第六話「ウシナッタモノ」
「柊夜様──!!」
氷の壁を強引に破り、銀世界へと飛び出した絢芽の目に映ったのは、
肩から鮮血を流しながらも、不敵に笑う冥と対峙し続ける柊夜の姿だった。
「──絢芽? なぜここに、依織は……」
怪訝そうに振り返る柊夜。その瞳に、
微かに黒い影が揺らめいているのを、絢芽は見逃さなかった。
すでに冥の神器による『精神支配』の浸食は始まっている。
「喋らないでください、柊夜様! 今、治します……っ!」
絢芽はボロボロの身体を震わせながら柊夜に駆け寄り、その傷口へ両手を当てた。
花が持つ、生命を育む術式。
残された全幻力を注ぎ込み、花の淡い光が柊夜の肩の傷を包み込む。
肉体の治癒と同時に、彼の精神へと滑り込もうとしていた冥の邪悪な呪いが、
清らかな花の幻力によって完全に押し流され、霧散していく。
「う……っ、絢芽、お前、これは……」
柊夜の瞳から濁りが消え、完全に正気が戻る。
精神支配は、間一髪で免れた。
「……よかった。間に合い、ました……」
安堵の笑みを浮かべ、絢芽がその場に崩れ落ちそうになった─
─その、治療が終わった刹那だった。
「──あはは。素晴らしいね。でも、隙だらけだよ」
ゾク、と世界が凍りつくような寒気が走る。
絢芽の背後、冥の手から放たれたのは、
先ほど氷山をも一瞬で両断した闇の神器の一閃。
「しまっ──」
柊夜が叫び、刀を構えようとした時には、すでに遅かった。
鈍い、肉を切り裂く音が静寂を破る。
「……え?」
絢芽の小さな、掠れた声。
彼女の胸元から、漆黒の刃が突き出していた。
冥の黒刀が、柊夜を庇うようにして前にいた絢芽の華奢な肉体を、
完全に背後から貫いたのだ。
「あはは! 邪魔な守護官がいなくなって、ようやく二人きりになれると思ったのに。
先に君の大好きな人を壊しちゃった。ごめんね?」
冥が引き抜いた刀から、鮮血がしぶきを上げて雪原を汚す。
糸が切れた人形のように、絢芽の身体が地面へ倒れ込んでいく。
「絢芽……? おい、嘘だろ……絢芽!!!」
柊夜の絶叫が、銀世界を引き裂いた。 倒れる絢芽の身体を抱き起こすが、
彼女の胸からは止めどなく赤い血が溢れ出し、
その美しい瞳からは急速に光が失われていく。
「柊夜……様。ごめ、ん、な、さ…い……」
それが、彼女の最期の言葉だった。
絢芽の手が、雪原へと落ちる。
彼女の命が消えた。
手が、体が冷えてゆく。
あの恋しいはずの温もりが消えていった。
「──、───」
プツ――、と柊夜の頭の中で、何かが切れた音がした。
好きな人が、今、自分の腕の中で冷たくなっていく。
「あははは! いいねえ、その顔! 絶望に染まった君の顔、最高に美しいよ!」
嘲笑う冥。
その声を耳にした瞬間──柊夜の理性は、崩壊した。
敷島を護るためでも、未来のためでもない。
戦う理由は、ただ一つ。
(九条を、殺す。肉の一片、細胞の一つまで、跡形もなく切り刻んで殺す。)
「うああああああああああああああああああッ!!!」
咆哮とともに、柊夜の体内から、これまでの比ではない規模の冷気が爆発した。
周囲の空間そのものを絶対零度の地獄へと変えた、
理性を失い、ただの化け物と化した柊夜が、
地面が抉れる勢いで踏み込み、一閃を放った。
ガギィィィィィィィィンッ!!!!!
氷河と黒刀が激突し、周囲の氷剣が衝撃波で吹き飛ばされる。
「ははっ、凄いね! 理性を捨てたか!」と叫ぶ冥の顔に、
柊夜は構わず刀を叩きつけ、狂ったように剣を振り始めた。
引くことも、守ることも忘れた死闘。
二人は、互いの肉体を切り刻みながら血みどろの乱舞を繰り広げる。
そのあまりの激しさに、戦場は誰の手も付けられない混沌の渦へと巻き込まれていった。
──だが。
その二人の凄絶な殺し合いの最中、激しい戦闘の余波が届かない片隅。
ぽつんと横たわる、冷たくなった絢芽の遺体の傍らに。
一人の男が、姿を現した。
整った容姿に、どこか浮世離れした静かな佇まい。
その身に纏うのは、歴史の深みを感じさせる独特の幻力。
──時の継承者「久遠 皓」。
皓は、血の海に横たわる絢芽を見つめ、静かにその場に片膝をついた。
「……ひどい有り様だね」
その声は、柊夜の叫びや、冥の狂笑にかき消されるほど静かだったが、
確かな重みを持っていた。
皓はそっと、自身の懐から古めかしい金色の懐中時計を取り出す。
時計の針は、完全に静止していた。
「ここで柊夜は倒れ、この敷島は終わる。
―それが正史だ」
皓は絢芽の冷たくなった手にそっと触れ、懐中時計の竜頭をカチリ、
と静かに押し込んだ。
その瞬間、静止していた時計の針が、力強く刻みを始める。
チ・ク・タ・ク──。
「僕がここに現れたということは、歴史の歯車が狂ったということさ。
……さあ、始めようか。絢芽。
君の、そして彼らの未来を取り戻すための、時間逆行を」
激化する氷と闇の死闘。その傍らで、時の継承者の放つ金色の光が、
静かに、しかし存在感を放ちながら絢芽の身体を包み込み始めていた──。
この話書くのつらいわ
つらい




