第五話:闇の神器
「死ねぇッ、花菱絢芽ェェェーーー!!!」
狂乱の叫びと共に、依織の放った漆黒の刃が網膜に迫る。
右腕の負傷、枯渇寸前の幻力、そして眼前に迫る必殺の一突き。
絶体絶命という言葉すら生温いその瞬間、絢芽の精神は、驚くほど澄み渡っていた。
(──ここで私は、絶対に倒れるわけにはいかない!)
ドォォォォン……! と、氷の壁の向こうから響く、柊夜と冥が激突する轟音。
それが絢芽の心臓を激しく突き動かす。
「……ハァァァッ!!」
絢芽は残された左手だけで、愛用の扇「桜蘭」をこれ以上ないほど力強く、
天に向けて振り抜いた。
放ったのは、攻撃のための術式ではない。
己の周囲の空間そのものを、猛烈な全方位の暴風で弾き飛ばす拒絶の閃光──。
「──『爛漫夜桜』──!!」
ドガガガガガガガガッ!!!!!
刹那、白銀の雪原に、文字通り何万片もの大輪の桜が爆発するように咲き乱れた。
依織の放った闇の刺突が、絢芽の喉元へあと数センチというところで、
密集した桜の防壁に衝突する。
激しい幻力の斥力が火花を散らし、大気を激しく軋ませた。
「な、に……っ!? まだ、これほどの幻力が……!?」
「言ったはずです……騙し合いは、私の勝ちだと!」
桜の爆風に押し戻され、一瞬だけ体勢を崩した依織。
そのわずかな、しかし致命的な隙を、絢芽は見逃さなかった。
肉体が悲鳴を上げるのを無視し、絢芽は一歩、前へ踏み込む。
引き裂かれた右腕を無理やり動かし、左手と合わせて「桜蘭」を構えた。
「これで──本当に最後です!!」
桜の花弁を纏った絢芽の身体が、一筋の流星と化して依織の懐へと滑り込む。
美しく、そして残酷な弧を描いて振るわれた扇の刃が、依織の細い首筋を、
今度こそ寸分の狂いもなく深々と切り裂いた。
ザシュゥゥゥッ!!!
「あ、……が……ッ、……」
鮮血が激しく宙を舞い、白銀の地面を赤く染めていく。
依織の持つ漆黒のナイフが、カラン……と虚しい音を立てて雪原に転がり、
光を失って崩壊していった。
ドサリ、と地面に膝をつく依織。
三人目の身体は、もう闇に溶けて消えることはなかった。
それが、彼女の宿すストックが完全にゼロになった何よりの証拠だった。
死闘の末、絢芽はついに闇の守護官を討ち果たしたのだ。
激しい呼吸を繰り返しながら、絢芽は「桜蘭」を構えたまま油断なく依織を見下ろす。
傷口を押さえ、ドロドロとした血を吐き出しながら、
依織は天を仰いで不気味に、しかしどこか満足げにクスクスと笑い声を漏らした。
「あは、あははは……。強い、ね……やっぱり、継承者様は、格が、違うわ……」
「……」
「でもね……お嬢さん。本当の絶望は……これからよ……」
依織の濁った瞳が、ゆっくりと絢芽の顔へと向けられる。
その死に際の表情には、残された最後の力を振り絞り、
致命的な「呪い」を植え付けようとする強烈な悪意が宿っていた。
「せっかくだから、最後に教えてあげましょうか
…私の、九条様はね……ただ強いだけじゃないの……。
あの人が持つ神器の、本当の、能力を……教えて、あげる……」
依織はゴホリと大きく血を吐きながら、言葉を繋いだ。
「あの黒い刀が宿す『闇』はね……肉体を切るためのものじゃないのよ。
あれは、斬りつけた相手の心……魂そのものを侵食する、精神支配よ……」
「──っ!?」
「どんなに強い、力を持っていようとも……どんなに固い、絆があろうとも
……一度でもあの刃に掠り、その闇が精神に、入り込んでしまえば……終わりよ。
完全に冥様の奴隷になり
……自分の意志で、大切な人を殺す人形になるの……」
依織の口元が、禍々しく釣り上がる。
「ははは……! 彼氏くん。冥様に、切られているんじゃない?
──もう、始まっているかも、しれないわねぇ……!」
「柊夜、様……!?」
「あははは、ハハハハ……ッ! 頑張って、ね……お嬢、さん……ッ」
ひときわ大きな狂笑を最後に、依織の瞳から完全に光が消え失せた。
その肉体は今度こそ、ただの物言わぬ屍となって雪原へと横たわり、静かに冷えていく。
だが、絢芽には勝利の余韻に浸っている時間など、一秒たりとも残されていなかった。
(嘘……。そんな、精神支配だなんて……!)
もし、依織の言った言葉が真実だとしたら
──柊夜の心は、すでに九条の闇によって内側から蝕まれ始めている可能性がある。
「柊夜様……っ!!」
絢芽は自分の怪我の痛みなど完全に忘れ、叫ぶようにして駆け出した。
正面にあるのは、柊夜が二人を分断するために作り出した、分厚く強固な氷の絶壁。
本来なら、身内である絢芽の術式でも容易には突破できない氷の山。
「開いて……お願い、開いて、桜蘭ッ!!」
絢芽は残された全ての幻力を「桜蘭」に込め、目の前の氷壁へと叩きつけた。
爆発的な桜の波動が氷を激しく削り、ひび割れを走らせる。
強引に作った一人が通れるほどの隙間に、絢芽はボロボロの身体を滑り込ませた。
氷の破片が肌を切り裂くのも構わず、壁の向こう側へと飛び出す。
視界が開けた瞬間、絢芽の目に飛び込んできたのは
── 月光に照らされている無数の氷剣が地面に刺さっている中、
漆黒のオーラを放つ九条冥と、
それに対峙して刀を構える、柊夜の背中だった。
「柊夜様ーーー!!!」
絢芽は悲痛な叫びを上げながら、愛する人の元へと、
狂ったように雪原を駆け抜けていくのだった。
疲れました。
寝ます。




