第7話 管理画面
ミオは、寒さにも空腹にも起こされず、朝まで眠った。
新しい服とブーツを身につけ、自分の手で扉を開けた。
誰かに頼まなくても外へ出られる。
まだ、それだけのことに安堵してしまう。
指揮所の奥から、金属の触れ合う音が聞こえた。
音をたどると、広い部屋にクロウがいた。
中央には大きな木の机が置かれている。
机の上には何もない。
だが、クロウはその前に立ち、空中へ指を動かしていた。
黒い鎧も、壁際に立てられたハルバードも、昨日と変わっていない。
「おはようございます」
「ああ」
クロウは短く答えた。
黒い兜がミオへ向く。
「眠れたか?」
「はい」
ミオは少し迷ってから続けた。
「こんなに眠れたのは、ここに来てから初めてです」
クロウの視線が、ミオの顔から少し上へ移る。
頭上に出ているという表示を確認しているのだろう。
「状態も戻ってるな」
「分かるんですか」
「ああ。昨日よりはましだ」
それだけ確認すると、クロウは再び机の前へ向き直った。
「先に食べるか?」
「今は大丈夫です」
昨日ほど強い空腹はない。
身体の重さも薄れていた。
クロウは一度頷き、机の反対側を指した。
「なら、管理画面を試す」
「昨日言っていたものですか」
「ああ」
ミオは机の前へ立った。
近くで見ても、空中には何も浮かんでいない。
クロウの指だけが、見えないものを選んでいる。
「俺の画面はミオには見えない」
「やっぱり、何もありません」
「自分の画面を開くつもりでやってみろ」
昨日と同じように、右手を前へ出す。
何もない空間を指でなぞった。
横へ払う。
軽く押す。
それらしい動きを何度か繰り返してみたが、何も起こらない。
「できません」
「拠点を意識してみろ」
「拠点を?」
「この建物だけじゃない。柵の内側をまとめて見る」
言われた通りに、ミオは目を閉じた。
門。
柵。
倉庫。
厨房。
宿舎。
兵舎。
井戸。
昨日まで村だった場所を、一つずつ思い浮かべる。
けれど、頭の中では別々の建物にしかならなかった。
「分かりません」
「外を見た方が早いか」
クロウは机から離れ、部屋を出た。
ミオもその後を追う。
指揮所の前からは、拠点の中央がよく見えた。
厨房の前には、朝食を受け取るための列ができている。
倉庫では、女たちが木箱や穀物袋を運んでいた。
門の周囲には、農民兵八体が配置されている。
同じ装備を身につけ、同じ姿勢で立っているため、遠目には区別しづらかった。
住民たちはクロウの姿に気づくと、声を小さくした。
正面から近づこうとする者はいない。
それでも、怒りや恐怖を含んだ視線は向けられていた。
ミオにも、その一部が刺さる。
黒い鎧の後ろに立っているからだ。
「見えているものを、場所ごとに分けろ」
クロウが言った。
「厨房には何がある?」
ミオは厨房を見る。
食事を配っている女。
木椀を受け取る老人。
列の後ろで苛立っている男。
「食事を作る人と、受け取る人がいます」
「そうじゃない」
クロウの声は平坦だった。
「誰がいるかじゃない。何をする場所か考えろ」
「食事を作る場所……です」
「そのまま見ろ」
ミオは厨房へ意識を向ける。
昨日まで使われていなかった古い家だった。
今は大きな竈があり、調理台があり、拠点内の住民へ食事を配っている。
そこにいる者の顔ではなく、建物の働きだけを考える。
食事を作る場所。
厨房。
視界の端で、淡い光が揺れた。
「……え?」
目を向けた瞬間、光は消えた。
見間違いかと思い、瞬きをする。
「何か見えたか?」
「今、光ったような……」
「意識を外すな」
ミオはもう一度、厨房を見る。
誰が何を思っているかではない。
食事を作り、配るための場所。
厨房。
今度は、光が消えなかった。
建物の上に、薄い文字が浮かぶ。
《厨房》
水面へ映した文字のように、輪郭が揺れている。
それでも読めた。
「見えます」
ミオは息を止めた。
「厨房って、書いてあります」
「他には?」
文字の下へ意識を向ける。
さらに細い表示が浮かんだ。
《稼働中》
《厨房ユニット 二体》
「厨房ユニットが二体います」
「合ってる」
厨房で働いているのは、昨日クロウがユニット化した二体だった。
見れば分かる数だった。
だが、目で数えるより先に、表示が答えを示している。
ミオは倉庫へ目を向けた。
古い物置から作り替えられた建物だ。
