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第4章 エヴァンレットの秘密 19

 扉の近くに大きな木があって、その根元に一人の少女が寄りかかっていた。

 紺色のドレスは闇に溶け込み、彼女の白い顔と手だけが、ぼうっと浮かび上がっている。

 金色の髪が、風に吹かれて揺れていた。

 彼女は、魅入られたように扉を見つめていた。


「サリア!」


 七都が叫ぶと、彼女は、はっと顔を上げた。


「姫さま?」


 こわばっていた彼女の顔が、安堵するような表情になる。


「サリア、よかった。心配したんだよ!」


 七都は、彼女に駆け寄って、飛びついた。


「姫さま……」


 サリアは戸惑ったように、自分を抱きしめる七都を見下ろした。


「心配……。わざわざ来てくださったのですか? 私のために?」

「もちろん。当たり前でしょ」


 彼女の体は、冷えていた。手も、頬も。

 そして彼女の体は、心細くなるくらいに華奢だった。

 七都は、もう二度と会うことはないと言っていた見張り人の記録係のことを思い出し、さらに彼女を抱きしめる手に力を込める。


「ごめんなさい、サリア。わたし、あなたを名前で呼ぶなんてこと、言わなければよかったのかもしれないね」

「姫さま。なぜそのようなことを? 私はとても嬉しかったのですよ?」

「だって……。アヌヴィムの女の人たちに、これから名前で呼ぶって言ったら、反対された。名前を忘れるために、ここに来ている者もいるって。あなたもそうでしょ? 名前を呼ばれたせいで、昔のことを思い出したのでしょう。だから、ここでぼんやり、いつまでもあの扉を見ていたんだ」

「そんなこと……ありませんよ」


 サリアは、弱々しく笑った。


「サリア。あなたも、嘘をつくのが下手だね」


 七都は、彼女の顔を覗き込む。


「目が腫れてるよ。頬には涙のあとがある。ずいぶん泣いたんじゃない?」


 サリアは、観念したように、ふっと微笑んだ。


「姫さまをごまかすのは、難しいのですね」

「やっぱり、思い出してしまったんだ、昔のこと……」

「昔……。そうですね。サリアと呼ばれていた頃のこと。サリアという名前を呼んでくれた人のこと、その名前をつけてくれた人のこと……。つい考えてしまいました。消えかけていた記憶をたどって……」

「わたしが……わたしがあなたの名前なんか呼んだから、そのせいで……」


 サリアは、首を振った。


「いいえ。姫さまのせいではありませんよ。姫さまに名前を呼ばれなくても、ここに来れば、そういうことは考えてしまいます。過ぎ去った昔のこと。楽しかった頃のこと。不思議ですよね。そういうことは確かに過去にあったことなのに。今はもうどこにも残ってはおりません。私を愛してくれた人々は消え、その人々がいたという痕跡も消え、彼らを知っている人々も、もういません。私の記憶の中以外には、彼らはもう存在しないのです」

「じゃあ、あなたがずっと彼らのことを覚えていて、ずっと思っていてあげればいいよ。あなたが思っていれば、あなたの大切な人たちは、みんなずっと、あなたの中で生きている」

「私が思っていれば……。そうですね。そうなのかもしれません」

「サリア。あなたのそのドレスは、きっと喪服だったんだね。あなたの思い出と大切な人たちを悼むための……そして、その人たちに対する礼儀の喪服だったんだ……」


 七都が言うと、サリアは辛そうな顔をした。


「でも……。もう疲れました。今はもう、虚しいだけです。みんないなくなったのに……私だけ……私だけが生き残っているのです。魔神族の糧となって……」

 そして彼女は、閉じられた扉を見つめた。

「本来なら、この身は土に戻っているはず。あの扉を越えれば、本当の私に戻ります。扉を出た途端、私の体は溶け始め、数歩も進まぬうちに、風に舞う灰となるでしょう」

「だめだよ、そんなこと考えちゃ!」


 七都は、彼女の肩をつかんだ。

 サリアの頬を涙が伝う。

 透明な涙。人間の涙。

 七都は、その透き通った美しい液体に、しばし見惚れた。


「罪悪感にさいなまれるのです。私だけが……私だけが残って……。時間に逆らって、魔神たちの世界の中で、おもしろおかしく、怠惰に毎日を生きている……」

「罪悪感なんか、ほっとけばいい。あなたは、今、生きている。たとえそれが魔神族の魔力のおかげでも、とにかく今は生きてるんだ。だったら、もっと生きなくちゃ。もっと貪欲でもいいじゃない。気にしないで、精一杯生きていってよ。あなたの寿命が尽きるその時まで」

「姫さま……」

「ルーアンが言ったの。たとえどういう過去や事情があったとしても、今、わたしはここにいる。そして、彼もここにいる。だから、彼はわたしを全力で守るって。わたしも、あなたを守りたい。あなたを、アヌヴィムのみんなを。あなたがここにいるから。そして、わたしがあなたのそばにいるから。それがここにいるわたしの役目でもあると思うもの」

