第5章 幽霊たちの都 1
二つの水色が見える。
透明な水色。空の色を閉じ込めたような、澄んだ青。
せつなくなるような、懐かしいような、恋しいような。そんな青だった。
その青は、じっと七都を見つめていた。真剣な眼差し。怖くなるくらいの。
これは、目?
ナイジェル……?
七都は、目を見開く。
と同時に、その二つの透明な水色と間近で見つめあっていることに気づいて、叫び声をあげる。
「ユウリスさまっ!!!」
「なんだよー。朝から騒々しいな」
肩のあたりから、聞き慣れた声がした。
「ナチグロ? もとい、ロビン!」
七都は、自分が天辺の部屋のベッドの上にいることを思い出す。
起き上がると、枕の横に、猫になったナチグロ=ロビンが丸くなっていた。
金色の目で七都を睨んでいる。
窓から射し込む朝の光で、目は黒い糸のようだ。
枕を挟んだ反対側には、ストーフィが寝ていた。
ストーフィもまた、朝の光のせいで、ぴかぴかに磨かれた鏡のようだった。
オパール色のまんまるい目が、七都をじっと見上げている。
どうやら七都は、右にナチグロ=ロビン、左にストーフィを従えて眠っていたようだった。
「あ、ストーフィ。久し振り。いつの間にか帰ってたんだ。きみ、ずっとルーアンと一緒だったもんね」
ストーフィは、妬いてんの?と言いたげに、黙って七都を見つめた。
「七都さん、またぞろ何か夢みたの?」
ナチグロ=ロビンが訊ねる。
「ん……。夢っていうか。見えるの。たぶん意識が半分眠っているときに。元魔王のユウリスさまが、わたしの顔を覗き込んでた。やっぱり、覗かれてた。やだな。あの目、怖いんだ。ナイジェルと似ているのに、迫力が全然違う。なんせ年季が入った魔王さまだもんね」
「やめてくれよお。魔王さまの亡霊とか生霊なんて、最悪で最強じゃん」
ナチグロ=ロビンが、眉を寄せた。
「これからしょっちゅう、起き掛けに顔覗き込まれるのかな。まさかユウリスさま、わたしに一目惚れでもしたとか?」
そんなわけないよね。
エヴァンレットに似てるからなんだ。
七都は、思う。
彼女にとてもよく似ているし、彼女の服を着ているし、彼女のベッドで寝てたりなんかするから、きっとわたしの中に彼女を見ちゃうんだ……。
「お母さん、そこにいる? いるならユウリスさまに言ってよ。いちいちわたしの顔を覗き込んで、怖がらせないでって」
七都は、その辺に立っているかもしれない母に向かって、言ってみる。
ふと部屋のどこかで、母が困ったように肩をすくめたような気がした。
「でも、ともかくゆうべはよく眠れたよ。変な夢も見なかったし。エヴァンレットを見るなんてこともなかった。あなたたちが両側で寝ててくれたおかげかな」
「エヴァンレットおお?」
ナチグロ=ロビンが顔をしかめる。
「うん。ルーアンのお姉さん。たぶんこの部屋の窓のところに、彼女の残留映像が刻まれてる」
「えーっ」
ますますナチグロ=ロビンは、顔をしかめた。
扉がたたかれて、サリアが入ってくる。
「おはようございます、姫さま」
彼女は七都の前で、丁寧にお辞儀をした。
(そうか。サリア、侍女になってくれたんだっけ)
自分に侍女がいるという事実が、七都はまだ何となく信じられなかった。
嬉しいような、恥ずかしいような、複雑な気持ち。
そして、その中には、自分が王族の姫君であるという、ぴりりとした緊張感と責任感も、確かに一緒に混じっている。
サリアは、明るいブルーの、動きやすそうなドレスを着ていた。
アヌヴィムの女性たちと一緒にいたときのような派手な格好でもなく、地上にいた時の地味で暗い衣装でもなかった。
「サリア、素敵。その色よく似合ってる」
七都が言うと、彼女は微笑んだ。