入口には大きな扉があり、中では穀物袋や木箱が棚へ収められている。
物を保管する場所。
倉庫。
《倉庫》
先ほどよりも早く文字が現れた。
その下に、別の表示が浮かぶ。
《糧食 少》
「糧食が少ないと出ています」
「ああ。一般糧食を配れば減る」
クロウの声に驚きはない。
最初から見えていた項目を、ミオがようやく読めるようになっただけなのだろう。
「なくなったら、どうなるんですか」
「食事を出せなくなる」
単純な答えだった。
ミオは厨房の列を見る。
今は、一人ずつの顔よりも《糧食 少》の表示が気になった。
今日と同じ量を配り続けられるのか。
あと何日分残っているのか。
「残っている量までは見えません」
「最初は項目だけでいい」
クロウは門の方を指した。
「次は防衛だ」
ミオは農民兵を見る。
昨日まで村人だった八人。
今は揃った装備を身につけ、槍を持って門の周囲に立っている。
そのうちの一体には見覚えがあった。
家族らしい女が何度名前を呼んでも、反応しなかった男だ。
その時の声を思い出した瞬間、薄く浮かびかけた表示が消えた。
「見えなくなりました」
「個人を見てるからだ」
クロウはすぐに言った。
「部隊として見ろ」
「部隊……」
「門を守る兵だ」
ミオは農民兵の顔から視線を外した。
槍の向き。
立っている位置。
門の周囲へ分かれた配置。
外から何者かが来れば、最初に止める者たち。
一体ずつではない。
門を守る一つのまとまり。
淡い枠が、農民兵全体を囲んだ。
《農民兵 八体》
その下に、もう一つ表示が浮かぶ。
《防衛力 低》
「八体……」
ミオが呟く。
昨日まで、それぞれ別の人間だった。
家族がいた。
話す相手がいた。
怯え、怒り、逃げようとしていた。
今は、表示の中で一つの部隊になっている。
「見えたな」
「はい」
嬉しいとは思えなかった。
何か特別な力を得たという感覚もない。
見えてはいけないものが、見えるようになった気がした。
農民兵の一体が槍を持ち直す。
ミオには、八体の表示の一部が動いたように見えた。
誰が動いたのかではない。
部隊の一体が動いた。
そう考えたことに、自分で驚く。
表示を消そうと瞬きをすると、枠が薄くなった。
「無理に消す必要はない」
クロウが言った。
「慣れれば、必要な時だけ出せる」
「クロウさんには、いつもこう見えているんですか」
「必要な時はな」
「人も、数字に見えるんですか」
「管理画面ではそうなる」
クロウは門へ兜を向けた。
「個別に見ても、拠点は動かせない」
ミオには、すぐに納得できなかった。
だが、住民の顔を一人ずつ見ていると、何も考えられなくなることは分かった。
怯えている者。
怒っている者。
泣いている者。
こちらを責めている者。
それぞれの表情を見れば、クロウがしていることは恐ろしい。
拠点全体を見れば、門は守られ、食事が配られ、井戸の水も使えるようになっている。
どちらも、同じ場所で起きているはずだった。
「中央を見ろ」
クロウに言われ、ミオは視線を戻した。
空き地には、何をすればいいのか分からない住民たちが集まっていた。
以前使っていた家へ戻ろうとして、農民兵に止められた者。
厨房の列を眺めている者。
倉庫の前で立ち尽くしている者。
互いに小声で話している者もいる。
「今は何に見える?」
「村の人たちです」
答えても、表示は出なかった。
「まだ役割が決まっていない人員だ」
「人員……」
「誰をどこで使うか考えろ」
その言葉を聞いただけで、胸の奥に抵抗が生まれた。
村人ではなく、人員。
人を働き方で分けるための言葉だった。
ミオは中央に集まる者たちを見る。
昨日、山賊へ差し出されるミオから目を逸らした女がいる。
助けを求めても何も言わなかった老人もいる。
村の者ではない。
いなくなっても問題ない。
その言葉に反対しなかった者たち。
顔を一人ずつ見ていると、胸が苦しくなった。
ミオは視線をぼかす。
今は、どの役割にも固定されていない者たち。
拠点の中にいる住民。
淡い光が浮かんだ。
《未ユニット化住民》
数字らしいものも続いたが、揺れていて読めない。
ミオは無意識に息を吐いた。
顔を見ていた時より、胸の苦しさが薄い。
あの人は自分を恨んでいるのか。
また納屋へ戻そうとするのか。
クロウがいなくなれば、自分へ何をするのか。