「もったいないです。姫さまにそんなことを言っていただけるなんて……」

「ううん。それにね。わたしはおばあさまを助けられなかった。だから、あなたを死なせたくない」

「テルレージアさまが?」


 サリアが、怪訝そうな顔をする。


「おばあさまね、たぶんだと思うけど、飛び降りたの。あのテラスから、自分で」

「姫さま……」


 サリアは、驚いて口を押さえる。


「そのせいで、ルーアンは、何百年も苦しんでるんだと思う。彼のお姉さんのことだけじゃなくて、そのことでも……。だから、あなたは、そんなこと絶対にしないで」

「私が……私がいなくなっても、誰も苦しみませんわ」


 サリアが、投げやりに呟いた。


「何てこと言うの。わたしが苦しむ! わたしが悲しいよ。あなたがいなくなったら、とても悲しい。あなたを止められなかった罪悪感で、一生悲しむ」


 七都は、思わずサリアのか細い肩を、ぎゅうっとつかんだ。

 けれども、力を入れすぎたことに気づいて、すぐに手を離す。


「ご、ごめんなさい。痛かったよね。わたし、馬鹿力らしいから……」


 サリアが、くすっと笑った。そして七都に言う。


「姫さま。私、姫さまのおそばにいたいです。いてはいけませんか?」

「え? わたしのそば?」

「姫さまのおそばにいたら、余計なことを考えないような気がします。ここに来る気も起こらないでしょう。姫さまのことを考えて、姫さまのことを見ていられれば……。私は、ずっと名前を姫さまに呼んでいただきたいです」

「サリア……」


 七都は、サリアの手をそっと握った。

 サリアは、あたたかい手で七都の手を握り返す。力強く。


「さ、お嬢さんたち。冷えてくるから、そろそろ城に戻りませんかね?」


 ナチグロ=ロビンが、見つめあう二人の少女に、遠慮がちに声をかけた。




「え? なんとおっしゃいました?」


 ルーアンが、ワインレッドの目をぱちくりとさせて、七都を見つめる。


「だからね、サリアをわたしのそばに置くから。侍女として」


 ルーアンが、さらに目を見開いて、七都とそのうしろに控えているアヌヴィムの少女を交互に眺めた。


「侍女? そのアヌヴィムを?」

「サリアだよ。侍女が必要だって言ってたじゃない。彼女ね、話を聞くと、昔、人間の貴族の屋敷で働いていたことがあるらしいの。うってつけでしょ。それに、侍従長にいつまでも侍女の代わりをさせとくわけにもいかないし」

「侍従長? 彼が?」


 ルーアンが、あっけに取られたように、ナチグロ=ロビンをじっと見た。

 ナチグロ=ロビンは、きまり悪げにルーアンから目をそらす。


「ぼくは認めちゃいないよ」

「まんざらでもないくせに」


 七都は振り返って、ナチグロ=ロビンを軽く睨んだ。


「まあ、いいでしょう。あなたが決められたことなのですから」


 ルーアンが、頷いた。

 七都は、ほっとする。

 もっとも、彼が反対しても、そうしようと思ってはいたのだが。


「私も、侍女を見繕ってさらって来る必要もなくなりましたし」

「またそういうことを言う!」


 七都が言うと、ルーアンは明るく笑った。

 もちろん七都には、それが彼の冗談であることは、何となくわかった。


「わたしが元の世界に帰っても、サリアには、わたしの部屋を管理してもらうからね。わたしがいつここに戻ってきてもいいように、ちゃんと整えておいてもらわなくちゃ」

「しかし、彼女はアヌヴィムですからね。ここの貴重なアヌヴィムの一人。我々の糧です」


 ルーアンが、真面目な顔をする。


「ご心配には及びません。公爵さまの口づけは、今までどおりお受けいたします」


 サリアが、お辞儀をした。


「じゃあ、サリア、私たちは部屋に戻ろう。わたし、お風呂に入って、食事にして、それから寝るから」

「かしこまりました」


 サリアが微笑んだ。


「あ、その前に、サリアの部屋も用意しなきゃね。わたしの部屋の近くに」

「侍女用の部屋なら、あなたの部屋の隣にいくつかありますよ」と、ルーアン。


「じゃ、そこから好きなの選んでもらってと。ああ、ルーアン。わたしの部屋に、ジエルフォートさまからもらった掃除機があるから、明日にでも取りにきてね」

「お伺いします。ありがとうございます、私の屋敷にまでお気遣いいただいて」


 ルーアンが、丁寧に頭を下げる。


「堅苦しいよ、ルーアン」

「えーと。じゃあぼくは、もう自分の部屋で寝てもいいのかな。侍女も出来たことだし」


 ナチグロ=ロビンが訊ねる。


「ロビンは、わたしの部屋。今夜も一緒に寝てもらうから」


 七都が言うと、ルーアンの顔がたちまち険しくなる。


「ご、誤解しないで、ルーアン。猫になって枕元で寝るだけなんだからっ! 七都さんが怖がるから」


 ナチグロ=ロビンが、あわてて叫んだ。


「ああ、そういうことですか」


 ルーアンが笑顔に戻った。


「ではきみは、しっかり猫になっていたまえ、侍従長殿」

「侍従長じゃないってば。七都さん、もう怖くないだろ。サリアもいるんだからさ」

「怖いの。それに、起きがけに元魔王さまの顔見ちゃうんだもの。わたしの顔を覗き込んでるの。また覗き込まれそうな気がする」


 ナチグロ=ロビンが、やっぱりホラーかよと言いたげに、おもいっきり顔をしかめた。


「ナナト。明日はシィディアのところにお連れします。そのおつもりで」


 ルーアンが言った。


「うん。本当は今日だったのに、ごめんなさい。とても楽しみだよ、彼女に会えるのが」


 七都は答えたが、ルーアンの表情はなぜか悲しげで、少しこわばっているような気が、七都にはしたのだった。

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