまでかき上げて抱きしめ、その人物を見据えた。
魔力を使って、瞬間移動で逃れればいい。そういう簡単なことさえ思いつけないくらいに、七都の頭は混乱していた。