「ミウゼリルさまの侍女が着ていた衣装です。用意していただいたお部屋にあったので、使わせていただくことにしました」
「そういえば、懐かしいな。美羽さんがここにいた頃は、その服を着た女性たちがたくさんいた。でも、七都さん、侍女はひとりじゃ足りないよ」
ナチグロ=ロビンが言う。
「いいよ。今んとこサリアだけで。わたし、ここにいつもいるわけじゃないしね。連休とか、長い休みの時にしか来ないと思うもの」
七都は、うーんと伸びをした。
「さ、起きるよ、みんな。きょうはシイディアのところに行くんだからね」
「でも……おかしいよね」
猫の姿のナチグロ=ロビンが、七都と同時に伸びをした後、呟いた。
「ん? 何が?」
「ぼくは結構長くここにいるけど。そんな姫君なんて、見たことないぞ。魔貴族の屋敷だって、ほとんど廃墟になってるし。いったいどこに住んでるんだ?」
「でも、あなたの知らないことも沢山あるとか何とか言ってなかったっけ?」
「そりゃま、そうだけど。だけど、ルーアンも知らなかったみたいだしね。見当がつくとは言ったけどさ。ルーアンは、この城と都を管理してるんだよ。なのに、その彼が知らないなんて」
「魔貴族だって、たまに帰ってきてるんでしょ。カーラジルトみたいに」
「でも、彼らはすぐにまた出て行ってしまうよ。美羽さんがここにいた頃は、滞在していた人たちもいたけどね。だけど、そのシイディアさんは、昔からずっといるんだろ」
「そうみたいだね。カーラジルトも割と年取ってるみたいだし、彼の婚約者だったら、きっと彼と同年代くらいなのかも。でも、なんでみんな出て行ってしまうの? お母さんがいなくなったから?」
「美羽さんというより、風の魔王リュシフィンさまがいないからさ。ここには、風の民を守ってくれるべき魔王さまがいない。そんな不安定で危ないところには、いられない」
「じゃあ、やっぱり、ルーアンかわたしがリュシフィンになれば、みんな戻ってくるってこと……?」
「そういうこと。ルーアンもそう説明しただろ」
ナチグロ=ロビンは、金色の目で、じっと七都を見つめる。
「出て行った人たちを戻すために、この際リュシフィンさまになってみる?」
「やめてよ。あなたまで外堀を埋めるようなこと言うのは」
七都は眉を寄せ、ナチグロ=ロビンを睨んだ。
「それにやっぱり、リュシフィンになるべきなのは、ルーアンなんだからね」
「ま、ぼくもそう思うけどね」
ナチグロ=ロビンは、ふわああと大きな欠伸をした。
サリアはクローゼットから、ワインレッドのドレスとクリーム色のドレス、そして草色のドレスを選んできてくれた。
七都は、ワインレッドのドレスを選ぶ。
七都の目よりも少し明るい色の、かわいらしいドレスだった。銀色の花模様のレースが、あちこちに縫い付けられている。
「サリアって、服のセンス……っていうか、美意識……。結構優れてる?」
七都が言うと、サリアは恥ずかしそうに微笑んだ。
「ごめんなさい。だって、アヌヴィムの女性たちって、その……」
「あれは私たちの制服のようなものですわ。気晴らしでもあります。いろんな色の衣装や宝石をまとって、感情や気分を発散させているのです」
「そうなんだ……」
けばくて変な格好だと思って、悪かったかな。
外見で判断しちゃいけないよね……。
七都は、反省する。
「私は、貴族の姫君のお世話をしておりました。衣装や装飾品を選ぶのも、全部任されていたのです」
「それはすごい。あなたに侍女になってもらって正解だったかも」
それからサリアは、四角い盆の上にアクセサリーを何種類か乗せて持ってきた。
七都はその中から、イヤリングとネックレスを選ぶ。
昨日とは別のものだが、同じ水色の宝石がはめこまれていた。
