第6章 招かれざる客人 10
「きみは……ぼくのことをどう思っているのだろう」
ナイジェルが言った。
ラベンダー色の空を背景にした彼の白い顔は、思いつめたように翳りがあり、悲しげだった。
「どうって……。好きだって……さっきそう言った……」
「そうじゃなくてね」
ナイジェルは、七都を覗き込む。
七都は、居心地の悪さに戸惑った。
なんかやっぱりこれ、危ないシチュエーションのような……。
ドラマや映画、漫画の中で見かけた数々のシーンが、頭をよぎる。
でも、ナイジェルだもの。
相手はナイジェル。そんなことにはなるはずないよ。
「きみの中でぼくは、どういう形で思い描かれているのだろう。やっぱり、やさしくて? 勇気があって……とかになるのかな?」
ナイジェルが訊ねた。
「うん。あなたは、とてもやさしいと思う。勇気があるし、のんびりしているように見えるけど、実は鋭くいろんなことを見抜いてる。それに、本能や感情に左右されずに、自分をきちんと管理することが出来る。必要以上に干渉しないで、わたしを見守ってくれるし……。素晴らしい人だと思うよ。魔王さまだなんて思えないくらい」
「魔王さまだなんて思えない……か」
ナイジェルは、七都が最後に言った言葉を繰り返す。
「でも、ぼくは魔王なんだ。きみの世界にいるような、品行方正で礼儀正しい人間の男じゃない。この世界の人間たちから怖れられ、魔貴族たちからも一目置かれる魔王だ」
「だけど、わたしには、ナイジェルはナイジェルだよ。魔王さまだなんて、あまり意識してないし……。それに『魔王』だなんてとんでもない名称で呼ばれてるけど、結局一つの種族の王さまじゃない。たまたまその形態が人間にウケが悪いだけで」
「だけど、きみもその形態は気に入っていないわけだろう」
ナイジェルは、さらに七都の顔を覗き込んだ。
透明な水色の目の中で、黒い瞳が針のように細くなる。
「ナナト。きみは、エディシルを取ることを拒否しているらしいね。アヌヴィムの少年からも、キディアスからも、あげくにはエルフルドやジエルフォートも拒否した。きみは、差しさわりのない蝶やカトゥースのエディシルで、空腹をしのいでいる。そのせいで、グリアモスの傷も簡単には治らなかった……」
「馬鹿なことしてるって思う? でも、わたしにはまだ魔神族の食事は受け入れられないの。どうしても、自分が生き延びるために人間を犠牲にして、エディシルを奪うのが許せない」
「ぼくは受け入れた。受け入れなければ、この世界では生きてはいけない。きみの知らないこと……きみには話せないことも、たくさんしてきたよ。人間を自分の空腹を満たすために殺したことがない、なんて決して言えない。きみの中のぼくは幻想だよ。きみは、ぼくのいい面しか見ていないんだ」
七都は、無表情な猫のような目になったナイジェルを見上げた。
異質な目。決して人間ではない、妖しく、不気味な目――。
けれども、総毛立つほどに美しい目だった。
「やめて、そんなこと言うのは……」
七都は、泣きそうになる。
いったいナイジェルは、突然何を言い出すのだろう。
今までの甘いじゃれあいは、どこに行ったの?
「あなたがどんなことをしてきたのか、知らない。わたしは、わたしの知っているあなたで判断するしかない」
「でもね、きみの知らないぼくも、ぼくなんだ。きみはぼくを本名で呼んでくれるけど、魔王シルヴェリスというのも、ぼくなんだ」
ナイジェルが呟いた。
「ナナト。今、リュシフィンは、ここにはいない。魔王であるぼくに対抗できるのは、魔王であるリュシフィンだけだ。きみはぼくに従わねばならない。もし拒否したいなら、今すぐ冠をかぶって、きみがリュシフィンになり、ぼくを拒否しなければならない。あるいはルーアンが今すぐリュシフィンになって、ぼくを止めるか、だ」
拒否? 拒否って?
止めるって?
それって……。
「ぼくは、きみの体に恋焦がれる。太陽に溶けないきみの体を。その体を抱いて、そして抱きしめられたいとも思う」
ナイジェル。それ、どういう意味?
そんな、まさか……
「きみに、ぼくの印をつける」
ナイジェルが、静かに言った。
嘘だ……。
まさか、ナイジェル、本気でそんなことを!?
「ま……待って。ちょっと待って、ナイジェル!!」
なに、この急展開。わたし、ついていけないよ、ナイジェル!
