第4章 エヴァンレットの秘密 18
「あら、姫さま」
アヌヴィムの女性たちが、突然姿を現した七都に驚きもせず、にっこりと微笑みかけた。
そこは、広い廊下の途中だった。
彼女たちは、いつものように笑いさざめきながら、集団で廊下を歩いていた。
髪につけた花が甘く香り、たくさんの装飾品が、しゃらしゃらと音をたてる。
「私たち、これから夕食ですの」
「食事の後は、お部屋に帰って、そのまま休みますわ」
「お話は、また明日にでもしましょうね」
「サリアは!?」
七都の迫力ある表情に、彼女たちは眉をひそめ、それから顔を見合わせた。
「サリア?」
「サリアって誰?」
「さあ?」
のんびりと彼女たちが口々に呟く。
「ほら、一人帰ってないでしょ!」
いらついた七都は、叫んだ。
「ああ、ロビーディアンさまが、お食事用に連れて行った……」
「違う! その人じゃないよ。金髪の……」
この人たちは、名前で呼び合わずに、不便ではないのだろうか。
七都は、説明する言葉を探しながら思った。
名前を使わずに誰かを表現するのは、とても難しいのに。
「あ、彼女ですね。そういえば、おりませんね」
「そうね。いないわね、彼女」
「彼女、サリアっていう名前なんですか、姫さま?」
七都は頷いた。
するとアヌヴィムの女性たちの間に、ざわざわした緊張感が、見えない雲のように湧き上がる。
「姫さま、彼女を名前でお呼びになるの?」
「ま、なんてこと」
「何で彼女だけが、姫さまに名前を呼ばれるの?」
小鳥のさえずりのように、彼女たちの声がうるさく入り乱れる。
「彼女だけじゃないよ。これからあなたたちのことは全員、名前で呼ぶから」
七都が慌てて言うと、アヌヴィムたちが、ぱっと顔を輝かせた。
「まあ、名前で呼んでくださるの? なんて嬉しいことなのかしら」
「姫さまに名前で呼んでいただけるなんて、光栄ですわ」
けれども、遠慮がちな暗めのトーンの声が続く。
「私は嫌です。名前で呼ばれるなんて。自分の名前なんて嫌いですもの」
「そうですわ。姫さま、自分の名前を忘れるために、ここに来ている者もいるのですよ」
最後に言ったのは、紫の髪のアヌヴィムだった。
彼女は、諌めるように七都を見つめた。
「ここでは、私たちを名前で呼んでいただく必要はありません。名前がなくても、快適に楽しく暮らしておりますもの」
「あら。私は姫さまに名前で呼んでいただきたいわ」
そう言ったアヌヴィムを、彼女は有無を言わせぬ表情で睨んだ。
睨まれたアヌヴィムは、たちまちうつむいて黙ってしまう。
「私たちは、風の城のアヌヴィム。アヌヴィムの一人。それでよろしいのです」
紫の髪のアヌヴィムが言った。
「名前がないなんて……。そんな……そんな悲しいことないよ。名前って、とても大切なものなのに。個人を区別するためだけのものじゃない。付けてくれた人の愛情とか願いとか、いろんなものが詰まってるんだ。その人が、一生使っていくもの。名前って、生きている証みたいなものなんだよ」
「ここに来ると決めた時点で、名前など捨てております。名前と一緒に、それまでの生活も思い出も、もちろん、名前を付けてくれた親族のことも。そのことを承知で、アヌヴィムになったのですから」
そのとき、ナチグロ=ロビンが廊下に現れる。
彼は、七都を見つけてほっとしたようだった。
「ああ、ここにいた。七都さん、まだ地上には下りてなかったんだ」
「ロビン……」
七都は、すがるような目つきで、ナチグロ=ロビンを見つめた。
「あれ。七都さん、涙目になってる?」
「姫さま、では、私たちはこれで下がらせていただきます」
アヌヴィムたちは、いっせいに七都に向かってお辞儀をする。
色とりどりの大きな花々が、ウェーブを一回したみたいだった。
「サリアのこと……彼女のことが心配じゃないの?」
七都が訊ねると、歩き始めていた紫の髪のアヌヴィムが振り向く。
「戻ってきたければ、戻ってくるでしょう。私たちはお互いに強制はしませんし、束縛も致しません。彼女がどんな行動を取ろうとも、それは彼女が決めたことであり、彼女の責任なのです」
そして彼女は頭を下げ、アヌヴィムたちのグループの最後尾についた。
彼女たちの明るい話し声と笑い声が、遠ざかっていく。
「いいアイデアだと思ったのに……。アヌヴィムのみんなを名前で呼ぶって。喜んでくれると思ったのに。でも、おせっかいっていうか、余計なお世話だったのかもしれない。名前なんて呼ばれたら、昔のこと、やっぱり思い出しちゃうよね。それを忘れるためにここに来てる人もいるんだよね。そんなこと、全然考えなかった。サリアも、嬉しそうに見えたけど、本当はつらかったのかもしれない。嫌だったのかもしれない。わたし、とんでもないことしちゃったのかも……」
「彼女……サリアは、本心から嬉しそうだったよ。それに、七都さんは間違ってはいないさ。呼ばれたいってメンバーも結構いたみたいだし」
ナチグロ=ロビンが言う。
「でも、ま、こんなもんだよ、何事も。新しいアイデアを出したら、必ず一部からは反対意見が出る。全員異議なしで通ることなんて、珍しいことなんだよ。上に立つものがワンマンでない限りはさ。ここだけじゃなくて、七都さんの世界でもそうだよ」
「でも、わたし……彼女たちに影響力ないってことなのかな。ここの唯一の王族なのに。リュシフィンの後継者っていう立場なのに。ワンマンでないにしろ、ある程度は……」
「七都さんは来たばかりだし、ちょっと彼女たちになめられてるってこともあるかもね。もっとワンマン度を強めて、傲慢で高飛車に接したら? きっとおそれおののいて、何でも言うこときいてくれるよ」
「そんなの、やだ。わたしの性格に合わない」
「じゃあ、穏やかに、波風立たないように付き合うんだね」
「でも、とにかくサリアを探さなきゃ。彼女たちの方針はそうでも、わたしは違う。心配だもの。絶対、探しに行くんだから」
「お供いたしますよ、姫君」
ナチグロ=ロビンが、にやっと笑った。
「連れてって。その、外に通じる扉のところに」
七都は、彼の腕を取る。
あっという間に廊下の景色は消え、七都は湿った草の香りがする外の空気に包まれていた。
「あれが……扉?」
何もない夜の空間に、真っ白い扉が浮かんでいた。
雪で作られたような白い扉だった。
表面に彫刻された銀色の模様が、月の光を反射してきらきらと輝いている。
鳥の翼を幾何学模様にしたような、不思議な模様だった。
七都は、外の世界と闇の領域を遮断しているその扉の前に立つ。
「まさか、サリア、この扉を開けて……」
ナチグロ=ロビンは、首を振った。
「扉は開いてはいない。ここが開いたら、城にいたってわかる。ルーアンだって、飛んで来ないはずがない」
「よかった。じゃあ、サリアは外には出ていないんだね。いったいどこに……」
「ほら……」
ナチグロ=ロビンが、七都に目配せをする。
「サリア……?」