「やっぱりそれを選ばれるのですね」
サリアが言った。
「姫さまは、昨日もそれと似た宝石を付けておられましたね。気に入ってらっしゃるのですか?」
「シルヴェリスさまの目の色だからだよ」
猫のままのナチグロ=ロビンが、横から口を出して解説する。
「前にこの部屋を使っていたお姫様の恋人がその色の目で、そういう色のアクセサリーがたくさんあるってこともあるよ」
七都は、言い訳した。
「でも結局、わざわざそれを選んだじゃないか」と、ナチグロ=ロビン。
「ま、そうだけど。だって、きれいなんだもの」
「姫さまは、シルヴェリスさまに恋をされているのですね」
水色の宝石を七都に付けながら、サリアが言った。
「恋? そんな激しい感情じゃないよ」
「激しくなくても、きっと恋ですわ」
サリアが、くすっと笑う。
「七都さん、こっちにいる間に、シルヴェリスさまに会いに行けば? 会いたいって言ってたじゃん」
ナチグロ=ロビンが言った。
「ナイジェルに?」
「夏休みも残り少なくなってるし、ここから帰ったら、宿題を片付けなきゃなんないんだろ。夏休み明けには、さっそくテストがあるし。だったら、当分ここには戻ってこれないよ。本気でルーアンに手配してもらったら?」
「そうだね……」
七都は、言葉を濁す。
ナイジェルには、もちろん会いたい。でも……。
いざ会いに行く、会いに行けるとなると、ためらってしまう。
なんだろう、この複雑な気持ち……。
「姫さまはきっと、おそれていらっしゃるのですね」
サリアが言った。
彼女は七都の髪を丁寧に、しかも手早く櫛ですく。
「え?」
「シルヴェリスさまにお会いすることを。会ってしまうと、あの方に恋をなさっていることをご自分でも認めざるを得なくなってしまうと、戸惑っておられるのですわ」
「戸惑ってる……? ……そうかもしれない。彼に会ったら、きっともっと彼のことを好きになってしまいそうだもの。彼の笑顔を見たら。話をしたら……」
初めてナイジェルに会ったとき。
一緒にいた時間なんて、合計したって三十分にもならない。しかも彼は怪我をしていた。
二回目に会ったとき。
自分は幽体離脱をして、幽霊状態だった。
あんな状態で、まともに会えているとはいえない。
そして、今度会うとき――。
彼と生身で会うことになる。初めて、ゆっくりと穏やかに話すことになる。
気持ちが高ぶってしまうのは、目に見えている。
何しろ幽体離脱しているときに、あんなシチュエーションになってしまったということもあるのだ。
幽霊状態とはいえ、彼のベッドの中、彼に乗っかったような体勢で彼に抱きしめられ、優しく撫でてもらった……。
ふと蘇りそうになる甘く切ない記憶を、七都は慌てて消してしまう。
「シルヴェリスさまに恋なんかしたら、七都さんは、もっと魔神族になってしまうからね。人間としての心を保つのが、さらに難しくなっちゃう」
ナチグロ=ロビンが呟いた。
「そうか……。つまりそういうことなのかもしれないね」
七都は、鏡の中に映っている魔神族の少女を見つめた。
ワインレッドのドレスに身を包んだ美しい少女は、妖しい力を宿した魔神の姫君そのものだった。
イデュアルが言ったとおり、自分には暗めの赤がよく似合う。
七都は、改めて思った。
「ぼくとしては、ルーアンに恋するよりは、シルヴェリスさまに恋してくれるほうが助かるんだけど」
「何で助かるんだよ?」
七都が振り向くと、ナチグロ=ロビンは、あたふたと視線をさまよわせる。
「こっちの話!」
「さ、出来上がりましたわ。公爵さまがお待ちですよ」
驚くほどのスピードで七都の髪を整え、花の飾りを付け終えたサリアが、上品に微笑んだ。