七都は呆然としながらも、慌てて言葉を探す。
彼が今言った言葉を冗談にしてしまえるような、何かそんなセリフを、取りあえず探さなくちゃ。
「あ、あのね、ナイジェル。わたし、発情してないから。魔神族の男性は、女性が発情していなかったら、そういうことはしないんじゃなかったっけ」
七都は少し冗談めかして、明るめにナイジェルに言った。
本当は発情していなくても、そういうことをする場合がある。カーラジルトは言ったが、この際、知らないことにしよう。
けれども、ナイジェルの表情に変化はなかった。冷ややかに、彼が言う。
「残念ながら、ぼくには、やっかいな人間の血が混じっているからね。魅力的な女性を見ると、常に発情する人間の血が。それに、発情期の近い魔神族の女性と交われば、女性が本当に発情することもあるという。それも期待しよう」
「ナイジェルっ!!」
七都は叫んだ。悲鳴に近かった。
何だか、ずっと信じて握りしめていた手を、いきなり、ぱん、と振りほどかれたような気がした。
このことなの? ルーアンが、さっき言っていたのは……。
<ナナト。あなたは、それなりの覚悟が出来ておられるのでしょうか?>
<ご自分の身はご自分でお守りください。私もロビーディアンも、あなたを助けてさしあげることは出来ません>
ルーアン、こういうことを予測して、言っていたの……?
「ぼくと交われば、きみはぼくの魔力を使うことが出来るんだ。そのことによって、ぼくはきみを守れる。きみは水の魔王の強力な力で守られることになるんだよ」
ナイジェルが呟いた。
魔力を使える……。
それで……? それでなの?
人間であるはずのおばあさまが、魔力を使って瞬間移動が出来たのは……。リュシフィンのお妃だったから?
七都は、ぼんやりと思う。
やがて七都は、やわらかい陽射しとやさしい風の流れを直接肌に感じた。体を覆っていたドレスの肌触りが消えている。
あ……。ドレスは……?
七都が着ていた白いドレスは、いつの間にか七都の体の下に敷かれていた。ドレスが七都を通り抜けて、そこに落ちてしまったかのように。
そして七都は、自分がナイジェルの前に、一糸まとわぬ姿で横たわっていることを理解する。
「きれいだ……」
ナイジェルが、七都の体を見下ろしながら、ささやくように、そして溜め息をつくように言う。
彼の視線が、突き刺さるようだった。
「あの醜く恐ろしい傷は、本当に跡形もなくなっているね」
七都は、彼の視線を避けるために、目を閉じる。
全身の毛が逆立つようだ。体全体が硬直し、がくがくと震えている。
胸が重く、息が苦しかった。
ジェットコースターのてっぺんにいるような、奇妙な気分にもなる。
体を動かそうとしたが、全く動かなかった。
それは、硬直しているせいではない。何か抗しがたい目に見えない圧力が、七都の体を覆っていた。
(ナイジェル……。わたしに魔力を使ってるの? 魔力で、わたしを動けなくしてる?)
ショックだった。そして、情けなかった。
ナイジェル。あなたがこんなことをするなんて……。
まだ信じない。信じたくない。
けれども、ナイジェルのしようとしていることは、もう疑いようもなかった。
「ねえ、ナイジェル。冷静になって」
「充分、冷静だよ。怖いくらいにね」
「冷静じゃないよ!」
七都は、叫ぶ。
「あなたじゃない。あなたがこんなことをするわけがない」
「こういうことをするぼくも、ぼくなんだ。きみの知らないぼく……。まだたくさんあるとも」
「やめて。あなたを怖いって思いたくない」
「怖い? 怖いか……。そうだ、そう思わないほうがおかしいのかもしれない。ぼくは魔王なのだから」
「ナイジェル……。あなたのことを好きだって、確かに言ったよ。でも、いきなりこんなのは、いやだ」
「ぼくの名前は、シルヴェリスだ。ナナト、ぼくの印を刻まれることで、きみはこの世界にもっと繋ぎとめられることになる。魔王の愛人、恋人、婚約者として、きみはぼくの魔力を自由に使うといい。そうすれば、この世界はきみにとって、もっと居心地のいいところになるだろう。しかし、そうなると、もちろんきみは、元の世界に帰りにくくなる。魔力をうまく制御出来ないきみは、元の世界に帰ると、人間たちに化け物扱いされることになってしまう。……では、やはりこのまま、きみを水の都に連れて行こう。きみがいなくなればルーアンも、自分がリュシフィンになるしかなくなる。もうのんびりと先延ばしすることも出来なくなる。選択の余地はなくなるんだ。魔王は常に七人いなければならない。リュシフィンが加わることは、我々魔王にとって、そして、魔神族全体にとっても、歓迎すべきことになる。やっと七人揃うのだからね」
七都は、目を開けた。
ラベンダー色の空の下に、ナイジェルが見える。
覆いかぶさるようにして、じっと自分を見つめているナイジェルが。