そう考えずに済む。
そこまで考えて、ミオは自分が何をしているのかに気づいた。
「嫌です」
声が漏れた。
クロウの兜が動く。
「何がだ?」
「こうやって見ると、あの人たちが人に見えなくなります」
クロウは中央の住民たちへ兜を向けた。
「管理画面だからな」
「それでいいんですか」
「ああ」
迷いのない返答だった。
「拠点の状態を確認する時に、全員の事情を見る必要はない」
「でも……」
「個別の情報が必要な時だけ見ればいい」
クロウは何もない空間へ指を動かす。
「今は施設と人員を確認してる。それ以外は後でいい」
現地の人間をすべて無視しろと言うのかと思った。
だが、クロウは必要な情報まで捨てろと言っているわけではない。
必要なら見る。
必要でなければ、管理に関係する部分だけを見る。
その切り替えを、クロウは当然のこととして行っている。
ミオはもう一度、中央を見る。
《未ユニット化住民》
表示はまだ残っていた。
文字の向こうで、住民の一人がこちらを指さす。
何かを言っている。
距離があるため、声までは聞き取れない。
責められているように見えた。
表示へ意識を戻す。
住民の一人が騒いでいる。
そう考えれば、身体が固まらなかった。
そのことが怖かった。
同時に、少しだけ楽でもあった。
「厨房の列が長いな」
クロウが言った。
ミオはそちらを見る。
一般糧食を受け取る列は、まだ建物の外まで続いている。
厨房ユニットは二体だけだった。
一体が木椀へ粥を入れ、もう一体が煮た野菜を分けている。
《厨房》
《稼働中》
《厨房ユニット 二体》
表示が先ほどよりも安定して浮かぶ。
「厨房ユニットが足りないからだと思います」
「そうだな」
クロウは短く答えた。
褒められたわけではない。
ただ、見えている状況と判断が合っていると確認されただけだった。
それでも、先ほどまで理解できなかったものが少し分かった。
厨房ユニットが二体しかいない。
だから列が長くなる。
倉庫の糧食が少ない。
だから同じ食事を配り続けるには限界がある。
農民兵が八体いる。
それでも防衛力は低い。
一つずつが、別の問題ではない。
すべてが同じ拠点の中でつながっている。
「指揮所へ戻る」
クロウが歩き出す。
ミオも後を追った。
部屋へ戻ると、クロウは再び木の机の前へ立った。
「もう一度、拠点全体を見ろ」
ミオは窓の外へ視線を向ける。
門。
農民兵。
厨房。
倉庫。
宿舎。
井戸。
中央に集まる未ユニット化住民たち。
先ほどより、建物同士のつながりが分かる。
厨房は倉庫の糧食を使う。
農民兵は門を守る。
住民は食事を受け取り、宿舎へ戻る。
一つずつ別の場所ではない。
すべてが同じ拠点の中で動いている。
視界の中央に、淡い文字が現れた。
《エルク拠点》
その下に、いくつかの項目が浮かぶ。
《糧食 少》
《防衛力 低》
表示もすぐに薄くなる。
それでも、今度は完全には消えなかった。
「見えました」
ミオは小さく言った。
「エルク拠点って」
「ああ」
「糧食が少なくて、防衛力も低いです」
「合ってる」
クロウの声は淡々としている。
それでもミオは、もう一度表示を見ようとした。
住民の顔を見るより、項目を見る方が簡単だった。
何を思われているか考えなくていい。
誰が自分を山賊へ差し出すことに賛成したのか、思い出さずに済む。
糧食が少ない。
防衛力が低い。
役割候補が多い。
そう考えるだけなら、次に何が必要なのかを考えられる。
表示の端に、新しい文字が浮かんだ。
《周辺資源――》
読もうとした瞬間、文字が揺らぐ。
窓の向こうに見える森へ、淡い枠が一瞬だけ重なった。
少し遅れて、川のある方角にも同じ光が浮かぶ。
《採取候補》
文字はすぐに薄くなった。
「今、別のものが見えました」
「何が出た?」
「周辺資源と……採取候補、だと思います」
クロウが窓の外へ兜を向けた。
村の向こうには森がある。
さらに先には川も流れている。
「次は外を確認する」
ミオも森へ目を向けた。
森は、昨日まで逃げれば迷うだけの場所だった。
何があるのか分からない。
暗く、道もなく、一人で入れば戻れないかもしれない場所。
だが今、一瞬だけ別の見え方をした。
拠点に足りないものを補える場所。
何かを持ち帰るための場所。
その考えが浮かぶと、消えかけていた文字が再び薄く光った。




