第4章 エヴァンレットの秘密 17
七都は目を開けたが、ぼんやりとした灰色しか見えなかった。
けれども、会話は続く。
<エヴァンレット。なぜここに来た? きみには、こんな姿は見せたくはなかった……>
<どんな姿であろうとも、私はあなたを愛しているわ。ユウリス、ユウリス! 私はあなたに会いたかったの。ただ会いたかったの。だから……だから、ここに来たの>
<エヴァンレット。きみは……なんということを……。その冠は、ルーアンのものだ……>
<ルーアンの了解も取ったわ。彼は、私の幸せを願ってくれた。冠を譲ってくれたの>
<風の魔王リュシフィンになるべきだったのは、ルーアンだ。きみもそのことは理解していたのだろう。なのに、きみは……>
<ユウリス。あなたは……私が会いに来たというのに、嬉しくないの……? 喜んでくれないの……?>
<エヴァンレット。きみがその冠を身に付け、風の魔王になったのなら、私はきみをリュシフィンと呼ばねばならない。他の魔王たちと同じように、きみに接しなければならぬ>
<ユウリス……>
<さあ、もうお帰り、リュシフィン。今、きみには用事はないよ。話すこともない。次の魔王たちの集会まで……>
<ユウリス!>
(だめだ、ユウリスさま! そんなこと言っては。エヴァンレットが耐えられなくなるよ! エヴァンレットは、あなたに会えることだけを望みにして、ここまで自分を保ってきたのに。たった一言でいいの。よく来たねって。来てくれてとても嬉しいよって。それだけでいいんだ。ううん、何も言わなくても、ただ彼女を黙って抱きしめてあげるだけでもいい。それだけで彼女は報われる。彼女の心は壊れないよ。ユウリスさま、そのまま彼女を帰してはだめだ!)
「私には、わからなかったのだ……」
七都の耳元で、ユウリスの声が聞こえた。
「そう、きみの言うとおり、きっとそうすべきだった。けれども私は、自分の立場を優先してしまったんだ。彼女の心より……」
「ユウリスさま。ここにいるの?」
七都の真上にユウリスの顔があった。
ナイジェルによく似た透明な水色の目が、七都を真っ直ぐ見下ろしている。
「だが、もう済んでしまったことだ。それはもう、はるか過去のこと。今さらどれだけ後悔しようが嘆こうが、時間を戻すことは出来ない。私が今出来ることは、さまよえる彼女の魂を探すこと。ただそれだけだ……」
「ユウリスさま……?」
ユウリスの顔が近づいてくる。真剣な眼差し、少しこわばった表情の彼が。
凍ったような薄い色の目が、七都を突き刺すように、そして何かを確かめるように注がれる。
「ユウリスさま! こわい!」
七都は、彼から逃れるように飛び起きた。
猫の姿のナチグロ=ロビンが、びくっとして七都を見つめる。
彼は七都の隣で、グルーミングを途中で止めた姿勢のまま、固まっていた。
「あ、ロビン……。戻ってたの」
「また変な夢を見たの?」
彼が訊ねた。かなりあきれ果てた様子で。
七都は、自分の周囲を眺めた。
日が落ちて暗くなった空が、窓の向こうに広がっている。
窓のこちら側で七都を包んでいるのは、淡い光の灯った薄暗い部屋。
もちろん魔神族である七都の目には、隅々まで見渡すことが出来た。
ユウリスは、どこにもいない。
夢……?
「今、ナイジェルに似た男の人が、わたしを覗き込んでいなかった?」
ナチグロ=ロビンは首を振って、肩をすくめる。
「そうか。たとえ覗き込んでいたって、あなたには見えないんだよね」
「そういうホラーは、やめてほしいんだけど」
ナチグロ=ロビンが言った。
「だいたい七都さん、また目を見開いたまま寝たりなんかして。目の色が赤いし、気味が悪いったらありゃしない」
「気味が悪い? 言葉を喋る化け猫に、気味が悪いなんて言われたくないんだけど」
「ま、お互い様ってことだね。ぼくらは『魔物』なんだから。七都さんは、その魔物の親玉候補だし」
ナチグロ=ロビンは、グルーミングを再開させる。
丁寧に、とても丁寧に、彼は舌で毛をブラッシングし、三日月のような爪の間にも磨きをかけた。
七都は、その平和な光景をしばらく観察したあと、彼に訊ねる。
「それは食後のグルーミング? 食事してきたの?」
「そんなに顔をしかめないでよ。ご飯を食べなきゃ、いくら魔物だって生きていけないんだよ。そのご飯が、たまたま人間だってだけなんだからさ」
「正しくは、人間の生体エネルギー、でしょ」
「とどのつまりは、人間そのものってことさ」
ナチグロ=ロビンはふと顔を上げ、七都を見た。
「そうそ、アヌヴィムがひとり、いないんだ」
「え?」
「ほら、昼間、地上で会ったアヌヴィムだよ。七都さんが名前で呼ぶって言ってた……」
「サリア!!」
七都は、ナチグロ=ロビンの背中をぐいとつかんだ。
「帰ってないってこと? サリアが?」
「転送装置が使われた形跡がないから、まだ帰ってないみたいだね。予定では、もっと早い時間にセットされていた。でも彼女は、その時間はパスしたみたいだ」
「探さなきゃ!」
七都は、ベッドから飛び降りた。
「戻っていないってことは、帰ってきたくないってことだよ。ほっといたら?」
ナチグロ=ロビンが、前足の手入れをしながら、のんびりと言う。
七都は、彼を睨んだ。
「ほっとけって? 何でそんなに冷たいの」
「ここには、彼女たちに危害を加えるものはいない。強盗も殺人鬼もいない。車がぶつかってくることもない。知らない誰かが入ってくることもない。ここほど安全な場所はないんだよ。彼女たちには、七都さんみたいに過去の残像なんて見えないしね。もちろん幽霊も見えない。特に心配することはないよ」
「何か予測も出来ない、とんでもない事故が起こるかもしれないじゃない!」
「そのときは、よっぽど運が悪かったってあきらめるしかないさ。ああ、あと、自分で何かをやらかしたときもね。そういうのも、彼女たちの自由だから」
「それって……。サリア!」
七都は、手をぎゅっと握りしめる。
「まさか、まさか、彼女、外に通じる扉を……」
「いつもそこまで行って戻ってくるって言ってたね。今回は、戻ってこなかったのかも」
「扉を開けたってこと? 死んでしまうのに? そんな勇気ないって言ってたじゃない」
「勇気がなくても、衝動的に開けちゃったってことも……」
七都の姿が、掻き消えた。
ナチグロ=ロビンは、再び肩をすくめる。
「七都さん、充分自在に魔力が使えるじゃん」
そして彼は伸びをして、七都が乱した背中の毛をぶるぶると震わせた。
「仕方ないな。一応、姫君に侍従長と呼ばれるからには、やはりお供はしなきゃならないよな」
七都に続いてナチグロ=ロビンの姿もベッドの上から消え、天辺の部屋には誰もいなくなった。