額には、それまでの耳のリングを変化させた金の冠。波のうねりのような浮き彫りが入った、菱形の美しい冠だった。
そして彼は、彼が今魔力で押さえつけている七都と同じように、その輝くような白い裸身を風にさらしていた。
「ナイジェルっ!!!」
七都は、絶望的な叫び声をあげた。
ストーフィが、窓際に立っていたナチグロ=ロビンの腰に、おもいっきり頭突きを食らわせた。
何の反応もないことを見て取ると、今度は、太ももに猫パンチを突っ込む。
しかし、やはりそれも無視されてしまった。
次は、膝の下あたりをめがけて、回し蹴りを見舞う。
だが、それでも反応はない。
目標物のナチグロ=ロビンは微動だにせず、窓の外を凝視しているだけだ。ものすごい形相で。
ストーフィが一瞬静止して、今度はどうしようかと考えあぐねるような素振りをした途端――。
ナチグロ=ロビンは振り向きもせず、ストーフィをすいと持ち上げた。
そのまま水平に宙を移動させ、長椅子にぽいと投げ捨てるように落とす。
もちろんナチグロ=ロビンは、手も足も使わず、魔力を使ってやったのだった。
ストーフィは、長椅子の上でクッションに埋もれて、じたばたと手足を動かした。
「うわああああ。まずいよっ。やばいよおっ。七都さんとシルヴェリスさまがああああっ!!!」
ナチグロ=ロビンは、窓の下――庭園の花畑で起こっている出来事を確認すると、『ムンクの叫び』のポーズをする。
「そのようだね……」
同じくナチグロ=ロビンの隣で、窓枠にもたれながら佇んでいたルーアンが、呟いた。
「そのようだねって。そんな悠長なっ!!!」
ナチグロ=ロビンが、髪を逆立てて叫ぶ。
「シルヴェリスさまがナナトをご所望なら、我々は従わねばならぬ。ナナトも魔神族の女性ならば、そうなる覚悟をある程度はしておかねばならなかった。それに、あの二人は思い合っている。結ばれるのは時間の問題だ。遅かれ早かれ、ああなっただろう」
ルーアンが、ナチグロ=ロビンの表現どおり『悠長』に言った。
「でもっ! 七都さんは、嫌がってる。あれは、どう見てもゴーカンだよっ!!!」
「ナナトの気持ちを束縛し、その向かう先を邪魔しているのは、元の世界での高校生としての常識とか分別とか道徳とか、そういうものだけだろう」
「だとしても……たとえそうだったとしても! 七都さんは拒否したがってる。七都さんは、やっぱり高校生なんだよっ。ついこの間、高校生になったばかりなんだよっ。ああいうこととは、まだまだ縁のない生活してるんだよお。だめだよ、ここで見てるだけなんて。助けなきゃ」
「助ける? そんなことなど出来るわけもない。魔王さまに逆らうことは許されない。たとえ他の一族の魔王さまでも。きみも、わかっているはずだ」
ナチグロ=ロビンは、無表情なルーアンの横顔を見上げた。
「ルーアン。ああ、ルーアン。前にもこんなことがあったよね。あのときも、何も出来なかったんだ。ぼくはもちろん、あなたも……」
「……」
それは、ミウゼリルが生まれる少し前。百年以上も前のこと。
目を閉じたルーアンの記憶の中に、ある忘れられぬシーンがよみがえる。
闇色の長い髪を床に乱し、仰向きになって横たわる黒い瞳の少女。それは、彼の婚約者テルレージア。
彼女の上に覆いかぶさっているのは、当時のリュシフィン。
彼が火の都から連れて帰り、その額に風の魔王の金の冠をはめ、玉座に座らせた若者だった。
リュシフィンに妃としての印を刻まれていくテルレージアは、黒いガラスのような冷たい目で、床の上の低い位置からルーアンを見据えていた。
耐えられずに顔をそむけ、かろうじて一礼を行なってそこから立ち去ろうとしたルーアンに、リュシフィンの声が釘のように突き刺さる。
<ルーアン。この場から下がることは許さぬ。証人として、そこで見届けるのだ。この娘が私の妃であることの証人として、そなたはここにおらねばならぬ>
リュシフィンの言葉が、その時塞いでいたはずの耳の奥に響いて、消えた。
ルーアンは、目を開ける。
「今回は、助けなきゃ……。七都さんは、助けるよ」
ナチグロ=ロビンが言った。
「それは、シルヴェリスさまをお諌めするということか? 無礼打ちにされても文句は言えぬぞ」
ルーアンがナチグロ=ロビンに言うと、彼は思いつめたような目をして、ルーアンを眺めた。
「そうなっても仕方がない。ぼくは、行く。シルヴェリスさまをやめさせる」
「ロビーディアン。ナナトの世界に滞在しすぎて、毒されたか?」
ルーアンは、冷ややかに彼に言葉を投げつけた。
「……かもね。なんせ、いつもリビングのテレビの真ん前で寝てたから。ワイドショーにさんざん毒されたさ。七都さんの世界の常識にも、どっぷりとね」
ナチグロ=ロビンの姿が、ルーアンの隣から掻き消える。
ルーアンは眉を寄せ、暗いワインレッドの目を、鮮やかな花々ときらめく透明な光で溢れた、彼の庭園に注いだ。




